2018年9月13日木曜日

12回

浅生鴨「どこでもない場所」がとてもよかった。

沢木耕太郎と椎名誠と須賀敦子のエッセイが好きだから、次は「せ」ではじまるエッセイストだなと思い、瀬戸内寂聴かなあ……なんて手にもとらずにまごまごしていたら、「あ」だったわけだ。

とまあここまではツイートしたのだが、その後ふと思い付いた。

浅生鴨というのはほんとうに「あそうかも」と読むべきなのだろうか?

これはもしかすると「せんなまかも」と読むのではないか?

あるいは「せんぶかも」とか。

「せんおいかも」かもしれない。

全国津々浦々に存在する難読地名だってこれくらいのアグレッシブな読み方はあり得る。

そうだ、「せ」なのだ。彼の名前はせではじまるのだ。

だからサワキ、シイナ、スガ、の次はやっぱりセンナマなのだ。

ぼくはとても納得した。彼の、闇に落下していく途中の人をとらえる空気感、旅先で絶句したときに耳の奥でぼそぼそとつぶやく声を拾ったかのような語調、パリやプラハが似合うたたずまい、どれもこれも、ぼくが今まで好きで読み続けてきたエッセイストたちが持っているようで持っていなかった、共通で持ってはいるんだけれどそれぞれ使い方が少しずつ違っていた、そんな武器だと思った。

だから彼はセンナマカモなのだ。ぼくはもう今日からそう決めてしまった。



彼のツイッターアカウントには「あそうかも。」と表記されているが、あれは、単に、彼が心の中で「あっ、そうかも。」とつぶやいているのを置いているだけなのだ。

実はセンナマなのだ。このことはまだぼくしか知らない。

もしかしたらかも自身もまだ知らないかもしれないのである。