2021年7月20日火曜日

独創性の甲斐

(息子は)スマホに必要性を感じていないのよ、と別れた妻が教えてくれた。Spotifyでも入れて音楽聴こうとか思わないのかな、と聞いたら「ぜんぜん興味なさそう」。

とはいえ、iPadは持っているからインターネットから完全に離れているわけではない。彼はいわゆるデジタルネイティブだから、ぼくの若い頃よりネットリテラシーもインターフェースとの親和性も高い。それでも? だからこそ? 本人の中では、スマホでなければできないことというのが、特にないのだろう。パソコンとiPadさえあればなんとかなってしまう。

あらためて考えてみると、今のぼくにとっても、スマホはなんの役に立っているんだろうと思う。

携帯性が高いPC、あるいは、何千冊も入った文庫本。Kindleは役に立つが、スマホの画面はそろそろ小さくてしんどくなってきた。Kindle readerを別に買いたい。アプリ? ぜんぜん使っていない。他人との連絡はほとんどPC経由だ。コミュニケーションの大半がデスクで完結している。知人がLINEスタンプを出すたびに購入しているけれど送る相手がいない。

強いて言うならば、親兄弟も含めた家族が「いつでもぼくを呼び出せる安心」というのがスマホの最大の利点なのだ。ただしこれも本気でiPadに移行してしまえば特に困らないかもしれない。旅行に行かず外食もせず、テイクアウトを写真に撮るわけでもない今、スマホは一日中充電器に挿しっぱなしで、手に持つ機会も減っている。

ぼくは少しずつ脱スマホしつつあるのかもしれない。息子はぼくより早く気づいただけのことなのだ。きっと、それでいいのだと思う。カメラがあり、本があり、PCがあるのだから。


それでもぼくはきっとこの先もスマホを買い換える。




この世の中で傷をなるべく被らずに生きていくにあたっては、「人と違うことをしない」のがカギだ。もちろんクリエイティブな場面の話はしていない。創作においては傷を恐れずにぐんぐん突き進むことが必要になる、でもそういうシーンはいつでも何度でも訪れるわけではない。ここぞというときに人と違うことをすればいいし、いつもいつも逆張りしておくことにはデメリットも多い。

たとえば、だれもがスマホを持っているときに自分だけ持っていないと、「なぜスマホを持たないの?」と質問される、この質問には一切中身がなくなんの意味もないので非常にストレスである。「余計な質問をされる」ことで自分の時間がわずかに削られることが耐えがたい。無駄で無意味なコンフリクトを減らすためにスマホを持つ。そうすれば誰も「なぜスマホを持たないの?」と質問しないだろう、ぼくはわりとそういう考え方をするタイプである。

そういうぼくが、人と違うことをするにあたっては、「なぜ人と違うことをするの?」と質問されたときに答えられる程度の理論武装をあらかじめしておく。なぜツイッターをするの? なぜ医療情報にかかわるの? なぜ本を書くの? どれにも新書一冊分の答えがあるから、いくら尋ねられても平気だ、そういう準備が整ったあとで人と違うことをする。いつからかそういう風になった。瞬発力に若干のブレーキをかけることになるが、結果的に猪突猛進とは異なる大局的・陣形展開的な突撃ができるので、チャレンジのありかたとしては悪くない。



あと、もうひとつ、人と違うことをするのは、周りに人がいないとき。

誰かと同じなのか違うのかすらわからないことをするならば、孤独の真っ最中に限る。

周囲との接続を切断してしまったあとならば、誰に気兼ねをすることもないオリジナリティで勝負できる。

逆に言えば、誰ともつながっていない早朝4時ころに思い付いたことが「誰かと一緒」ならば、それは早起きをした甲斐がないということになる。