2021年7月28日水曜日

脳だけが石を積む

20代前半に聴いていた曲を、いろいろ掘り返して聴いている。PCに取り込んでいなかったCDがけっこうあることに気づいたからだ。


仕事の空き時間に、(この職場に入ったときからずっとデスクの横に置いてある)段ボール箱からCDを取り出して、1枚ずつ取り込んで、片っ端から聴いている。物持ちがよい自分を褒める。不思議なことに名曲揃いだ、まあそれはそうだろう、「ジャケット懐かしいなあ」と思うものから順番に聴いているのだからそういうことになる。1/3くらいのCDケースにヒビが入っている。日々が入っている。


懐かしい曲を聴いたからと言って、特になんらかの風景が蘇ってくるとか人の顔が思い出されるとか苦み走った記憶が引っ張りだされるなどということは意外とない。ただ、昔の免許証を見返したときのように、こちらを向いて無表情で写真に収まっている若い頃のぼくと目が合うようで合わない感覚だけが、もやりと訪れる。


今振り返ると、当時の曲はだいたい歌詞がスカスカである。婉曲表現がない。感情がひとつしか書かれていない。サビでくり返される言葉にほぼ意味がない。現代のボカロP全盛時代の曲に比べると、文字数が少ないのかもしれないが、そういうのは「解析班」にまかせるとして、「編曲が神で、メロディの耳当たりの良さも奇跡だが、歌詞は学校の日常会話レベル」みたいな曲をぼくは好んでよく聴いていたようである。


……と、軽く平成をdisりながら書いていると思うところがあり、あらためて歌詞カードを引っ張り出して読んでみた。すると、そこに書かれていることは、日常会話というよりも、どちらかというと、ぼくにとっての「常識」だったり、「前提」になってしまっているものなのであった。「くだらない歌詞だなあ」ではなく、「聴きすぎてしみ込みきってしまった歌詞だなあ」。この微妙にずれたピントを修正しているうちに、じんわり、「音楽の力というやつなのかもなあ」という気持ちが湧いてくる。


ぼくは、好きな曲を通じて、「今となっては当たり前のこと」を何度も何度も聴いていた。教室で大人に語られていたら二度目で飽きていただろう、それは道徳の時間に教科書で読んでもおかしくないくらいの言葉たちだった。再放送されたバラエティ番組やドラマに、初回ほどの熱量でのめり込むことはできないように、同じ言葉をくり返し摂取することもまたぼくにとっては難しかった。でも、音楽だけは、「当たり前になるまで」何度も何度もぼくの脳に入り込んできたのである。


……今、「音楽だけは」と書いたが、ほかにもあった。ぼくは同じマンガを何度も読む子どもだったし、アニメをビデオに録画して、同じ回を何度も何度も見る子どもだった。音楽、マンガ、アニメ、これらのコンテンツに乗っかった言葉をぼくは幾度も幾度も、油絵を塗り重ねて封じ込めるかのように取り入れた。くり返しとは積み重ねであった。自分を縦に割って断層を観察すると、地表から降りていっただいぶ深いところに、当時の音楽とマンガとアニメに込められていたコンテキストの数々が、化石のようになってぼくを根底から支えていた。




令和の音楽のクオリティは昔よりもはるかに上がっていて、聞き比べると技術の差に呆然とする。その一方で、歌われている歌詞の数々は、昔よりはやや複雑になっているけれども、あいかわらず「なんだ、ペラいなあ」などと思うものが多いが、それはぼくが20年前に聴いていたものとたぶん一緒なのである。つまりは今の10代・20代も、無数にある曲のどれかをくり返し自分の中に積み重ねていって芯にしている。若い人たちの気持ちはわからないので勝手にそう予想しているだけだけれども、たぶん、絶対にいる。歌詞はペラいのではなく「積み重ねやすい形状をしている」だけだろう。


ただしぼくのときと比べてひとつ違うことがあるとしたら、それは、「あの歌詞がぼくを作ってくれたんだ」と20年後に語っても、その曲を知らない人がとても多いのではないかということだ。「流行りの音楽」というのが存在しにくい時代である。ランキングトップの音楽を知っている人が10%もいない。すばらしい音楽たちが世の隅々にまで行き渡ることはおそらくもう二度とない。それはとてもさみしいことだと思う。ぼくが「午前3時のゆらゆら帝国だよな」とか「Number Girlで焦燥したよな」と言って「そうだそうだ」と言ってくれる人がいるというのは、おそらくぼくの世代までしか通じない過去の僥倖なのだろう。エントロピーの増大し続ける世界で、末端のぼくらをつないでくれるはずのSNSは、もはや、カオスエッジの一端に自由落下していくように世界の混沌を深めるだけのツールになりつつある。くり返し、積み重ねを誰かと共有することができなくなる。それはなんだか三途の川のようだなと思ってしまった。