2021年7月26日月曜日

推しの構造でがんばる

「弱い者いじめ」はだめだ! と言いながら「悪い者いじめ」をしている人がいっぱいいる。こいつは悪いことをしたのだから、こいつは○○に対して責任があるのだから、直すべきところは直さないとみんなに迷惑がかかるのだから、といった、「悪い者にはいじめられてもしかたがないだけの理由がある」という理論、これがいつしか拡張・敷衍されることで、弱い者いじめが発生しているように思う。「だってこいつが悪いんだ」を、許される言い訳にして良いのか?

弱い者をいじめるような発言者はミュートする。そして、「悪い者いじめをよかれとおもってやっている人」をもミュートする。その両者はだいたい同じことだ。世の大抵の人は、弱い者いじめも、悪い者いじめも、そんなに頻繁にはやっていないが、たまに、いじめという行動によって報酬回路が作動するようになってしまった人というのがいて、そういう人のツイートを遡るとほとんど全部政治や政策、環境や理念、ニュース、ウェブ記事、自分と立場の違う何モノかへの「いじめ」で埋め尽くされている。目に付くたびにミュートしていく。いつしかぼくのタイムラインには、好きな本や音楽、風景、美術などを他人にひたすらおすすめしていくアカウントばかりが表示されるようになった。「いじめ」の対局にあるのは「推し」なのだろう。



「あの人は社会悪と戦っていて、とてもがんばっているから、多少行きすぎた言い方があっても許してあげてください」と言われたことがある。でもぼくは、弱い者いじめをする人をよく観察してみて「すごくがんばっているなあ……」と感じたことがある。畑を耕すクワでそのまま隣人の家の壁を耕した人を見て「がんばっているから許す」というのはおかしい。努力している、がんばっている、だから多少過激な部分には目をつぶれ、という意見はピント外れだ。がんばって目と脳を研いで、自分の行きすぎをコントロールする、それこそが成熟した人間が本当に「がんばる」ということだ。



「あのアカウントはものすごく多くの人に悪影響を及ぼしている、だから自分の手を汚してでもぶっ潰さないとだめだ!」……そこまでの気概があるのならば、その迷惑なアカウントより圧倒的に強い発信力を持つべく、それこそ、どれだけ自分の手を汚してでも自分の強化に精魂を込めるべきである。「自分には発信力なんて望むべくもない、だからせめて、悪い人を叩くことで社会に貢献したい」というのはへりくつだ。発信する力がないのなら叩く力だってどのみち大したことはないし、「弱い者が強い者を叩く」という構造を許容している時点でその人は「いじめ」の相似形をひとつ世に残しているに過ぎない。



「いじめ」という構造は必要悪ではなく純粋悪に近い。結果的にいじめの構図になってしまった、みたいな、未必の故意のいじめであってもうなだれるくらいはしたほうがいいとすらぼくは考えている。



完璧な人間になんてなれない、誰にも迷惑をかけずに生ききることも難しい、それでも、みずからいじめの構造を許容することだけはしたくない。誰かを叩くことが社会をただ良くすることなんてない。かつて、「どこかの誰かがやらなければいけないことだ、きれいごとはともかく悪い者は誰かが叩き続けなければならない」と言い放った人がいた、いや、今もいる。そういう人の周りには暴力に引かれた屈強なインターネット戦士達が集まって天下一いじめ会を開催している。「悪い者を叩くことで悪い者の数を減らせる」というのは「ウイルス性のかぜに抗生物質を用いる」のと同じで有効性を示すエビデンスがない。非劣勢すら証明できないだろう。叩くことが世のためになる、と考える人は、もうそうしてずっと「いじめの構造」を世に生み出し続けている。



ぼくはいつまでも「いじめを生み出す正義」に抗う。「推しの構造」でいじめの総数をわずかずつでも世の中から減らし、結果的に「悪い者たちのツイート数」を「そう悪くないふつうのツイート数」が上回るように手を汚し続ける。そうすることが「がんばる」ということなのだと思う。なぜなら叩く方が脳を使わない。なぜなら推す方がエネルギーを消費する。なぜなら悪貨を良貨で駆逐することが一番難しくてしびれるほど手間がかかる。だからこそ「がんばる」必要があるのだ。