人間は何故、群れたがるのか、という疑問がある。さまざまな創作物で取り扱われているし、あなたも考えたことがあるかもしれない。最近読んだところでいうと、「からくりサーカス」の中でシルベストリが問うていた。
古典的かつ根源的な疑問だろうと思う。
「人はなぜ群れる」?
今のところ、ぼくが得た答えはこうだ。
「人は、群れないと思考が完結しない。脳がそういうふうにできている」。
人間の脳の記憶容量というのを調べた人がいるそうなのだが、その人によると、誤差はあるにしろだいたい500MBから1GBくらいではないか、と考えられているらしい。
人が記憶している単語の数などから類推したとのこと。つまりはけっこう適当に計算されている。あてにはならない。けれどもよく考えてみると、仮にこの検討が1ケタ間違っていたとしてもせいぜい10GB、2ケタ間違っていたとしても100GBにすぎない。
その程度なのだ。
今やテラバイトレベルのパソコンを使いこなしている人間様の脳が、予想を100倍多く見積もっても100GB程度の記憶容量しかないというのだから、笑える。
記憶力的には残念な脳ではあるが、思考能力は今のところコンピュータよりも段違いに高い。複雑な意識をもち、自立した感情を保持することができる。
なぜ記憶容量が少ないのにそんなことが可能になるのだろうか?
そりゃコンピュータよりメモリが多いからだ、と考える人もいるだろう。これも間違っているそうだ(ぼくは先日まで、メモリは優秀なのだろうなと勝手に見積もっていた)。実のところメモリもたいしたことないのだという。
GPUが優秀なのだろう、という人もいる。おそらく半分くらいしか合っていない。ニューラルネットワークがディープラーニングだという人もいる(本当にわかってしゃべっているかは知らない)。まあそれはそうなんだけれども、実は正確ではない。
詳細ははぶくが、人間の脳はコンピュータのメカニズムとはそもそもいろいろ異なるのだそうだ。単純にパソコンの中身を用いて人間の脳を言い表すこと自体が間違っている、ともいえる。
それでもあえてパソコンの例えを続けるならば、人の脳というのは、「外界の情報を外付けハードディスクのように用いる」とか、「他者の脳が考え出した内容を借りて議論の途中経過をはぶく」のように、「一台では完結していない」のだそうだ。
外部とのコミュニケーションを用いることで思考を爆発的に増大させるタイプの演算をしている。どうも、そういうことらしい。
外部と接続することを前提として、限られた脳の演算能力から最大の結果が得られるように進化してきているのが人間の脳。外界から孤立した環境にいると、本来のポテンシャルを引き出せない。
だから人は自然と群れなければいけないのだ。
ぼくはこのざっくりふわふわとした仮説が気に入ってしまった。
そういえばぼくのことばというのは常に誰かの借り物だ。
浅生鴨がいいことを言えばそれを何度も自分の心の中で繰り返し、いつしか自分の感情自体がもとからそうであったかのように勘違いをしてしまう。
「不謹慎なら謝るが、不寛容とは戦う」。
これなどはまさにそうだ。ぼくが最近心に秘めていることばだが、元はといえば自分で考え出した言葉ではない。
けれども、それでいいのだと思う。
人の脳は、すべてをいちから演算して答えを導き出すのではなく、外部の脳がすでに行った結果を拝借してそこに自分なりの色づけをするようなやり方で、限られた演算能力を有効に活用しているというのだから……。
ああ、そうか、だから本を読むんだ。
ぼくは他人と会話している時間よりも本を読んでいる時間の方が少し長いけれど、それは、誰かほかの脳が考えたことを、声ではなくて文字でおいかけるのにハマっているからなのだろうな。
今日はそんなことを考えながら本を読んでいた。「どこでもない場所」という本である。