2021年7月15日木曜日

病理の話(556) 病の理というスピンオフ

医者とひとことで言ってもさまざまなヤカラがいるわけだが、名前に「理(ことわり)」が入っているのは病理医くらいである。ほかの多くには、内とか外とか眼とか耳鼻ノドとか婦人とか、それは確かにヒトのイチブだねとわかる名称が冠されていることが多く、心臓血管、脳神経、あるいは精神なんてのもある中で、病理医という名称は、その、端的に言えば浮いている。

字面が四角い。硬い。大上段に振りかぶって正論を打ち込んでくる「印象」がある。


今は「印象」と書いたが実際に打ち込んでみよう。剣道で言うところの打突。




われわれはヤマイのコトワリを語る医者だ。病気の背景に存在するストーリーを描き出すことが職務として認められており、それによって給料が発生し家族を養っていいよと許されている。


病気はなぜ「そのような形で」存在するのか。


今の体調不良はいったいどういう病気によって引き起こされているものなのか。


このような「体内でのストーリー」に肉薄するために病理医はいる。医療者や患者を相手に、ぼくら病理医はとことん「病気の物語」を語って聞かせる。




しかし……。

冷静に考えてみると、やっていることはずいぶんと狭く、奥まっている。

そもそも病気というのは我々の人生の主人公ではない。大半の人にとっては、病気のストーリーが大事なのではなく、自分の人生のストーリーのほうが大事だ。病気とは人生という舞台に出てくる登場人物のひとりに過ぎない。すると我々のやっていることとは、「端役をめちゃくちゃクローズアップしている」みたいな話になってくる。


病気のストーリーを掘り進めていくことは、人生というメインストーリーに対する「スピンオフ」を語ることに等しい。スピンオフが本編ほど売れることは、まれである。


踊る大捜査線より先に交渉人真下正義が公開されても、ユースケサンタマリアのコアなファン以外は見に行かないだろう。


まずは踊る大捜査線をきっちり映画にすることが必要なのだ。織田裕二も柳葉敏郎も深津絵里も、酒井美紀……坂井真紀……いや違う水野美紀……水野真紀……?どれ……?も、いかりや長介も小泉今日子もつぶやきシローまでもが躍動する、ド級のエンタメが先に劇場公開されて、そこに登場したユースケサンタマリアが絶妙なスパイスとして視聴者の心に残ったからこそ、サイドストーリーとしてネゴシエーター・真下の活躍が世に受け入れられた(でも興行収入的にはたぶん死んでた)。


となると。


病理学を「届ける」ためには、スピンオフ作品を世に届ける監督の手腕が必要になるということだ。




先日、古賀史健さんという人がnoteにこんなことを書いていた。


”科学の答えは、さほどおもしろいものではない。きのうぼくが購入した止瀉薬の説明書きには、腸の蠕動運動が云々で、腸内の腐敗物を殺菌して云々といった文字列が並んでいたけれど、いまいちピンとこないし、即物的でおもしろみがない。腹のなかで小鬼が暴れ、それを聖なる霊力で鎮めるほうが物語としてずっと魅力的だ。”


このnoteはおもしろいので読んでもらいたいのだけれど、「科学の答えはさほどおもしろいものではない」については、反論しようと思えばできる。なぜなら、科学にも立派に物語が存在し、そのひとつは病理学と名付けられていて、「ぼくは」そのストーリーをつまらないなんて思ったことは一切ないからだ。でもそういう視点の違いによる「お前が言うならそうなんだろう、お前の中ではな」論をぶちあげたいわけではない。

病理学は「科学の目」を鍛えた人……というか一部の好事家にとっては十分おもしろいとは思うのだけれど、人生という本筋のストーリーに対して、科学のストーリーとはあくまでスピンオフにすぎない。より多くの人の心を掴む本道のナラティブに比べれば、スパイスにすぎず、後日譚や課金追加CGのように、収集癖のあるオタクに喜ばれているに過ぎない。



科学の物語が主役に躍り出ることはないと思う。それはユースケサンタマリアが単独作品の主役をとうとう張らずにここまで来ていることと無関係ではない……と書いて、いやそれはやっぱり無関係だし、「ぷっすま」ではユースケサンタマリアは確実に主役だったよな、と、自分の狭く奥まった見識を反省する。