2018年9月28日金曜日

病理の話(247) 斬鉄剣の限界

ものを観察するとき、我々は知らず知らずのうちに、見るべきターゲットに「フォーカス」をあわせている。

目ってのはほんとすごいね。

シャッと横向いたらビシッとカレンダーにピントが合うもんな。

9月28日は金曜日かあ、そう確認したあとに、手元に視線を移せば、今度はバキッとスマホ画面にピントが合う。



さらに付け加えれば、このピントは「点」であわせているわけではなくて、「ある程度の奥行きの情報をまとめてあわせている」。

カメラをやっている方向けには「被写界深度」という言葉を用いればわかりやすいだろう。

レンズが広角気味だったり絞りをしっかりかけていたりすると、手前から奥まで幅広くピントがあう。これを「被写界深度が深い」と表現する。

たとえば札幌時計台の前で記念写真を撮ろうと言う時に、手前にいる自分にだけピントがあって奥の時計台がぼけてしまっては記念写真にならない。

手前と奥、両方にピントが合うような撮影をすることで、記念写真というのは成り立つ。

そこらへんを調節するためにカメラマンはレンズを入れ替えたり絞りをいじったりするわけだが、人間の目はこれを一台(?)でやってしまうわけだからすごい。




で、今日の話はここからである。




胃カメラを使って胃粘膜を観察するときの話。

最近の胃カメラというのはほんとうによくできていて、粘膜にぐぐっと近づいてズームをあげていくと、粘膜の中に走っている細かな毛細血管の走行まで観察することができる。

人間の体には、至るところに毛細血管が張り巡らされている。胃粘膜だって同じだ。

あなたが指とか手とか腕のどこをカッターで切っても必ず血が出てくることからもわかるように、毛細血管というのはほんとうに無数に走っている。

毛細血管が無数に走っている理由は、全身の細胞にくまなく栄養を配るためだ。

皮膚に栄養をしっかり運ぶ。

胃粘膜にだって栄養をきちんと行き渡らせる。

今、ここで、胃粘膜にがんができると、がんだって栄養を欲しいので、正常の細胞と同じように、毛細血管を利用する。

がんというのは慎みがない。正常の細胞がつつましやかに栄養をとっているのとは異なり、とにかく毛細血管からやたらめったら栄養を奪おうとする。

このため、血流量も変わるし、血管の構造自体も変化するし、とにかく、「毛細血管が変化する」。整然と並んでいた毛細血管のネットワークがぐちゃぐちゃに変わってしまう。

胃カメラをのぞくドクターは、この「毛細血管の変調」をみることで、がんがそこにあることを判断する。 (※数ある診断方法の1つです)




さて、胃カメラでぐちゃぐちゃに見えていた毛細血管は、病理医にはどう見えるのだろうか。

胃粘膜をプレパラートにして、顕微鏡でのぞくと、毛細血管がばっちり見えるだろうか?




実はこれがとても難しいのだ。

理由は、「病理のプレパラートには奥行きの情報がほとんどないから」。



プレパラートを実際にみたことがある方はわかると思うのだが、プレパラートに載っている組織というのはとにかく薄っぺらい。向こうが透けて見えるくらいだ。具体的には約4マイクロメートル。ほとんど透明になるような激しい薄さで標本をつくり、そこにHE染色のような技術で色をつけて観察をしている。

プレパラートの世界の奥行きは4マイクロメートルしかない。

となると……

縦横無尽に走っていたはずの毛細血管(太さは5マイクロメートル~10マイクロメートルくらいのものが多い)のほとんどは、ネットワークとしては観察されず、

「断面」

としてしか観察できない。




あなたの頭の中に、漁師が使うような網を思い浮かべてもらいたい。

これをぐしゃぐしゃにまとめて、ボールをつくる。

つくった?

ぐっしゃぐしゃの編み目。

ここにルパン三世の一味の石川五ェ門を呼ぶ。

斬鉄剣でこの「網の球」を、ズバリと切ってもらう。

断面はどう見える?




ネットワークに見えるだろうか?

違うね。網の断面ばかりが並んで見えるのだ。

ランダムに全方向に走っている網は、うすく2次元に切り出すと、高確率で「断面」になってしまう。

ほんとうに運良く、4マイクロの切片と全く同じ方向に走っていた血管だけが、プレパラート上で「まっすぐ、血管として」見える。




そう、現代の病理組織診断における限界がこれなのだ。

薄切(4マイクロメートルの薄さに処理すること)により、3次元だった情報がほぼ2次元にまで落とされてしまう。

だから、3次元構築を見極めることがときに難しくなる。

胃カメラをのぞいたときに、被写界深度の分でうまく見えていた血管網が、プレパラート上では容赦なく断片になってしまうので、「胃カメラで何がどう見えていたのか」を直接プレパラート上で考えることが極めて難しい。




……まあ病理医もそんなことは先刻承知なわけでね。

実は3次元の情報をプレパラート上から読み取ることもできなくはないのだが……かなり専門的な話になってしまうので、今日のところはこれにて。

特性さえ知っていれば、恐れることはない。弱点というより性質なのである。

2018年9月27日木曜日

月は無慈悲な商売情報

月旅行に行きたいかという話をしていた。好き勝手な意見が並ぶ中、ひとりの冷静な人間が

「おいしいご飯屋さんがなく、圧倒的なインスタ映えだけをほこる、安全ではない観光地でしょ? ひとそれぞれだね」

と言って、居合わせた人間全員が

\そうだな そのとおりだ/

と学芸会のように納得して会話が終わった。




ぼくはちょっと月に行きたいが、それ以上にチェコに行ったりドイツに行ったりしたいし、五島列島でうどんを食べたいし、富士山にもまだ登っていない。ワインを飲み始めた人がいきなりロマネ・コンティを飲んでも味がわからないだろうというのといっしょで、いきなり月に行く前にまず見ておきたいものがいっぱいある。

けれどもぼくは月旅行のニュースをみて、いいな、行きたいなあと思わずつぶやいてしまうほうの人間でいたかった。

なにも計算をせず、行動がもたらす影響をおもんぱかったりせず、その場の直感でスッと選択をしても誰かがそっと尻拭いをしてくれるような、「人に生かされていると知るよしもないバカ」でいたかった。

財布をのぞきこむ。ウェブバンクの残高をみる。

月に行くには貯金が3ケタか4ケタか足りない。何ケタ足りないかすらぼくにはわからない。

ほうっと息を継いで次の休みに思いを飛ばす。SFでも読むか。

2018年9月26日水曜日

病理の話(246) 石田三成ツイッターアカウントも嘆いている

たとえば、胃カメラをして、胃の中に何かちょっと色の変わったふしぎなシミみたいな場所があったとする。

それはただの胃炎かもしれない。けれども、がんかもしれない。

胃カメラを行った内視鏡医は、さまざまな方法で、その病気がいったいなんなのかを予想する。

胃炎なら胃炎の治療を。がんならがんの治療を。

診断をきちんと決めないとその先に進めない。

そして、胃カメラの先から小さなマジックハンドを出して、色のかわったところを「小指の爪の切りカスくらい」、ちょっとだけつまんでとってくる。



これが病理検査室に運ばれる。

小さな検体を、ロウのようなものでかためてブロック上にし、プロフェッショナル仕様のスーパーかんなでペラッペラに薄く切り、向こうがすけてみえるくらいの断面を得て、それに色をつけて顕微鏡でみる。

すると細胞がみえる。

病理医はこの細胞をみて、胃カメラを行った内視鏡医の話を聞き、なんなら胃カメラを一緒にみて、「すべての情報をもとに」診断をくだす。

胃炎であると。あるいは、がんである、と。




さて病理診断というのはだいたいこのような流れで行われるわけだが、人体からとってくるモノは何も毎回小指の爪の切りカスみたいなサイズでとどまるわけではない。

たとえば胃をまるごととってくることがある。

もうすでに、胃がんと診断されている人の胃を、治療目的にとってくる。

この胃もまた、病理医によって顕微鏡診断されるわけだが……。

胃はどうやってプレパラートにするのか?

石川五ェ門の斬鉄剣みたいなやつで何千枚もの細切れにするか?

そんなにいっぱいプレパラートを作っていたら、病理医がいまの10倍いても足りないだろう。




大きな検体をとってきたときには、その「どこをプレパラートにしたら一番情報が増えるか」というのを計算した上で、一部分だけをプレパラートにする。

胃がんの治療のためにとってきた胃であれば、どこかに「カタマリ」とか「へんなかたちの色変わり」とか「でこぼこ」があるはずだ。

そこにはがんがいて、胃壁の中にしみ込んでいたり、周りに広く拡散していたりする。

すべてをプレパラートにするのではなく……。

まず、「目で見る」。マクロ情報で診断をはじめる。

十分にみる。大きさ、高低差、表面の模様がでこぼこなのかつるつるなのか、ぷちぷちした顆粒がみえるか、光があたったときの反射はどうなっているか、色調はどうか、持って曲げてみたときに固いか、押したらへこむか、周囲の正常の胃とくらべてどう違うか……。

「顕微鏡をみる前」の、このマクロ診断の段階で、実に病理診断の90%は終わっている。

それくらい、目で見る診断には力がある。

その上で、「ここだけはどうしても顕微鏡でみるべきだ。がんが一番力をもって、周りに今まさに攻め込んでいこうとする、勘所がここにあるはずだ!」と判断をして、その部分だけを切って取り出す。



これを切り出しという。




ちかごろ、ぼくはこの切り出しを、「戦場カメラマン」に例えている。

現代の戦場でなくてもいい、たとえば関ヶ原の戦いの時代にカメラマンがいたとする。戦場報道に命をかけるプロフェッショナルだ。

彼は広い広い関ヶ原で、東西にわかれた大軍が、どこでどう激戦を繰り広げているかを、まず俯瞰して調べる。

ドローンを飛ばしてもいい。

そして、この戦いをあとで記載する上で、どこにフォーカスをあてて写真をとったら、見る人が一番納得するかを考えて、そこに走っていって写真をとるのだ。

戦争の間、すべての戦場を写真にとることはとてもできない。戦況だって刻一刻と変わる。

常識的なカメラマンであれば、徳川家康と石田三成の本陣をまずはおさえようとするであろう。両者の顔色を写真にとっておくだろう。

さらに、東西の主力同士が激突している主戦場については、必ず写真を撮るだろう。これぞ戦争だからだ。

そして、勘所がよく、ピューリッツァー賞をとるような奇跡のカメラマンは、小早川秀秋に接触してその動きを写真に撮るに違いない。



「……関ヶ原が始まった時点で小早川秀秋に目を向けることができるわけないじゃん。それは後世の人がわかって見るから言えることだよ。」




がんを診断するというのも結局そういうことなのだ。

振り返ってみれば、「あの部分を観察していればその後の転移が予測できたかもしれない」なんてこともある。





切り出しというのはカメラマンがどこを写真に撮り、視聴者に何を伝えるかを決める、もっとも大事な作業である。

病理診断医の給料の半分はこの「切り出し」に払われているといっても過言ではない。

2018年9月25日火曜日

デッドオアライブハウス

本とラジオの暮らしに何の文句もないのだが、ときに演劇とかライブであるとかそういった場所へのあこがれがふつりとわいてくることがある。

大きめの箱の中で空気がそよそよとゆらぐような気持ちを味わいたいときがある、と言ってもいい。

大自然の風に吹かれたいとか人智を圧倒する景色の中に埋もれたいという欲望もないではないが、部屋でひとりでいる孤独と、地球のでこぼこの中にひとりでいる孤独と、どちらか両極端しか楽しめないというのはちょっとつまらない。

その中間の孤独に対する思いがときどき強まる。

人を隠すなら人の中。

人がほどよくいる場所に紛れ込み、まわりのため息が聞こえる場所で自分もほうっと心をなでおろしてみたい。本でもラジオでもなく、グランドキャニオンでもグレートバリアリーフでもなく、劇場とかライブハウスに紛れ込んで静かにうつむいていたい。




よく言われることだが、以上のような欲望を満たそうと思うと東京という場所がとにかく圧倒的に便利である。ぼくの住む札幌だって大都市であり、しょっちゅう劇団が公演をしているし、音楽のイベントだって毎日開催されてはいるのだが、質はともかく量は東京の100分の1くらいだろう。「無数にあって経営が成り立っている」というのは強い。普通そうはならないからだ。札幌に同じ数のイベントがあったとしても絶対にペイしないだろう。

大阪、神戸、福岡あたりの人と話をしていても、最後には同じ話になる。

有象無象が新陳代謝しながらひたすらアクトしているってのは東京だよな、と。

消えてなくなりたいような気分のときに、実際に消えなくても、人の中に紛れて事実上消えてしまうことができるのは東京だけだよなあ、と。




誰が降りるんだこんな駅、というところで100人くらいがうごめいていた。

誰が入るんだこんな雑居ビル、みたいな場所に、誰がつけたんだこのフスマ、みたいな引き戸(なぜだ)があって、誰が塗ったんだこの壁を横目に、誰が産んだんだこの男みたいな人に金を払って、誰が見るんだこんな演劇、を座って眺めている人間が40人くらいいる。

ああ、贅沢だなあと思う。多くの場合、そういう演劇はつまらない。けれどもときに自分のつまらない部分にめちゃくちゃにヒットするときがある。出演者たちのあれとあっちは付き合ってるんだろうな、みたいなのが見えたり、演出家という名刺を持っているのであろうフリーターが裏で何本も電話をかける声が一番神がかった演技を披露していたり、災害のときにはこちらからお逃げくださいというアナウンスのあとに非常灯をみたら完全にぶち壊れていたりする。ああ、贅沢な時間だなあと思う。

人生はかけがえのないものだからこそ、かけがえのない一瞬に、かけがえのない一期一会を、もりにもってかけにかけて、うっかりかけ違えたような日に雑踏の中で、ああ、今日は生きたなあ、と不満足する。



そういうテンションで飲み食いに行くとたいてい外れる。そして札幌に早く帰りたいなあと口走ってしまう。店内の32人中32人がもう帰りたいとつぶやいている。

2018年9月21日金曜日

病理の話(245) このあたりから病気と大河ドラマの関係を考え始めていたとわかる記事

ここだけの話だが教科書を書いている。

するとどうなるかというと、「病理の話」を更新するネタが尽きるのだ。

だって病理の教科書だから。

それこそ、「病理の話」を総括するような本になるわけだから。

ブログのネタは尽きる。



……と思っていたのだがそうでもなかった。

実は本を書き始めたのはかなり前のことである。

ふつうにブログのネタが毎回出てくる。

病理の話というのは多角的すぎて、1,2冊本を書いたくらいではとうてい書き尽くすことはできないのだった。

それはそうか……。

60兆とか100兆とかあるといわれている細胞、それぞれが勝手に働いて、ひとつの「人体」という都市を形成しているとすると、人体という都市は私たちが今暮らしている地球そのものよりもはるかに大きなメガロポリスということになる。

街をモチーフにした創作物が書き尽くされることはない。

アド街ック天国がすべての都市を紹介し追えて最終回を迎えるなんて考えられない。

ブラタモリ的なアプローチもあれば、もやさま的なアプローチもある。

都市という巨大な複雑系を語ることは永遠に終わらない。

人体もいっしょだ。

人体に発生した犯罪を記した事件簿は永遠に完結しない。

コナン君がちっとも最終巻を迎えないのにも似ている。



ここだけの話、ぼくの書いている教科書には、今までブログで書いた内容も何度か出てくる。

ただ、ぼくは自分の記事をほとんど読み直さないので、「引用」しているわけではなくて、「そういえば昔こんなことも考えたなあ」という感じで同じ事をくり返し語っているにすぎない。

それも悪くはないかなあと思っている。NHK大河ドラマだって、関ヶ原の戦いを何度も何度も描いているけれど、毎回新たな感動があるだろう。




そうか病理の話というのは確かに大河ドラマ的だなあ。

みんなが知らないことも、多少は知っているけれど詳しくは知らないことも盛り込んで、いつまでもいつまでも続いていくのだ。

となると病理の話を書き続けるうえでは、都市もののバラエティ番組とか、歴史物とか、あのへんの演出方法が参考になるのではないか……。

というあたりを今考えている。

2018年9月20日木曜日

新作7泊8日セール

「こういう話、本当は言いたくないんだけど、誰かが言わないといけないことだから、言わせてもらう」

という前置きで語り始める人はたいていいつだって「言いたい人」だ。

「本当は言いたくないんだけど」をつければ自分の過激な発言や説教めいた発言、上から目線の発言が免罪されると知ってしまったから惰性で付けている。

ぼくにもそういうところがある。



たとえば今の、「ぼくにもそういうところがある。」は、ぼくの得意技だ。

誰かほかの人を非難するときに、「ぼくにもそういうところがある。」とひと言付け加えるだけで、そうか自戒しているのか、だったら苦言を呈していてもよかろう、と、人々の目を優しくそらすことができる魔法のフレーズなのだ。

「自戒しておきたい。」を最後に付けるのも効果がある。

「誰かもかつて言っていたことだが」というのも使い勝手がよい。



形式にハマった言論が目に付くようになった。おそらく、ワンフレーズに力のある人のことばが昔よりも遠くまで届くようになったことと関係がある。同時に、長く難しい文章を最初から最後まで読まないと伝わらないような論考は以前よりもさらに伝わりづらくなった。

「以前よりもさらに」。

「伝わりづらくなった」。

これらもすべて定型文である。ぼくの作文は徹頭徹尾、「借文」になっている。




「枚挙にいとまがない」はたいていすぐに数え終わる。

「今後も継続して考えていきたい」の瞬間に考察が終わる。

「戦い続けていくしかないのだ」と言いながら休んでいる。

「一人一人の力が小さくても」と語る人は自分の力が大きいと信じている。

「いつか伝わると信じて」に強い同調圧力がある。

「人はわかりあえない」をわかって欲しくて書いている。




心を直接揺さぶることばは突然矢のように飛んでくる。

「心を直接揺さぶる」なんていう陳腐なフレーズとは次元が違う。

「ほんとうのことば」を使いこなす人と実際に会ったことが何度かある。

そのとき、自分の口からリアルタイムで出てくることばに愕然とした。今でも辛い思い出だ。手汗が反応する。

自分が選ぶことばがどれもすべて、レンタル期限がとっくに過ぎているものばかりなのだ。空気が氷室のように冷えていく。外気と混じって氷がとけて、みやみずにうでわを付けて、ひのえさまに怒られる。




借り物のことば、かりそめのオリジナリティの中で、まれに出会う尊敬すべき人たちと語ることばがわからない。このわからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう。

「わからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう」を、たぶん一度どこかで読んだことがある。

2018年9月19日水曜日

病理の話(244) 物流情報での犯人捜し

がんの診療方法にはいくつものやり方があり、その説明方法もまたさまざまだ。

メカニズムが複雑だから、どの視点からがんを語るかによって、毎回違う切り口でがんの説明をしていることになる。

すると聞いているほうも、「こないだはああ言ってたのに、今日は比喩が違うなあ」みたいな混乱を起こす。

とにかく、単純な話に落とし込むのが難しい。

だから、今日の説明も、ぶっちゃけ「例え話」にすぎない。すぎないけれど「がん」の一端をつかむことはできるかと思う。



ある病気が「放っておいてもいいもの」か、「そのまま放っておくと際限なく増殖して体にダメージを与えるもの」かを判断する。

放っておくと際限なく増殖して体にダメージを与えるもの、というのがぶっちゃけ「がん」だ。

では、体の内部にあるがんが、将来(!)際限なく増えるかどうかを今見極めるにはどうしたらいいか……?

予言士でもないとそんなことはできないのだが、まあそれをなんとかやってみようぜ、と考えて調べた人がかつて何十万人もいた。今も何百万人もいる(単位はてきとう)。

で、そういう人たちが見つけた「がんのヒント」が、なかなかしゃれている。




がんはヤクザみたいなもので、がん細胞を直接顕微鏡でみればその姿形がどことなくいかつくて頭がおかしそうだということがわかるのだが、がんを直接みるというのはつまり、「がんを採ってこなければいけない」。

体を開かなきゃいけないわけだ。あるいは胃カメラとか大腸カメラをつっこむ。

がんだとわかっているなら、そういう負担も甘んじて受けよう。

けれどもまだがんだとわかっていない段階で、上から胃カメラ、下から大腸カメラ、お腹のあちこちをずばずば開かれてはたまったものではないだろう。

「がんとわかっていない段階」で、「顕微鏡でみればがんかどうかわかるよ」というのは、けっこう酷な話だ。

だから「がんのヒント」は、できれば体の外からあまり体に傷をつけずにアプローチできる方法で拾い挙げなければいけない。

どうすればいいか?




がんというヤクザが将来めちゃくちゃに増えるとき、「物資を集める」。

それも、周りに暮らしている善良な人々とは違うやり方で、こっそりと、泥棒をするように、大量に、「物資を集める」。

そうしないと思う存分増えられないからだ。

人間の社会といっしょで、ヤクザだというだけで商売は制限され、社会活動もかなり禁じられるから、やつらはつねに「周りの人々とは違うやり方」を選ぶ。

つまり……。

ヤクザそのものを直接みて調べることができないとき。

体のどこかで「物流が乱れていること」をみれば、そこにヤクザがいるのではないかと疑うことができるのだ。




体の中における「物流」とはなにか。

それは血流である。

血液の流れ方を調べる。

それも、臓器に入り込む細かい血管を逐一チェックする。

「造影剤」と呼ばれる薬を使って、CTやMRIなどで、臓器における「物流」をチェックする。

部分的に、正常の臓器とくらべて「乱れている」ところがあれば、そこはヤクザとしてどんどん増えようとしている悪の巣窟かもしれないとわかる。




造影剤を血管の中に流し込んで、CTでみるというのは、いってみれば「影絵」だ。体を開かなくても、外から光(X線)をあてることで、中の姿があらわになる。造影剤を使えば血流がより強調されて見やすくなる。

こうして、「がんを探す」ことができるようになる。




この例え話を進めていくといろいろわかる。

ヤクザが1人とか10人くらいで小規模に活動していたら物流の変化だけでは見つけられないだろうな、とか。

ヤクザ以外の理由でも、例えば事故や災害などで物流がいかれることもあるだろうな、とか。

極めてかしこいインテリヤクザは、周りの物流をまったくいじらずに生き延びることがあるだろうな、とか。

これらはすべて、がん診療を悩ませる原因になりうるのである。

2018年9月18日火曜日

サイコロばくちにはまった人はそりゃ丁半生活だろうさ

実家に帰って昔自分が暮らしていた部屋でごろごろしていたら、本棚に「通販生活」の雑誌が何冊か突き刺さっていた。ぺらぺらとめくる。そうかー通販生活かー。

通販生活を送るためには、「通販で好きなものをそこそこの量そこそこのタイミングで買えるだけの財力確保生活」を送らなければいけないんだけれども、「通販で好きなものをそこそこの量そこそこのタイミングで買えるだけの財力確保生活」の中をごっそり省略すればそれはもちろん「通販生活」なのであり、ああ何も間違ってはいないなあ、と納得をした。

いいかもなあ通販生活。

けれどなかなか、通販で好きなものを好きなように買えるほどの暮らしというのは、難しいからなあ。

欧風の家具とか、季節の寝巻とか、そういうのはちょっとなあ。




金の使い方については、偉い人がいろいろ言っている。そういう人に言わせると、ぼくの金の使い方はなっていないんだそうだ。

ま、ぼくは、金の使い方に一家言ある人というのがどうもあまり得意ではなくて、聞き流してしまうし、なんならその場ですみませんと謝り倒して話題を変えてしまう。

結局、金の正しい使い方なんて、そんなの日による((c)燃え殻さん)としか言えないよなあと、少しうんざりしている。




こういうことを書くと必ずどこかの誰かが「そりゃ自分で好きなように金をどうこうできる医者だからそういう余裕をぶちかませるんだよ」みたいなことを言ってくる。

けれどそういう人は結局一般化した議論を平均化した情報をもとに均霑化した視点で総論化して語ることしかできない。

なにを小難しいことを言っているのか、とお叱りをうけたなら言い換えよう、「そんなの人による」ってことだ。




そう。

ぼくらはみんな 人による。

人によるから 歌うんだ。

手のひらを 太陽に すかすかどうか

それもやっぱり 人による

みみずだって おけらだって あめんぼだって

みんなみんな 人じゃないけど 人によるんだ。




通販生活は性に合っていない。

ぼくは雑誌を閉じる。

そしてふと思う。

ツイッターで気になった本をホイホイAmazonで買ってしまうのは、通販生活と、どう違うのだろうか?

2018年9月14日金曜日

病理の話(243) 結論が変われば前提も変わる

病理医の仕事は主に2つあって、

 1.病気に名前をつける
 2.病気がどれくらい進行しているかを見極める

である。これらは病理に限らず、たいていの医療者がやっていることで、2つあわせて「診断」という。病理医がほかの医療者たちと大きく異なるのは、この診断を顕微鏡を駆使して行っている、という一点に尽きる。

さて、顕微鏡をみれば病気の名前なんてすぐわかるだろう、だってモノを直接見ているんだから、などと思われがちなのだが、これが実に難しい。

難しいだけではなく、そもそも、時代によって名前がころころ変わってしまう病気がけっこう多い。がんも例外ではない。

昔、「内頸部型」と呼ばれていたとあるがんが、「通常型」という名前に変わった、なんてことがつい昨年もあった。

単に名前が変わっただけでしょ、とあなどってはいけない。

例えば、ダイエーホークスがソフトバンクホークスに変わってもホークスはホークスだ。しかし、オリックス・ブルーウェーブがオリックス・バファローズに変わったというのは、単に名前が変わっただけではないだろう。ここには「合併」が起こっている。

そう、病理の世界で……病気の名前が変わるとき、そこにはいつも、「合併」とか「分裂」のような、概念の変更が起こっている。

昔はある病気Aだと診断されていたものが、今はBという名前になっており、しかもかつてのEとかFという病気もこのBの中に含まれ……みたいなことがしょっちゅう起こっているのだ。

なぜこんな七面倒くさいことをするのか?




それは、病気の名前とか分類というものが、単に学者がよかれと思ってつけたものというわけではなく、

 ・対処法と密接に関連している

からだ。

ある形をしているがん細胞には、放射線治療が効きやすいとか。

がん細胞の表面にあるタンパク質が突き刺さっている場合、この薬がすごくよく効くとか。

ある遺伝子変異をもったがんだと、ある薬は全く効かなくなるとか……。

治療が進歩して複雑化すると、それに応じて、かつて同じ病気だった一群の中に、「ある治療に対する効き方の違い」が出現する。

医療者としては、「薬の効き方の違いによって病名を分けたほうが、対処がしやすいのでは?」と発想する。

だから病気の名前はどんどん移り変わっていく。




病理医の仕事は主に2つあって、

 1.病気に名前をつける
 2.病気がどれくらい進行しているかを見極める

である。ただ、これらは、「そこにある真実をみればいい」という類いの仕事ではない。現時点で人類が持っている「武器」を見極め、その武器との相性を加味した上で、その時代に応じた評価をしなければいけない仕事だ。

だから病理医は……いや、ちがうな、病理医に限らない、医療者というのは、この世が続いていく限り、ずーっと勉強し続けて、科学の進歩にあわせて変わっていかなければいけないのである。

2018年9月13日木曜日

12回

浅生鴨「どこでもない場所」がとてもよかった。

沢木耕太郎と椎名誠と須賀敦子のエッセイが好きだから、次は「せ」ではじまるエッセイストだなと思い、瀬戸内寂聴かなあ……なんて手にもとらずにまごまごしていたら、「あ」だったわけだ。

とまあここまではツイートしたのだが、その後ふと思い付いた。

浅生鴨というのはほんとうに「あそうかも」と読むべきなのだろうか?

これはもしかすると「せんなまかも」と読むのではないか?

あるいは「せんぶかも」とか。

「せんおいかも」かもしれない。

全国津々浦々に存在する難読地名だってこれくらいのアグレッシブな読み方はあり得る。

そうだ、「せ」なのだ。彼の名前はせではじまるのだ。

だからサワキ、シイナ、スガ、の次はやっぱりセンナマなのだ。

ぼくはとても納得した。彼の、闇に落下していく途中の人をとらえる空気感、旅先で絶句したときに耳の奥でぼそぼそとつぶやく声を拾ったかのような語調、パリやプラハが似合うたたずまい、どれもこれも、ぼくが今まで好きで読み続けてきたエッセイストたちが持っているようで持っていなかった、共通で持ってはいるんだけれどそれぞれ使い方が少しずつ違っていた、そんな武器だと思った。

だから彼はセンナマカモなのだ。ぼくはもう今日からそう決めてしまった。



彼のツイッターアカウントには「あそうかも。」と表記されているが、あれは、単に、彼が心の中で「あっ、そうかも。」とつぶやいているのを置いているだけなのだ。

実はセンナマなのだ。このことはまだぼくしか知らない。

もしかしたらかも自身もまだ知らないかもしれないのである。

2018年9月12日水曜日

病理の話(242) お金でわかった病理診断の現状

医療行為には金がかかる。そして、その金は、ヤマイに苦しむ一個人にとっては非常に厳しい金額だ。

それはそうだ。

医療というのはその時点での科学の粋を集めたものである。最新の科学をもとに作られた薬も、手術用の道具も、いずれも高価だ。マックの新しいパソコンが2万円で売り出されることが絶対にないのと一緒である。

だから日本には医療保険の制度がある。

医療にかかるお金を、患者個人がその場で全部負担しなくてもよいような仕組みである。




で、今日したいのはこの「医療保険」の話ではない。

医療保険制度があるために、日本では、「どの医療にどれだけ金がかかっているか」を計算することが、ある程度可能となる。

病院がそれぞれ勝手にサービスの額を設定して、患者から好き勝手にお金をとったりとらなかったりしていると、日本全国でどのような医療が行われているかを把握することは極めて難しくなる。それこそ病院とかクリニックを一軒一軒、しらみつぶしに調査しないとわからない(してもわからないだろう)。

でも、患者がお金を払うときに、保険を使っているならば話は別だ。

保険によって患者の負担の一部を肩代わりしているのだから、保険で支払われた額をみれば、どれだけの患者がどのような医療を受けたのか、だいたいはわかるのである。



さて、この、「医療保険という窓を通して医療の実態をみる」というやつを、病理の世界で調べた人がいる。

その結果をみてぼくは、少しうなっていた。うーむ。






もともと、ぼくは知っていた。病院における「病理」には二種類のニュアンスがあるということに。

ひとつは、「病理検査」。

もうひとつは、「病理診断」である。

これらが保険診療上区別されたのは、実は、平成30年のことである(つまり今年だ)。

今年はじめて明確にふたつが分けられた。だから、現在医療者として現役で働いている人の大半は、この区別をよくわかっていない。病理には、検査というやり方と、診断というやり方がある。



前者の「検査」は、小さめの病院で手術を行ったとき、患者からとってきた臓器の一部や全部を、いわゆる検査センター(登録衛生検査所)に送って、そこで顕微鏡による細胞検査をしてもらい、最終的に検査を提出した臨床医が紙に書かれたレポートを受け取ることで完成する。

「というか、それは病理診断そのものでは?」

と思っている医療者は多いだろう。

けれどもこれは、「診断」ではない。「検査」だ。

最初に患者がかかった病院内で診断が完結しておらず、外部の検査センターに「外注」しして行われる医行為。「外注検査」の扱いである。

言葉の定義を問題にしたいのではない。検査と診断では、お金のかかり方も、誰が責任を負うのかも、まるで違うからだ。

外注先である検査センターが、患者に対して本当の意味で責任を負うことは難しい。見てもいない患者、話を聞いてもいない患者の、ごくわずかな体の一部分のみを顕微鏡で見ただけで、その患者のことを「診断」できるなんておこがましいにもほどがある。

だから、「病理検査」を検査センターに外注した場合、そこから帰ってくるレポートをみて診断を決めるのは、実は臨床医の仕事だ。検査センターの病理レポートはあくまで「参考意見」。血液データなどと同じように、すべては臨床医が考えるためのデータにすぎない。




では、「病理診断」とは何か。検査ではない診断というのは何なのか。

「診断」は、病理診断医が常勤で勤めている大きめの病院にのみ存在する。

臨床医が患者から採ってきた臓器の一部もしくは全部を、外部の検査センターではなく、「同じ病院に勤める病理診断医」(平成30年時点の原則)が、臨床の医療者たちと会話をしながら、臨床情報を十分に把握した上で、

 病理専門医として診断名に責任を負う

ことを病理診断という。




勘違いして欲しくないのは、検査センターで行われている「病理検査」が悪、病院で行われている「病理診断」が正義、というくくりをしたいのではないということ。

病理専門医の実数が少ない以上、臨床現場をうまく回していくためには、どうしたって検査センターが必要となる。

病理に関する情報収集を、検査というかたちで外注し、それをもとに臨床医が考えて診断を決めるという流れは決して間違ったものではない。




しかし、病理検査と病理診断、どちらのほうが「診断学」に対して複数の視点を提供できるか……。これはあきらかに「診断」のほうである。

 1.臨床情報をもった臨床医が、細胞のことをあまりわからないままに病理レポートだけを参照して「総合診断」をするシステム

と、

 2.病理診断医が細胞情報に臨床情報を加味して「病理診断」をするシステム

の、どちらが多角的な診断システムであるかはいうまでもない。






冒頭、ぼくは、

 ”「医療保険という窓を通して医療の実態をみる」というやつを、病理の世界で調べた人がいる。その結果をみてぼくは、少しうなっていた。”

と書いた。この話の続きをしよう。


厚生労働省のNational Data Baseによると、 平成27年4月から平成28年4月の1年間に、病理組織標本作製が行われた8,013,874回のうち、検査センターに標本が提出された割合は46.7~54.4%(病理と臨床 2018 Vol.36 No.7, 黒田一先生のリレー連載原稿より)。

つまり……。

全国で行われている「病理」の、約半分は、検査センターによって行われる「病理検査」であり、常勤の病理診断医によって行われる「病理診断」は残り半分しかなかった、ということ。



ぼくが日頃から、「病理診断というものは臨床情報を存分に加味して行うのがいい」とか、「臨床医ときっちりコミュニケーションをとることがだいじ」とか言っていた、「病理診断」なんてものは、病理検体総数の半分にしか行われていなかった、ということなのである。




繰り返すが、「病理検査」は別に悪ではない。

病理検査にも醍醐味はある。もちろん社会的意義も大きい。

しかし、ぼくがときおり若い人たちに「病理専門医はおもしろい仕事だよ」というときのニュアンスはもっぱら「病理診断」のほうだ。

それなのに病院が用いている病理の半分は診断ではなく検査なのだという……。



病理のことを知らない臨床医が「病理なんて何がおもしろいの?」と言ってくるのを、単に無知のせいだろうと片付けていたぼくは甘かったのだ。

「臨床医がつまらなそうに眺めている病理」が半分も存在するのだということを、ぼくは知らないでいた。せいぜい2割くらいだろうとたかをくくっていた。



そして、なんというか、メラメラと、燃え上がるものを感じた。

そうかそうか。国を変え、医療を変えるというのは、こういうことなのか、と。

2018年9月11日火曜日

外付けドライバー

人間は何故、群れたがるのか、という疑問がある。さまざまな創作物で取り扱われているし、あなたも考えたことがあるかもしれない。最近読んだところでいうと、「からくりサーカス」の中でシルベストリが問うていた。

古典的かつ根源的な疑問だろうと思う。

「人はなぜ群れる」?

今のところ、ぼくが得た答えはこうだ。

「人は、群れないと思考が完結しない。脳がそういうふうにできている」。




人間の脳の記憶容量というのを調べた人がいるそうなのだが、その人によると、誤差はあるにしろだいたい500MBから1GBくらいではないか、と考えられているらしい。

人が記憶している単語の数などから類推したとのこと。つまりはけっこう適当に計算されている。あてにはならない。けれどもよく考えてみると、仮にこの検討が1ケタ間違っていたとしてもせいぜい10GB、2ケタ間違っていたとしても100GBにすぎない。

その程度なのだ。

今やテラバイトレベルのパソコンを使いこなしている人間様の脳が、予想を100倍多く見積もっても100GB程度の記憶容量しかないというのだから、笑える。

記憶力的には残念な脳ではあるが、思考能力は今のところコンピュータよりも段違いに高い。複雑な意識をもち、自立した感情を保持することができる。

なぜ記憶容量が少ないのにそんなことが可能になるのだろうか?

そりゃコンピュータよりメモリが多いからだ、と考える人もいるだろう。これも間違っているそうだ(ぼくは先日まで、メモリは優秀なのだろうなと勝手に見積もっていた)。実のところメモリもたいしたことないのだという。

GPUが優秀なのだろう、という人もいる。おそらく半分くらいしか合っていない。ニューラルネットワークがディープラーニングだという人もいる(本当にわかってしゃべっているかは知らない)。まあそれはそうなんだけれども、実は正確ではない。

詳細ははぶくが、人間の脳はコンピュータのメカニズムとはそもそもいろいろ異なるのだそうだ。単純にパソコンの中身を用いて人間の脳を言い表すこと自体が間違っている、ともいえる。

それでもあえてパソコンの例えを続けるならば、人の脳というのは、「外界の情報を外付けハードディスクのように用いる」とか、「他者の脳が考え出した内容を借りて議論の途中経過をはぶく」のように、「一台では完結していない」のだそうだ。

外部とのコミュニケーションを用いることで思考を爆発的に増大させるタイプの演算をしている。どうも、そういうことらしい。

外部と接続することを前提として、限られた脳の演算能力から最大の結果が得られるように進化してきているのが人間の脳。外界から孤立した環境にいると、本来のポテンシャルを引き出せない。

だから人は自然と群れなければいけないのだ。


ぼくはこのざっくりふわふわとした仮説が気に入ってしまった。

そういえばぼくのことばというのは常に誰かの借り物だ。

浅生鴨がいいことを言えばそれを何度も自分の心の中で繰り返し、いつしか自分の感情自体がもとからそうであったかのように勘違いをしてしまう。

「不謹慎なら謝るが、不寛容とは戦う」。

これなどはまさにそうだ。ぼくが最近心に秘めていることばだが、元はといえば自分で考え出した言葉ではない。

けれども、それでいいのだと思う。

人の脳は、すべてをいちから演算して答えを導き出すのではなく、外部の脳がすでに行った結果を拝借してそこに自分なりの色づけをするようなやり方で、限られた演算能力を有効に活用しているというのだから……。




ああ、そうか、だから本を読むんだ。

ぼくは他人と会話している時間よりも本を読んでいる時間の方が少し長いけれど、それは、誰かほかの脳が考えたことを、声ではなくて文字でおいかけるのにハマっているからなのだろうな。



今日はそんなことを考えながら本を読んでいた。「どこでもない場所」という本である。

2018年9月10日月曜日

病理の話(241) かんじんな代謝の話

ぼくらが生きて暮らしていくために、人体は何をしているのか。

これをものすごく雑に説明すると、

「栄養や酸素を取り入れて、それをエネルギーにかえて、細胞を生かし続けたり、あるいは古くなった細胞を入れ替えたりする」

となる。

これをさらにざっくりと説明すると、

「細胞がメシを食い、出すものを出して、やりくりしていく」

となるのだ。えっ、ざっくりしすぎではないか?

しすぎではない。結局そういうことなのだから。



けれど教科書でそういうことを書くとなんだかみんなホンワカしてしまって勉強にならない。

だから代謝というむずかしめの言葉で置き換えている。ただそれだけ。



代謝(メシを食いエネルギーを作り、いらんものを出すこと)のために必要なのは……。

・細胞それぞれに栄養を運ぶこと

・細胞それぞれからゴミを回収すること

の2つだ。

だから全身各所にくまなく栄養を運ぶために「血管」が必要となる。

そして血液の流れを産み出すためにはポンプが必要で、それが心臓。



血管の中に流して運ぶべき栄養はどこから来るか?

もちろん食べ物からやってくる。

ただ、食べ物に含まれている栄養をそのまま全身に流すというのは効率が悪い。

たとえばあなたが100円ショップにハンガーをひとつ買いに行ったとする。

そこに「はい、材料の木です」と100円分の木材が置かれていたらムカッとするだろう。

原材料は加工しなければいけない。

生の食材だけ食って生きていくのは効率が悪い。

だから、「加工工場」がある。それが肝臓だ。



「肝心」という熟語はよくできているなあと思う。

たしかに、「肝臓」と「心臓」は、生命を支える要そのものだ。

肝臓と心臓は生命にとって肝心なのである。




さて、細胞は食ったら出すものを出す。

出てきたゴミを回収する作業も必要だ。ゴミ回収も、基本的には血管をもちいる。

上水道と下水道は同じ水道局で管理した方がわかりやすい。

ただ、中に流れている血液は共通だ。いつまでも血管の中にゴミを入れたままだと街がよごれる。

だから下水は処理施設できれいに浄化する。この処理施設というのが腎臓だ。




おお、ちょっと狙いすぎだったかもしれないが……

「肝腎」という言葉もあるではないか。

生命にとっては肝臓と腎臓が肝腎なのである(ギャグではなく)。




肝心と肝腎、どちらもふつうに変換ソフトで出てくる。これらの言葉をなぜきちんと統一しなかったのかは日本語にひそんだナゾの一つだ。けれど、わからないでもない。甲乙つけがたかったのだろうな。

2018年9月7日金曜日

踊ってばかりの国に僕はラジオという名曲がある

ラジオには逃避の香りがする。

別にメディアのひとつにすぎないのに。




扉を閉めた部屋でひとり、スピーカーの前で、何かを書きながら。

あるいはイヤホンをして。

本を読みながら、運転をしながら。

ときおり聞き漏らす。

でも逆に、作業の手を止めて、聴き入ってしまうこともある。




なぜラジオが逃避なのかと考えていたのだが、これはなんとなく、シナプスの誤接続によるものではないか。

たぶん、ラジオ自体が逃避なのではない。

逃避しているときにする行動がラジオを聴いているときの行動と似ているのだと思う。




何かから逃げているときの焦燥感。すでに焦げ付いてしまったような感覚。くさく、乾いている。

そういうときには、無為に手が動く。

見るともなく何かを見たりする。

後悔におしつぶされないように、作業をする。

意味がなくてもいい。意味がないほうがいい。

目は本の行を追っていても、脳には入っていかないようなあの感じ。

逃げているときというのはたいていそんな感じだ。




ラジオを聴いているときも、理由はわからないのだが、なんとなく同じような行動をしている。

だからシナプスが勘違いをするのだろう。

どことなく手持ち無沙汰で、でも今とりあえず何もしていないわけではないというエクスキューズがあって、忙しいからテレビをみるほどの時間はないのだと自分に言い聞かせ、それでも何かインプットが欲しくてしょうがない、というニュアンス。




何かから逃げたいなという思いで脳が満たされた人には、ひとまず、ラジオを聴くというアイディアをすすめる。

別に地上波でなくてもいい。

今は世の中にいろんなラジオがある。

ネットラジオというやつだ。

Vtuberの語りでもかまわない。

けれども、できれば、素人ではなくて、ちょっとだけ玄人の声の方が安心できるかもしれない。

Podcastのアーカイブを探ってみるのもよいだろう。

声のいい俳優やアナウンサーから検索していってもいいかもしれない。




ラジオは逃げる代わりに聴くものだ。

逃げるために聴く、と言ってしまってもいい。そこに大きな違いはない。




けれども小さな違いがある。そのあたりが何かをあなたにもたらすかもしれないと狙って書いている。

2018年9月6日木曜日

病理の話(240) 病理レポのお作法

毎日、仕事のことを考えている。

さまざまなことを考えているのだが、最近とくに興味があるのは、「文章をわかりやすく伝えるための、言葉の順番」についてである。



今の文章にしても、言葉の順番を入れ替えるとニュアンスが少し変わる。



2.さまざまなことを考えているのだが、とくに最近は、「文章をわかりやすく伝えるための、言葉の順番」について興味がある。

3.さまざまなことを考えているのだが、「文章をわかりやすく伝えるための、言葉の順番」について、最近とくに興味がある。

4.さまざまなことを考えているのだが、とくに「文章をわかりやすく伝えるための、言葉の順番」について、最近、興味がある。




まあこういうかんじのことを、毎日気にしている。仕事場で。

なぜかというと、ぼくら病理医は、「文章で診断を書く」からなのだ。




臨床医は病理診断報告書……病理レポートと呼ばれるものによって、ぼくらの考え方を知ることが多い。

極めて難しい症例とか、診断に時間を要した症例などでは、電話で伝えたり直接面と向かって相談したりすることもあるが、そのときも必ず、文章にして記録に残す。

この文章が、ときおり臨床医を悩ませる。

「これ、どういう意味で書いてあるのかな……。病理の専門用語すぎて読めないよ」

なんてことがあると、病理に対する信用度はがくっと落ちてしまう。

だからぼくらはいつも、文章に気を配るようになる。




かといって、病理診断報告書というのは別に文学作品ではない。

病理医が表現にこだわるあまり、書き方が人によってバラバラになってしまうのもよくない。

ある程度は「お作法」を守らなければいけない。



いくつかのお作法がある。



報告書の中には、

・診断

という、いわばタイトル、メインとなる文章を書いてから、

・所見

として、詳しい顕微鏡像の解説や病理医が見て取ったものを書き記すのが一般的な「お作法」だ。




また、診断名は一般に、英語で記載される。

ときおり、医学生あたりが、「日本人が読むレポートなんだから日本語で書けば良いだろう」などと文句をいうが……。

申し訳ないが、ある程度働いた医師にとっては、英語も日本語もそれほど違いはないのだ。

もともと医学論文とか教科書の有名所はすべて英語である。

UICC/TNM分類だって英語だ。

病気の名前だってもともとは英語(あるいはラテン語)がほとんど。

病理の主戦場においては、英語に準拠することが大前提なのだから、それをわざわざ「画数の多い」日本語に翻訳することもない。

もちろん、こまかな顕微鏡像の説明みたいなものは、ニュアンスを含めて母国語で書いた方が伝わりやすいだろう。レポートすべてを英語で書く必要はない。

けれど、主診断はわざわざ日本語で書くほうがむしろ面倒なのである。

そうそう、あと、英語の方が、「検索が楽」だ。このことはあまり知られていないがとても重要。

「子宮頚がん」ということばは、日本語で書くと、漢字のバリエーションによって

 ・子宮頚癌
 ・子宮頸癌

の2種類にわかれる。こういう漢字の違いが混じっていると、病名検索のときに面倒が生じる。

病理診断科は、ほとんどの「がん」に診断をつける部門なので、がんの統計を取りたい人たちが集まってくる。そのときに備えて、検索効率の高い書き方をしておくのが「お作法」である。



ほかにもお作法はある。

「顕微鏡をみる際に、拡大をあまりあげない状態で観察した像から説明し、次第に拡大を上げた像へと説明を進めていく」

というのもお作法。ただこれには「流派」があり、絶対にこれがいいというわけでもない。



細胞を形容することばをいつも順番に並べるというお作法もある。

Two benign small new round white peripheral chondroid tumor.
(数→性質→大小→新旧→形→色→年(起源)→材質)

まあここまで並べ立てるとかえってわかりづらいが……。




いろいろ細かな作法はあるが、最終的には、「何よりも、読んでいる人がわかりやすい文章とは何かを考え続ける」のがお作法となる。

丁寧なことばで書く。できれば敬語を使って書きます。お疲れでしょうみなさん。

一文の中で何度も「~~が、しかし」と文意をひっくり返さない。

箇条書きにするときに、
 ・手動でかまわないので
 ・インデントをかける
 1. 通し番号を使いこなし、
 2. スペースも活用する。




奥の手としては、正式な病理診断報告書内に、

「ご不明な点は直接おたずねください」

と書き込んでしまう。これは本当に奥の手だ。臨床医と日頃からどなりあったり笑い合ったりしている人以外には、正直いっておすすめできない。

2018年9月5日水曜日

タートルズの悪役の声でサワキチャンと呼んでいる

人が生き死にしている世界線にぼくらは生きている。

人が生き死にしない世界線なんてあるものか! とツッコまれるかもしれないけれど、それもまた、ありえた。

もし今ほど脳が高度でなければ、生命は総量とか総体とか、統計とか確率でしか表現できなかっただろう。

ぼくらが極めて複雑化した「意識」をもっているからこそ、個別の命ひとつひとつが生きたり死んだりすることに、物語を感じることができる。

だから「生き死に」ということばが生まれる。




生き死にの常態化した世界でぼくらはすぐ物語に頼る。

図抜けたフィクションでなくてもいい。

ありふれた「ふつう」の物語でもいい。

……実際にはその「ふつう」の中にすら、生き死にが内包されているんだけれども。

生きたり死んだりすることこそが一番「ふつう」だからなんだけれども。





先日の出張で、北陸新幹線のシートにはさまっていた車内誌を読んだ。

そこにはぼくの敬愛する沢木耕太郎がエッセイを書いていた。

ところが残念なことに、エッセイは「上」だった。

単発ではなく続き物だった。

北海道に暮らすぼくは、めったに新幹線に乗ることがない。まして北陸新幹線。今後とうぶん乗る予定はなかった。

来月、この雑誌に載るのであろう「下」を読む方法がない。

とほうにくれた。

エッセイはとてもおもしろかった。少なくとも「上」を読む限りでは。

ちくしょう、続きが読みてぇなあ……。

いつか単行本に収録されるのを待つしかない。されないかもしれない。

宙ぶらりんになった。

このエッセイがこれから「生きることを語るのか、死ぬことを語るのか」がわからないまま、ぼくは新幹線を降りた。



小説のラストが気になるというと、まあ、納得してもらえると思う。

けれどもエッセイだってそうなのだ。

ぼくは最後まで読めないエッセイの前でもじもじとしてしまった。





なんらかのかたちで「おわり」を繰り返していったほうが、読み手は安心なのかもしれないな、と思った。

2018年9月4日火曜日

病理の話(239) 富山病理夏の学校の話

先日、「病理夏の学校・中部支部」をおとずれた。そのときの話を少し書こう。


病理夏の学校というのは、全国の病理学会地方支部(北海道、東北、関東甲信越、中部、近畿、中国四国、九州沖縄)がそれぞれ開催している、医学生向けのイベントだ。

1日だけでやる地域もある(関東・近畿)。しかし地方においては基本的に1泊2日の合宿形式で行われる(首都圏でも宿泊でやればいいのに、と思うが、いろいろ事情もあるのだろうな)。

かなり予算を使ったイベントだ。趣向も懲らされている。



このイベントには、その地域の病理医がごっそり集まってくる。

大学で基礎研究に邁進する病理医もいれば、ひたすらプレパラートをみて診断している病理医もいるし、学生教育に熱心な人、ラボを作ってお金をもうけてる人、AI診断の開発をしている人……。

実は病理学会よりも「夏の学校」のほうが、多彩な病理医がやってくると言っても過言ではない。

ぼくも病理医のはしくれだが、このイベントに参加するといつも、「病理医ってホントに人それぞれだなあ」という思いを新たにする。




色とりどりの病理医たちは、交代交代で、医学生向けの講演をしたり、NHKのドクターGのような症例カンファレンスをやったりする。

医学生たちはほとんど金がかからずに高級宿に宿泊して飲み食いができ温泉にも入れる(地方の場合)。満喫したあげくにちょろっと病理医の話まで聞ける。

レアキャラ・病理医のいうことはたいてい刺激的だ。

だからこのイベントは人気がある。それに……。

北海道の場合は学生参加費は無料。

近隣の大学から送迎バスまで出る。

上げ膳据え膳なのである。

人が来ないわけがない。



北海道を例にあげると、病理医側のスタッフが50人くらい、医学生が90人くらい、合計140名、なんて集まり方がふつうだ。

北海道には病理診断医は100名しかいない。研究ばかりしている大学院生を集めても、病理と名の付く場所にいる人間の数なんてせいぜい200人くらいだろう。

そのうちの50名が集まってくるのだからすごい。

おまけに北海道には医学部のある大学は3つしかないのだ。医学生の数だってせいぜい1学年250名。6年生まで全部かきあつめても1500名しかいないんだぞ。

そのなかの90名が「病理に興味がある」「病理医に話を聞きたい」といってやってくるのだ。

いかにすごいイベントかわかってもらえるだろうと思う。




というわけで、先日、病理学会中部支部に招かれて、夏の学校 in 立山(富山)に行ってきた。

ぼくは「いろんな病理医」のうちどのワクで呼ばれているのかなと考えると、ま、ふつうに考えて、コレ(スマホ)だろうなと思う。道化役である。

偉い人たちがすごいことを次々と発表して学生を感動させる中、ぼくだけなんだかチャラチャラした発表をした……。

……ということにしておこう。

参加者もここを読むかもしれないが、黙っていて欲しい。読者には夢を与えた方がいい。




で、発表が終わった夜、医学生と話をしていて思ったことがある。

数年前に参加した夏の学校のときよりも、医学生が、「病理に詳しい」。

変わったな、と感じた。




昔は、とにかく格安で飲み食いできるイベントだから来ましたとか、通っている講座の教授に数あわせに呼ばれましたとか、将来は臨床医になるつもりですけれど病理医といちど話をするのもいいかなと思ってきましたとか、そういう医学生が多かった。

つまりは、「病理・夏の学校」に参加しているけれども、「それほど病理には興味がない」医学生のほうが圧倒的に多かったのだ。

でも今回は違った。

参加者の多くが、もともと病理医という仕事に興味をもっている。

医学部の1年生とか2年生なんて、まだまだ医学の勉強なんてしていない。世間一般の知識とそう違わない。病院の内情なんて知るよしもない。

それでも病理のことを知っている。




これはすごいなあと思った。

まあどう考えてもフラジャイルのおかげだ。

マンガ、ドラマというのは、世間の動きをまるごと変えてしまう。

仮にフラジャイルを読んだことがなくても、フラジャイルをきっかけにして書かれたウェブ記事とか、テレビの番宣とか、そういったものを目にする。

社会における総和としての「病理に触れる機会」がまるで変わってしまったのだ。

ぼくはずっと病理の「広報」について考えていた時期があった。フラジャイル以降の世間の変わり方には目を見張った。

「こんなに変わるものなのか」と思った。




もちろん、「フラジャイル」の一般的な知名度はまだまだ高いとはいえない。

講談社漫画賞まで受賞している名作だが、マンガ自体を好んで読まない人もいる。

けれども、フラジャイルのことを全く知らなくても、病理医というキーワードにひっかかって興味を持った人は確実に増えている。




実は医学生にもそういう人がいっぱいいる。

「ああ、マンガは読んでないんですけれど、普通に医学部の授業を通じて、病理に興味をもったんですよ」

という医学生によく出会う。

でもこういう医学生自体がフラジャイル以降にすごく増えたのだ。

ぼくはそれを知っている。なんだか楽しくなってしまう。




先日の中部支部の話ではないのだが。

ある年の「夏の学校」で、有名な病理医が講演をした。医学生たちにドッカンドッカンとうけていた。

その病理医が宴会の場でこういうことを言った。

「ぼくはあのフラジャイルというマンガが病理医のすべてだとは思っていないんですよ。だからちょっと違う方向で、医学生たちの興味をひきたかった。今日はそれがうまくいってよかったなあと思うのです。」

医学生たちはやんややんやとはやしたてた。

ぼくもにこにことそれを見守りながらひそかに思ったのだ。




「フラジャイル以前にあなたが講演したときには、これほどうけなかったですけれどもね。」




なんだ、夏の学校の話をしようと思ったのに結局フラジャイルの話をしてしまった。

失敗失敗。いや成功か。

2018年9月3日月曜日

おのれはかったな

偏見とか差別についての研究をする本というのをときどき読む。

別に社会正義に目覚めたとか言いたいわけではなくて、単に知人がそういう研究をしているので、ぼくも読んでみようかな、と思ったにすぎない。

知人がやっていることに興味がある。自分がやっていること以上に興味があると言ってもいいかもしれない。




今なにげなく書いたことの中に、けっこうな真実というか、おトク情報が眠っているような気がする。だからここをもう少し掘る。




人がみなそうだとは思わないが、少なくともぼくは、

「自分の資質や興味関心によって自分が摂取する情報を決めるタイプではない」

ように思う。特にこの数年は顕著だ。自分が買う本は、自分の従来の好みとはあまり合っていない。

どうやって本を選んでいるかというと、

「知人が激推ししている」とか「知人が書いている」がキーワードになっている。




もちろんぼくにも、こだわりというか指向性はある。

医学だったり物理学だったり数学だったり。

けれども、最近読んでいる本のほとんどは、文学だったり、歴史だったり、社会文化についてのものだ。これらは元々ぼくの興味の外にあったものだが、たとえばツイッターのフォロワーが紹介した、というようなフワフワした理由で、近頃は積極的に読むようになっている。




なぜだろう?

限りある時間を自分の興味に使わずに、なぜ他人の興味関心を掘り進めるような読書をしているのだろう?




理由はまだよくわからないのだが、どうもぼくは、自分の視野とか、自分の中で醸成された仮説などを、あまり信用していない。

信用していないというか、とても偏っているのだろうなと懸念している。

「ぼくの主観でぼくが読む本を選び、どんどん偏りが強くなる」のがいやなのだ。

本屋で好きな本を探すのは楽しいけれど、自分の好みばかりで本を探していると、本棚には似たような本ばかりが集まっていく。

それがもったいないと感じた。




誰か他の人が熱烈に取り組んだり推したりしているものを、自分でも読んで、「あっ、こんな世界があるのか、なるほど、おもしろい!」となりたい。

ただ、そうはいっても、まったく接点のない他人がおすすめする本は危険だ。

ある程度「馬が合う」人間のおすすめに乗っかっていきたい。

じゃあどういう人が馬が合うのかというと、たぶん、「ツイッターでやりとりをしている人」なんだろうな、とうすうす気づいている。



結果的に、今、ぼくの本棚には、相互フォローの人がすすめた本や、相互フォローの人が書いた本ばかりがたまっている。密かにこれをツイッ棚と呼んでいる。