2021年7月2日金曜日

ほんとは25

これを書いているのはある日の早朝。
本日の午前中の宅配便で、2つほど荷物が届く予定だ。


ひとつはある教科書のゲラ。2年前に一度書き終わっている原稿だが、いろいろあって初校がこのタイミングになった。きっちり仕上げて世に出す。10冊目の単著。これまでぼくが書いてきた本のうち、病理診断という”職能” を用いて書いた代表作は『病理トレイル』(金芳堂)だが、3000円くらいする医学書だし、ターゲットも狭くてあまり売れない。でも、病理医としてのぼくを隅々まで文章にした本であり、分身みたいな感覚でとても気に入っている。そして、今日届くゲラは、『病理トレイル』に匹敵するくらいぼくの専門ど真ん中の本なのである。ということはこの本が完成するとぼくは残像拳から多重残像拳の男となる。なお、今回は「うまくやると」医学書としての上限を突破するほど売れるだろう。でも、うまくやらないかもしれない。堅実に届けるほうが大事な気がする。

もうひとつ届く荷物はコンサルテーション。他の病院の内科医から、「ある症例の病理プレパラートを見て欲しい」と頼まれて、病理診断に必要な資料一式が送られてくる。それを見て考えてぼくなりの診断を返す。形式としてはセカンドオピニオン的である。ただ、患者が「できれば複数の医師に診てもらいたい」と考えることと、医師が「できれば複数の病理医に診てもらいたい」と考えることは、シチュエーション的に似ているように見えて、思ったよりも相同性が低い。カメとコタツの関係(足があり、シェルがある。これを似ていると言うかどうか)。ではどう違うかというとまだうまく言語化しきれていない。五感によるインプットとその総和である感情とそこからアウトプットされる言語の間の部分が、磨りガラスのように曇ってよく見えない。あ、そういえば、「人間は言語で思考している」という言い方はよくわかるし、そのような哲学がいちジャンルとして存在しているのも知っているけれど、その場合、「人間の脳は思考以外のこともしている」と付け加えたほうがいい。言語を用いない部分の脳の仕事も含めてぼくは思考と呼んでいるけれど。たとえば形態診断学におけるスナップ・ダイアグノーシスはふつうに思考の産物だが、言語化できていない部分のほうが多い。

閑話休題。



このあと届く荷物は、両方とも時間がかかる仕事である。先方もそれをわかっているので、いずれも事前にメールで連絡があった。おかげで、荷物の到着に備えてぼくは、メンタルを整えつつ、他の仕事のピークをずらすことができる。複数の患者、複数の研究を同時に抱えるのは医療者の基本であるが、複数の仕事を同時にやる秘訣は、それぞれの仕事のピークを2時間以内に集中させないようにピークシフトすることだと思う。何かをやるために他の仕事を「全部終わらせる」というのは不可能である(若いときはそれができた気がするが今はもう無理)。ただし、ピークをずらすことならばわりとできる。経験上、どれだけ厳しい診断や厳しい文章書きであっても、一番MP(マジックパワー)を使う時間を3時間くらいずらせば同日に複数こなすことは十分可能だ。新たな仕事の連絡を事前にもらっておくと、ピーク調整がやりやすくなり、結果的にすべての仕事がうまく回る。



今日の本題はいつものごとく決めずに書き始めたが、たとえばブログというのは仕事のピークとピークの間だと思った瞬間に書く。脳がデフォルト・モード・ネットワークの活動を強め始める直前くらいに書く。結果的に、ピークを迎えたときのあの時間が遅くなる感覚だけはブログの中にうまく表出できなかったりもする。かと言ってなんらかのピークの最中にブログなんて書いていたらその仕事はうまくいかないのだ。「仕事中にブログなんて」「仕事中にツイッターなんて」と怒る人はたいてい仕事を1,2個しかやっていない印象がある。ぼくはおそらく今2500個くらいの仕事をやっているのでそういう人たちの仕事感覚とはまるで噛み合わない。一部うそです。