「ほぼ日の學校」というアプリがあって( https://school.1101.com/ )、学校というからにはいろいろな先生が出てきて授業をすると思われがちだが、実際には15分弱のおもしろ動画がたくさん見られてじつに素敵なアプリであるのでおすすめしておく。
さいしょの1か月が無料ということでとりあえず登録。ここまで、詩人・谷川俊太郎さんと写真家・幡野広志さんの動画を見て、大変満足している。ひとつの授業が数本の動画に分かれており、字幕がついていて、途中でやめても翌日アプリを立ち上げればやめたところからまた見られる。UI(ユーザーインターフェース)もシンプルで使いやすい。
幡野さんの動画なら、まず5本目あたりを見ると迫力に感動すること間違いない。騙されたと思って見てみるといい。
さて、幡野さんの6本目(最後の動画)で、スマホやデジカメで撮った写真を「加工」する作業についての話があった。「RAW現像」である。こう聞くとむずかしそうだが、明るさを調整し、色味の青っぽさ・オレンジっぽさを軽くいじって、黒い部分を少し強調……と、やっていることはインスタのフィルターと変わらない。たしかにおしゃれフィルターかけると写真ってぜんぜん違うよねー、と納得できる。実例を見るとその効果の鮮やかさに驚く。とてもいい授業だ。クスッと笑える部分もあって楽しい。
ぼくはこれまで自分のデジカメで撮った写真をまともに「RAW現像」なんてしたことがなかったのだけれど……「アプリを使って写真の調整すること」自体はもう15年くらいやっているなあと気づいた。それはなにかというと、顕微鏡で撮影した病理組織像の調整なのである。
実際に何枚か見てもらおう。
いずれも、細胞が写っている写真なのだが、加工後のほうがキリッと見やすくなっているのではないか。
すべて、今から15年前にぼくが「とある研究会で病理診断の解説をするために」用意した写真である。
ご丁寧にも当時のぼくは、「加工前写真」と「加工後写真」をフォルダに分けて保存してあったので今回こうして並べてみた。若い頃のほうが几帳面だ。
フレームにあわせて画像を最大化し、明るさ、色温度、コントラストを調整して、会場でスクリーンを見る人々にわかりやすいように、写真をいじっている。こうやって見ると全然違うよね。
ただし……。
今度は「最近のぼく」がプレゼンに使っている写真を見てもらおう。
こちらは「ノー加工」である。ホワイトバランスがちょっとてきとう。色味が詰まっている感じがある。なんと画面左上に至っては少しボケている。でも、このままで、研究会に出してしまっている。
なぜぼくは写真の加工にあまり時間をかけなくなったのか。
それは、ベテランの病理医や臨床医たちが、「加工された写真を見るとなんだかモゾモゾする」と言い出したからなのだ。顕微鏡で見る色味に比べて、パワポの写真があまりにハッキリくっきりしすぎていると、「診断を誘導するために画像をコントロールされているような気がして気分が悪い」とのことである。
そもそも生体内の細胞に色はついていない。ピンクや青紫というのはあくまでヘマトキシリンやエオジンといった色素を使って、人間が恣意的に乗っけた色調に過ぎない。だから、「本来の細胞の色」なんてものすら存在しないのだけれど、熟達した臨床検査技師たちによって調整されたプレパラートの色をフォトショでちょっといじると、「お前、これ、なんかいじっただろ!」とバレてしまい、「核がキリッとしすぎている、これだとより『悪性っぽく』見えるぞ、あまり加工をするな!」とみんな困ってしまうのだった。
じつは、最後に出した写真にはものすごい量の「知恵」が詰めこまれている。具体的な症例の話だからここでは詳しくは説明しないが、この病変がどのように発育進展してきたのか、これを放置しておくとその後どうなるのか、といった「時間軸情報」が猛烈に含有された、ある意味「理想的な組織写真」なのだ。ピントはややボケているし、画面の右端に染色時の「ノイズ」的なものも入っている、しかし、「この写真を撮ることでぼくが病理医として伝えたいこと」は余すところなく組み込まれている。
幡野さんの写真はいずれも見た人に「ああ、これが好きだから、気に入ったから撮ったんだな」と、幡野さんの心を思わせるようなものばかりだ。アプリの調整技術があるとかレンズの選び方がうまいとか、光学的な理解が深いとか、そういった「写真技術」以上に、幡野さんは自らの写真を通じて見た人の網膜に幡野さんを写し出す気概がある。
つまりそういうことなんだよな、たぶん、「巧い組織写真」というのもおそらくあるんだけれど、「うまい・へた」を越えたところにある、「意図が伝わるいい組織写真」のほうがはるかに大事なのだろう。や、これも完全に幡野さんの授業の受け売りである。いいことを言っているなあ。いい学校だなあ。