2018年9月25日火曜日

デッドオアライブハウス

本とラジオの暮らしに何の文句もないのだが、ときに演劇とかライブであるとかそういった場所へのあこがれがふつりとわいてくることがある。

大きめの箱の中で空気がそよそよとゆらぐような気持ちを味わいたいときがある、と言ってもいい。

大自然の風に吹かれたいとか人智を圧倒する景色の中に埋もれたいという欲望もないではないが、部屋でひとりでいる孤独と、地球のでこぼこの中にひとりでいる孤独と、どちらか両極端しか楽しめないというのはちょっとつまらない。

その中間の孤独に対する思いがときどき強まる。

人を隠すなら人の中。

人がほどよくいる場所に紛れ込み、まわりのため息が聞こえる場所で自分もほうっと心をなでおろしてみたい。本でもラジオでもなく、グランドキャニオンでもグレートバリアリーフでもなく、劇場とかライブハウスに紛れ込んで静かにうつむいていたい。




よく言われることだが、以上のような欲望を満たそうと思うと東京という場所がとにかく圧倒的に便利である。ぼくの住む札幌だって大都市であり、しょっちゅう劇団が公演をしているし、音楽のイベントだって毎日開催されてはいるのだが、質はともかく量は東京の100分の1くらいだろう。「無数にあって経営が成り立っている」というのは強い。普通そうはならないからだ。札幌に同じ数のイベントがあったとしても絶対にペイしないだろう。

大阪、神戸、福岡あたりの人と話をしていても、最後には同じ話になる。

有象無象が新陳代謝しながらひたすらアクトしているってのは東京だよな、と。

消えてなくなりたいような気分のときに、実際に消えなくても、人の中に紛れて事実上消えてしまうことができるのは東京だけだよなあ、と。




誰が降りるんだこんな駅、というところで100人くらいがうごめいていた。

誰が入るんだこんな雑居ビル、みたいな場所に、誰がつけたんだこのフスマ、みたいな引き戸(なぜだ)があって、誰が塗ったんだこの壁を横目に、誰が産んだんだこの男みたいな人に金を払って、誰が見るんだこんな演劇、を座って眺めている人間が40人くらいいる。

ああ、贅沢だなあと思う。多くの場合、そういう演劇はつまらない。けれどもときに自分のつまらない部分にめちゃくちゃにヒットするときがある。出演者たちのあれとあっちは付き合ってるんだろうな、みたいなのが見えたり、演出家という名刺を持っているのであろうフリーターが裏で何本も電話をかける声が一番神がかった演技を披露していたり、災害のときにはこちらからお逃げくださいというアナウンスのあとに非常灯をみたら完全にぶち壊れていたりする。ああ、贅沢な時間だなあと思う。

人生はかけがえのないものだからこそ、かけがえのない一瞬に、かけがえのない一期一会を、もりにもってかけにかけて、うっかりかけ違えたような日に雑踏の中で、ああ、今日は生きたなあ、と不満足する。



そういうテンションで飲み食いに行くとたいてい外れる。そして札幌に早く帰りたいなあと口走ってしまう。店内の32人中32人がもう帰りたいとつぶやいている。