人が生き死にしている世界線にぼくらは生きている。
人が生き死にしない世界線なんてあるものか! とツッコまれるかもしれないけれど、それもまた、ありえた。
もし今ほど脳が高度でなければ、生命は総量とか総体とか、統計とか確率でしか表現できなかっただろう。
ぼくらが極めて複雑化した「意識」をもっているからこそ、個別の命ひとつひとつが生きたり死んだりすることに、物語を感じることができる。
だから「生き死に」ということばが生まれる。
生き死にの常態化した世界でぼくらはすぐ物語に頼る。
図抜けたフィクションでなくてもいい。
ありふれた「ふつう」の物語でもいい。
……実際にはその「ふつう」の中にすら、生き死にが内包されているんだけれども。
生きたり死んだりすることこそが一番「ふつう」だからなんだけれども。
先日の出張で、北陸新幹線のシートにはさまっていた車内誌を読んだ。
そこにはぼくの敬愛する沢木耕太郎がエッセイを書いていた。
ところが残念なことに、エッセイは「上」だった。
単発ではなく続き物だった。
北海道に暮らすぼくは、めったに新幹線に乗ることがない。まして北陸新幹線。今後とうぶん乗る予定はなかった。
来月、この雑誌に載るのであろう「下」を読む方法がない。
とほうにくれた。
エッセイはとてもおもしろかった。少なくとも「上」を読む限りでは。
ちくしょう、続きが読みてぇなあ……。
いつか単行本に収録されるのを待つしかない。されないかもしれない。
宙ぶらりんになった。
このエッセイがこれから「生きることを語るのか、死ぬことを語るのか」がわからないまま、ぼくは新幹線を降りた。
小説のラストが気になるというと、まあ、納得してもらえると思う。
けれどもエッセイだってそうなのだ。
ぼくは最後まで読めないエッセイの前でもじもじとしてしまった。
なんらかのかたちで「おわり」を繰り返していったほうが、読み手は安心なのかもしれないな、と思った。