2023年11月27日月曜日

脳だけが旅をした

書きためてあった記事5本をすべて公開しました。ブログは今日でおしまいにします。今朝、ウェブ連載などの担当者のみなさまにも、連載を終わりたいというご連絡をしました。SNS医療のカタチのメンバーにもです。彼らのことをこれからものんびり応援してください。私はとうぶんお休みです。ポッドキャスト「いんよう!」についても、今後先輩と相談しますが、たぶんお休みさせていただくことになります。

手紙を送らないでください。荷物を送らないでください。献本もやめてください。駅や空港、学会場などでの待ち伏せをやめてください。多くの人に迷惑がかかってきました。どうかお控えください。心からお願い申し上げます。

それはそれとして、それとは別に、今までたくさん支えてくださった方々、ほんとうにありがとうございました。おいしいものやおもしろい本などをいただき、どれもすべて楽しみました。本当です。いつかからか、そういったものが楽しめなくなってしまいましたが、それはあなたがたのせいではありません。申し訳ございません。

無念です。しかし念は残っていません。念が無いと読めばまるで後悔がないというニュアンスにもとれます。なるほどよくできた言葉だと思います。まだやりたいことがあったような気もしますが、その気持ちはこれから別の仕事に向けていこうと思います。これからも元気に働いていきます。ありがとうございました。どうもありがとうございました。

病理の話(843) 見直したらありました

今日のブログのタイトルは世の中の99.99%の人にはぴんとこないと思うが0.01%くらいの人にはぞっとする響きをもつのではないかと思う。

まあ病理の話だから基本的には病理医がやる顕微鏡診断の話だ。

しかしもしかするとどの領域でも起こることかもしれない。



顕微鏡で細胞を見る。プレパラートの端から端までしっかりと見る。ビルの窓を清掃するときの、ワイパーで上から下、下から上へとまんべんなく拭き取るような心持ちで、視野を残さず、じっくりと見る。スキャンする。

そうして「所見」を探す。所見というのはわかるようでわからない言葉だが、ぼく自身は、ただ見えたものを「所見」と言うのではなく、見えたものに病理医としてなんらかの意義づけができるなあと思ったものを「所見」と呼んでいる。

したがって所見というのは「血管がありました」「炎症細胞がありました」「上皮細胞がありました」という報告ではない。

「ここにあってはいけない上皮細胞がありました」

とか、

「ここに普通よりもはるかに多い、病的な量の炎症細胞がありました」

ということを見つけたときに、「所見」として報告書に書き込む。


で、くまなくスキャンして、結局、「所見がない」ことはある。

病気の部分からきちんと組織が採取されていないのか。

はたまた、臨床医が病気かなと思っただけで、そこはじつは病気ではなかったのか。

いろいろな可能性が考え付くけれども、ないものはないのだ、だからそういうときには病理医は、「有意な所見はありませんでした」とか、「特異的所見は見いだせません」と書く。


で、だ。


報告書を書いて、すぐ出さずに、ほかの病理医にもチェックしてもらう。ダブルチェックである。「目を変える」ことで、見逃しや書き間違いなどを防ぐのである。

すると、二人目の病理医が、ぞっとするようなことを言う。

「あるよ。所見。ほら。」

えっ……。あんなに見たのに……。

あらためて顕微鏡を覗く。たしかにある。そこに異常な細胞が。それもけっこうな量で。

見逃すというのは「微少で見逃す」ばかりではない。なぜこれに目がいかないの? というような、落とし穴にハマったような見逃し方をすることがある。

へんな汗が背中を流れる。

「見直したらありましたね……」


これが本当にあるから怖いのだ。そして、このような見逃しを防ぐ方法も、いろいろと受け継がれてきている。

さっきの「ダブルチェック」はいいやり方だ。でもほかにもある。一人でできることがある。

「上から下、下から上とスキャンしたら、次は左から右、右から左へともう一度スキャンする」なんてのが、おもしろいやりかただと思う。

作家さんの中には、書き間違いをチェックするにあたって、横書きで書いたものを縦書きにして見直すと見つけやすい、みたいなテクニックを持っている人がいるという。なんだか似ているなあと思う。

あと、これはいかにも病理診断ならではなのだが、「標本を作り直す」というやり方がある。ガラスプレパラートをもう一度作ってもらうのだ。技師さんには申し訳ないが、細胞の切り口が変わるので、見え方がちょっとだけ変わる。すると、前回とは違った雰囲気の中で、見づらかった細胞が見えるようになったりする。

免疫染色を使う、という手法もある。でもこれはお金がかかるのであまり乱発はできない。



「ないと思ったけど、見直したらありました。」主治医も患者もずっこける瞬間だ。できるだけ経験したくない。でも、長く仕事をしていると、完全な見逃しまではいかなくても、ヒヤリ、ハッと、することはある。あぶねー! はままある。油断できない。慎まねばならない。

信頼できるかできないか

無数のスパムメールの中にどうやら大事なものも混じっていたようである。「スパムと思われるようなメールをおくるほうが悪い!」と思った。タイトルが英語で本文の書き出しも英語で、しかも差出人表示が知らない人で、じつはよく知ってる大学教授のプライベートメールアドレス、みたいなパターンは予想しようがないではないか。ぼくのせいじゃない。そして、結果的に、ぼくの立場がものすごく悪くなったので理不尽である。なぁーにが教授だよ! けっ! ごめんあそばせ!

ごめんあそばせ ってなんなんだ。あそばせ は遊ばせるってことなのか。語源検索に入る。「ごめんあそばせ 語源」→結果によるとあそばせ、は尊敬語で「しなさってください」だとそうな。いや、待て。そこは「してください」が正しいのではないか。しなさってくださいって日本語として破綻してるのでは? 気のせい? こうした言葉は「あそばせ言葉」と言われているとも書いてある。ほんとうか? 信用できない。丁寧で上品、という言葉を瞬間的にちぢめて「下品」に空目した。信用できない。

見間違いや空目による経済損失は専門家の試算によると年間5兆ドルだという。

こうやって書くだけでちょっと考えてしまうのが人間のつらいところだ。うそでもおおげさでも、まぎらわしいことでも、なんでもかんでもとりあえずいったん受け止めて信用してしまう。それがぼくを含めた多くの人間のかなしいところだ。今日、あなたの枕元に夢が降るでしょう。

ここまで5分。

いったん手を止める。

キータッチする指の、特に右手の薬指の爪がわずかにキーボードにひっかかるのが気になって爪を切った。

だいたい毎週爪を切っている。

ぼくの手の甲にはわりかし毛が多い。指とか。年齢相応にふしくれだって、指の関節の部分もだいぶ硬くなっている。見た目も肌質もだいぶ老いてきた。

それでも爪だけは頻繁に切るようにしている。

理由はキータッチのジャマだからだ。

でも、何度かブログに書いたことがあるかもしれないけれど、今でもちょっとだけ、昔から心に刻んでいることを思いながら爪を切っている。

元ネタは、『エルマーの冒険』だったろうか、もう忘れてしまったのだけれど、ある本で、主人公が祖母か誰かに、「爪はちゃんと切りなさい。誰かと話したり、握手をしたりするとき、相手に一番近づくのはあなたの爪なのよ。」と言うシーンがあった。ぼくはその場面の状況も、なんならセリフも忘れてしまっているので、今検索してもぜんぜん出てこないんだけれど、でもその「勘所」というか、「意気」の部分だけは40年くらい経っても覚えていて、爪を切るときに必ず「相手に一番近いところだからな。」と念じて切るのだ。

ほんとうはそんな本など存在しなかったかもしれない、あるいは夢で本物の祖母に言われたのだったかもしれないが、もはやそこはどうでもいい。爪を切ったあとにふと思ってこれを書き足した。息子はたまに夢に出てくるが、祖母はめったに出てきてくれない。これらはぜんぶ、信用できることだと思っている。

病理の話(842) 二人目の診断

病理診断は、見落とし、うっかりミス、報告書の書き間違いなどをふせぐために、「ダブルチェック」をする。

一人目の病理医が顕微鏡で細胞を見て、レポート(報告書)を書いたあと、それをすぐに電子カルテに送信して主治医たちに読んでもらうのではなく、いったん「仮登録」をする。

仮登録の段階では、主治医たちはレポート内容を読むことができない。

ここで、二人目の病理医が、レポートの文章をチェックする。これがダブルチェックだ。

チェックは1回目なのだからシングルチェックじゃないの? とか言わないでほしい。最初にレポートを書いた人も、仮登録を押す前によく「見直し」をしている。セルフチェック済みということ。だから二人目のチェックはダブルチェックと呼ばれる。


こうやって書くと、ダブルチェックはまるで、原稿の「校正」みたいだ。

ただし、二人目の病理医は別に仮登録されたレポートの文面や字面だけをチェックするのではない。

二人目もまた、顕微鏡でしっかりと細胞を見る。あらかじめ一人が細胞を見たから二人目はもう細胞を見ないとか、適当にしか見ないというのではなく、ふつうに診断のプロセスをもう一度くり返す。


とはいえ、二人目のほうが少しだけ早く見終わる。レポートの文章を書く時間がない分、はやい。プレパラートのどこに異常な細胞があるか、などのマーキング作業(水性ペンや油性ペンを使ってガラスの上にマークを付ける)なども、二人目はあまりやらなくていい。

その代わり、二人目の病理医は、二人目特有の「目線」で細胞を見る。

たとえば、箇条書きでさまざまな要素をチェックするタイプのレポートなら、表記漏れが起こりやすい部分というのはある程度決まっている。気を付けていてもうっかり書き漏らしたりする。

でも、そういう単純なミスの発見は、将来はAIがやってくれるに違いない。

書き間違いとか表現のおかしさよりも、もっと根本的な部分で、ダブルチェックをするべきだ。それはたとえば、こういうことだ。


一人目の病理医が「全力」で診断を出した。手を抜いたりとか、油断したりとかは、ない。それでも、誤診は起こりうる。起こってしまう。

「経験のある病理医が全力で診断をしたのに細胞の意味をとりちがえる」ときのパターンを、二人目の病理医は、頭に叩き込んでおくのだ。


1.細胞のようすが、いかにもある病気のように見えるが、じつは低確率で、その病気にそっくりの形状を示す「別の病気」ということがありうる。

2.細胞の変化が非常に微細・小範囲に留まっているために、気を付けていてもうっかり見逃してしまう。

3.レアな病気のため、知識が足りないために、そこに証拠があっても気づかない。

まとめるとこういうことだ。

「ミミッカー注意! 見逃し注意! 激レア注意!」

ミミッカーとはドラクエに出てくる「ミミック」を思い浮かべればわかるかもしれないが、「真似をするもの」という意味。見逃し注意はそのままだ。激レアもわかるだろう。

駅のホームで乗務員や車掌さんが、指さし確認をしてミスを減らすように、我々も、ダブルチェックのときには、「全力で診断した病理医がそれでも間違うポイント」を強めに意識する。

一人目からそれをやればいいじゃん、と思うだろう? やっている。やっているのだ。それでも間違う。一人目はどうしても自由演技になる。誰もレポートを書いていないところにフリースタイルで診断を書く。そのことにちょっとだけ頭脳を持っていかれる。負担を割く。すると間違うことがある。まれに、低確率で。

だから二人目はより、「誤診を前提とした」チェックをするのだ。いやらしいよね。減点法の採点官みたいだ。



ぼくは今、「一人目」も、「二人目」も担当する。やはり、「一人目」のときにはうっかり見逃したり間違えたりすることがあるし、そのことを元に「二人目」として他人のうっかりを拾い上げる。そして二人目としての経験を積んでもなお、「一人目」のときは誤診をしそうになるのだ。気を付けてはいるがやはり完璧には達しない。ダブルチェックはぼくらの命綱だ。ひとりで二人分考えられたらどれだけいいだろうと思うし、もしぼくの脳の中に、うまいこと二人の病理医を抱えられたとしたら、ぼくはきっと、同僚に「三人目」のチェックをお願いすることになるだろう。病理診断とはそういう部門なのだ。

もっこもっこ

病院の会議がはじまるとだいたい5分で寝てしまう。

入院患者の数がどうとか、地域からの紹介がどうとか逆紹介がどうとか、健全運営のために必要なことのほとんどは病理診断科のぼくにとっては全く関係がない……とまでは言えないが、ほぼほぼ関係がない話になるのは事実なので、ひとまず睡眠の時間にあてている。

寝ぼけながら参加している管理職の医師たちを見回していると、なかにはやけに熱心に病院の経営方針に口を出すタイプの人もいる。経営職でもないのになぜそこまで……とふしぎな気持ちになる。そういう人は、将来自分も開業する予定があって興味津々なのかもしれないし、そうではなくて単純にこういう会議でいきいきするタイプの人柄なのかもしれない。いずれにしてもぼくが全く気持ちを入れられないこういう場面で、水を得た魚になってくださる人のおかげで病院というどでかい企業は動いているのだから感謝こそすれ揶揄などしてはならない。ありがとう魚。おい、魚が行くぜ。大変な野火ですな、魚を向けて焼いたらどうです。張飛ってすげえよな。

会議から戻ってくると定時を回っていたのでここからは自己研鑽の時間である。当科の医師はみんな帰ってしまっておりだれもいない。じつにすこやかな職場環境だ。ここでぼくがちょっとでも働いていたらそれは「自己研鑽という名の下にやりがいを搾取してうんぬん!」と各方面から激ギレ込みで突進してこられる案件になるのだけれど、ぼくは今こうしてブログを書いているわけで、どう考えても過剰労働ではなくて自己をキュッキュと研鑽しているのである。思わず研磨の効果音を入れてしまったが研鑽というのはしかし不思議なことばだな。語源でも調べてみようか。研鑽の研究は研磨の研であり、まさにとぐとかみがくという意味だ。研鑽のさんは穴を開けるきりの意味のようである。つまりこれは木工なのだな。仕事が終わってからじっと考えながら自己研鑽をするというのはすなわち黙考して木工に勤しむということだったのだ。

研鑽するために必要なのは削っても穴を開けてもよい板を用意することである。厚みのある素材だから思い切り彫ることができるのだ。ペラペラのベニヤ板だと、ちょっと削っただけでバキッと折れてしまうだろう。若いときには自己研鑽なんてするよりもまずは素材の厚みをきちんと確保することが大事な気がしてならない。十分に肥え太ったものを伐採してもっこもっこと削ってようやく自分が仏像みたいに姿をあらわす。したがって業務終了後に金ももらわずに自分に向き合うのをやっていいのは私のような中年の特権である。若者は自己研鑽なんて生意気なことを言ってないで定時を過ぎたら映画をみるなりワインを飲むなりしたらよい。そのために必要なのは十分な給料だ。仕事のできない人間にこそたくさんの給料を渡してどんどん分厚くなってもらったらいい。ぼくみたいに仕事ができるようになった人間にはもはや給料なんていらないということになる。……なんだこの木工は。いびつすぎるぞ。捨てよう。黙考のやりなおしが必要である。あんなに寝たのにまだ眠たい。

病理の話(841) 病理プレゼンテーション法 草稿

今から書く内容がそのまま原稿に育っていくなんてことはまったくなくて、なんなら後日、本番の原稿「病理プレゼンテーション法」を書くときに、このブログ記事を参照することもおそらくない。

しかし、「今の段階で脳の中にあるものをただ出すとどうなるのか」、という仕事を自分の指に発注し、指から勝手に打ち出されていく文字をぼくの目が見ることで、その文章が自分にとって衝突する銃弾となるのか、それとも無風の温帯の空気なのか、そういうことを確認することは、やはりある種の下書きと言える。直接参照するわけではないが推敲はもうはじまっているのだと思う。


***


こんにちは、病理医の市原です。さまざまな場所で病理診断を解説する機会をいただいております。

本日は「病理プレゼンテーション法」ということで、プレゼンテーションを上手に行う方法をプレゼンするという、若干メタなことをやらせていただきます。

さっそくですが本日のお話しの結論は、「1カメ、2カメ、3カメを順番に意識することが肝要」というものです。また、途中に語ることになる、ちょっと覚えておいていただきたいお役立ちティップスとしまして、「メイリオ時代に用いるべきフォントはUD、UD時代が来たら游ゴシックにチェンジする」といったものを申し上げる予定です。

では順番にお話しいたします。

まず、プレゼンの序盤に「枕」を語るかどうか。その症例を語る上で必要な前提情報をシェアするかどうかという話についてです。病理解説においては、イントロの部分をねばっこく語っていると、あっという間に時間が足りなくなります。なのでやめたほうがいいです。病理解説はエンタメではありません。

「札幌の市原です。病理を解説いたします。」と自己紹介を4秒で述べた後、ただちに「本例の最終診断は○○です。」と、いきなり診断を述べることを強くおすすめします。病理解説において、あたかも探偵がじわじわと聴衆をじらしつつ犯人を追い詰めるように、所見を積み上げながら最後に診断を述べる方がいらっしゃいますが、あれはおすすめできません。よっぽどのストーリーテラーでないかぎり、聞いている人たちの集中は削がれ、「まるで試されているかのようだな……」と不快感すら持たれてしまいます。

まずは「結論としての診断」を述べましょう。その前に無駄に時間を使わないことです。消化管であれば、最初に診断名、取扱い規約事項などをコンパクトにまとめた画像を一枚提示すべきです。

ただし、ここで大事なことは、「結論としての診断」はなるべく早く述べるのですけれども、「そのプレゼンのキモが診断名であってはならない」ということです。序盤に結論を述べる、と言いつつ、じつは一番盛り上がるのはそこではないのです。犯人推理と病理解説とは違う。

聴衆の多くは、病理解説に、さまざまな「理論」を求めます。また、提示される「仮説」に魅力があるかどうかを吟味します。これはもう、無意識にもやられますし、意識的にもやられます。したがって、プレゼンのキモとは、その病理標本を見た病理医が、細胞と向き合って何を考え、どう考察して何を推論したのか、それが臨床医たちの見立てとどう合致したのか、どこか合わないところはあるのかという点にあります。究極的には、「病理医だけが解き明かせる何か」を聞く人たちに与えることができるかどうかがキモです。論説と仮説のわかりやすさと奥深さを同時に達成すること。これらに比べれば、診断名というのははっきりいって、「秒でさっさと語り終えておくべき前提」であり、つまりは「診断名こそが枕」なのです。ここを間違えてはいけません。

大事なことなのでくり返します。病理解説における「枕」は「診断名」です。

では診断を述べたあと、どのように病理プレゼンを展開していくか。「もう答え(≒診断名)はわかっちゃったから、あとはZoomを切ってご飯の準備だ」などと聴衆に思われないことが必要です。ですから、枕からすかさず、聴衆の興味を「最後まで引っ張るための強力なプレゼン」が必要になります。それはなにかというと、Google mapです。ちがいます。フィールドマップです。見取り図を出すのです。

残り時間、それは10分かもしれないし4分かもしれませんが、とにかく短いとはいえ研究会や学会の貴重な時間を、聴衆はみな、一人の解説担当病理医のいうことを遮らずに聞かなければいけません。解説者が場を独占する状態となるわけです。その時間に、何がどれくらい語られるのか、ということを、2秒あればピンとくるくらいのわかりやすい図で一瞬で提示します。「今からこの標本のこれくらいの範囲を語りますよ」ということが、一瞥しただけでわかるくらいの図がここでは必要です。診断名を述べるときなんてのはプレゼンに凝る必要はありません。聴衆の脳はすべて診断名に持っていかれるからです。はっきりいって画面のど真ん中に一行ないし二三行で診断を書けばそれでいい。しかし、「見取り図」を出す段階では、プレゼンのデザインがかなり重要です。画像の色味、矢印の数、フォントの種類など、思いっきり吟味します。むしろ文章は要りません。読んでいる時間で1秒経ってしまうからです。それではだめです。見取り図の段階で何か意味のある文章を5秒以上読ませたら聴衆の20%は脱落すると思って下さい。デザインされた「図解」によって、霹靂的に解説の全貌を感じ取ってもらいます。言葉を書くならそれは決定的な単語、もしくはキャッチコピーのようなものだけです。

芸術家でもデザイナーでもコピーライターでもないのにそんなことはできない! とお怒りの方に申し上げます。ここで病理医が出すべきは、「解説をするプレパラートのルーペ像」です。複数枚を解説する予定であっても、一画面にいっぺんに並べてしまいましょう。ただしそのデザインについてはいろいろと勉強して、一瞥して見やすい配置をきちんと工夫してください。写真のサイズ自体は、多少小さくて見づらくてもいいです。「見取り図」ですから。それをこれから順番に拡大していくのです。俯瞰から細部に向かって拡大をあげていく、あたかも日常の病理診断で、弱拡大から強拡大に向かって順番に進んでいくときのように、これからあちこちを拡大していくのです。そのようなメッセージを2秒で届けるということです。

そして、ここで聴衆を2秒で引きつけたら、はじめて自己紹介をしましょう。あなたの言葉はここから届き始めます。「診断名」を言った時点ではあなたの言葉は届いていません。解説がはじまったなーと思われた瞬間から、あなたの声質とかリズムとかに注意がそれはじめます。したがって、「見取り図」を提示したら2秒後には、聴衆をぐっと引きつける自分の最高の声を出す必要があります。もう診断名について語っているので、声出しの助走は終わっています。ノドがつぶれる心配はありません。ろうろうと、堂々としゃべりましょう。では何を言うか。

「それでは順に解説します。Aパート、Bパート、Cパートを、順番に弱拡大・強拡大と説明し、免疫組織化学をまとめてご説明したのちに、最後に臨床画像との整合性を確認します。」

これです。だいたいこうです。「見取り図」にマーカーで順路を示すように、手短に、よく通る声で、いつもよりも少し高いくらいの声がいいと思います、「時間的な見取り図」を一気にしゃべってしまいましょう。ここまでで一回も噛まなければ、残りの8分、もしくは3分はあなたの劇場となります。


***


このままいくらでも書けるがブログなのでいったんこれくらいにしておく。いろいろと思うところはある。ぼくって心根が軽薄なんだな、ということを、今日は思った。

ライブバイブ

原稿を書きながら耳で医者の話を聞いている。こないだ現地会場に出席した学会であるが、後日のオンデマンド配信分の金も払っていたので、聞きに行けなかった会場のセッションを流しっぱなしにしている。デュアルモニタの右側が学会動画、左側が原稿。ときどき気になるものがあったら手を止めて右側に目をやる。単位は十分足りているので、どの動画も最後まで見る必要はない。とにかくおもしろそうなところを流しておき、これだと思ったら見る。


しゃべり方がじょうずな人がいると、おおっと思って目を奪われる。耳だけで十分情報は入ってくるが、うまく言葉を使う人の顔はきちんと見てみたいし、これほど整然としゃべれる人ならさぞかしパワポのプレゼンもきれいだろうと期待する。結局、ラジオ的には聞かずに画面に向き合うことになる。しゃべるのがあまり上手ではない人だとプレゼンもたいしたことないような気がして、なんとなくラジオ的に、バックグラウンドで流しているうちに話が終わる。



まとめると、「しゃべりがうまいとプレゼンをちゃんと見る。しゃべりがへただとあまり見ないで聞くだけにする」。なんだか逆の気もするが、自然とこうなっている。



実際には、ぼそぼそ平板に、つっかえつっかえしゃべる人の中にも、とんでもない美しいデータと画像を出してくる人がいる。けっこういる。そういう人を見つけ出して話を心ゆくまで聞くのが学会の楽しみのひとつではないかと思う(性格悪い楽しみ方だが)。しかし、オンデマンドではなかなかこれがうまくいかない。



なぜだろう。PCの前で学会を見ていると、つい、「最初の30秒がつまらないともうだめ」みたいな雰囲気に満たされてしまう。YouTubeの動画の評価とかといっしょになる。学術の話なのに。イントロで重要なことが語られるとは限らない、結論からディスカッションにかけてが盛り上がるであろうアカデミックな話なのに。オンラインで、オンデマンドで見ていると、なんだか「プレゼンの上手さ」についての期待がいつもより高まってしまう。講師をYouTuberと同じ土俵に乗せてしまっている。



現地会場だとそうでもない。映画館のような椅子に深々と身を沈め、目の前で次々と展開されていく演題を見ているとき、スマホを開きたくなるわけでも、別の動画を見たくなるわけでもなく、ただスクリーンをずっと見続けている。それにあまり抵抗を感じない。ときに眠たくなることもあるけれど、目をあけたらまだ学術をやっているのが気持ちいい。そうやって、ぼそぼそぶつぶつ、しゃべる人の中に、本物の学問の輝きを見つけることが必ずある。それが学会の良さだ。現地会場だけの良さなのかもしれない。オンデマンド? Netflixみたいなもんだ。つまんなかったら即チェンジ、もしくは単位のために流しっぱなしにしておく。それ以上にも以下にもならない。



ネット、AI、なにについても言える。こんなに使えないなんて。めちゃくちゃ使ってるけどさ。こんなに届かないものだなんて。すげえ新しい世界開いてるけどさ。ここまで、リアルを補完してくれないなんて。別のものを外付けしてしまっているけどさ。体を失って生きる時代が来るかと思ったけど、これじゃあ、望み薄だと思う。身体性がどうとか哲学者が言うのもわかる。ていうか、なんだろう、肌が空気の振動を感じ取ることって、こんなに大事なことだったんだな。耳だけで講演を聞いている。肌が聞いていないということだ。

2023年11月24日金曜日

病理の話(840) 言葉の先にたどり着けない

今日はあえて具体的な病名を出すことにする。大腸にSSLという病気がある。スーパー蒸気機関車ではない。Sessile serrated lesionの略だ。

大腸の粘膜に、まるでみずぶくれのような形をした、1センチ前後のひらべったい、ちょっと表面に粘液のついたうすーい隆起ができる。大腸カメラがハイビジョン化したことで見つかるようになった、昔は見逃されてきた病気である。

そして、じつはこれを見逃して、あるいは放っておいたところで、ほとんどの人は問題ない。SSLはSSLのままさほど大きくもならないし育ちもしないのではないか、と言われる。ただし、数パーセント(一説によると1%未満とも言う)の確率で、そこからなんと、がんが出てくる。なので放置できない。

この放置のできなさは……そうだな、今はいろいろぶっそうな世の中だから、家のカギをかけないで寝るなんて想像もつかないだろう。しかし実際には、近所のコンビニに行く短時間の間に、カギをかけなかったからといって泥棒にすかさず踏み込まれることは少ないだろう。玄関にもオートロックがあるし、フロアには防犯カメラだってある。よっぽどマークされていて、生活スタイルを把握されていて、運が悪いときに、たまたま部屋を離れた十数分に空き巣にやられるかもしれない、でもその可能性はたぶん数%とかではないかと思う。だからといってみなさんが、「数%しか空き巣に入られないならカギなんてかけなくていいや」とは思わないだろう。そこはやっぱり、カギをかけるであろう。

それといっしょだ。SSLも放置はしない。基本、見つけたら、切り取ってしまう。大腸カメラの先端からマジックハンド的なデバイスを出して、粘膜の病気の部分だけを剥がしてくるのである。



前置きが長くなったが、このSSLを病理診断するときのことを考える。どのように診断をすすめるか? 取ってきた検体を顕微鏡標本にして、細胞を観察していくのだけれども、ここで、「なんとなくニュアンスで」診断するわけではなくて、ちゃんと診断基準というものがある。

「病変のどこかに、特徴的な細胞の配列があったらSSLと名付けましょう。」

というルールがあるのだ。これに従う。慣れてくれば簡単である。

ただし、この診断をしばらくやり続けていると、一部の人は、ある疑問を持つ。


「病変のどこかに……? どこかに、とは……?」

この文章を裏返すとそこには、ある地味な、しかし見逃せない違和感が存在する。



たとえば、「がん」を病理診断する際は、カタマリを作ったがんのどの場所を見ても、構成する細胞が「悪そう」だというのが原則なのである。ヤクザの事務所に踏み込んでいったらそこにいる構成員はみな面構えが悪い。がんの内部にはがん細胞が満ち満ちている。そういうことなのだ。だから、「ここからここまでががんですね」と判断することも可能になる。


しかし、SSLの場合は、「病変のどこかに典型的なSSLっぽさが見つかれば、そのほかの場所にはSSLらしさがなくても、薄く盛り上がった領域全体をSSLと判定する」というルールになっているのだ。

これはけっこう……というかかなり……不思議なことである。


たとえ話を使うならば、札幌の中にある数百のラーメン店のうち、1店舗だけが反社の方々によって経営されていたとする。それを見つけたらすかさず、「札幌のラーメン屋はぜんぶだめですね。」というようなことだ。ひどいとばっちりではないか。


なんでもかんでもヤクザにたとえて本質から遠ざかるのも本意ではないのだが、病理医もまた、このSSLの診断基準を読むとモヤる。


まあそこにはいろいろな理由があるのだ。SSLという病気は、腫れぼったくなっている粘膜全体にある種のDNAの異常が存在するのだが(遺伝するというわけではない。そこだけDNAがダメージを受けている状況だと思えばいい)、このDNAの異常が必ずしも、顕微鏡で確認できるカタチの異常につながらないのだ。見た目ふつうだけどDNAはやられている部分というのも存在する。そのことを知っているエライ人たちが、「SSLはどっか1箇所おかしかったら全部おかしいと思ったほうがいいよ。」と言っている、というわけだ。ゴキブリを1匹見つけたら30匹いると思いなさい。ヤクザやゴキブリにばかりたとえるのもどうかと思うが……。


以上をふまえて、今日のぼくが言いたいことに結びつける。

世の中にはさまざまなSSLが存在する。2センチ大のひらべったいSSLを顕微鏡で見てみたら、その2センチのほとんどが「いかにもSSL」という細胞で埋め尽くされている場合もあるし、5ミリのSSLを顕微鏡で見てみたけれどわずか数百ミクロンくらいしかSSLっぽくない、でも一部がSSLだから全体をSSLと呼んでいる、みたいな病変もありえる。

多様なのだ。事務所の中にヤクザがみちみちパターンもあれば、スタバの中にヤクザがひとり、というパターンもある。

これらをすべて、「SSL」と診断して包摂する。それが病理診断であり、これにはメリットとデメリットがある。


メリット:さまざまな病気のありようを「SSL」という言葉でまとめて取り扱うことができる。SSLにはこういう治療をすればいい、という方針に乗っけてわかりやすく治療を終わらせることができる。

デメリット:本来さまざまに異なるはずの病気を「SSL」という言葉でまとめてしまうので、細かな差が消失してしまう。全体がヤクザというのとひとりがヤクザというのとでは、体の中でその後どうなっていくのかが、おそらく違うはずなのだが……。



名付けというのはつまりはそういうことだ。紐付けと言ってもいいだろう。まとめてラベルをつけて、糸で縛って古書店のフェアに出すみたいに、ヒトカタマリでドンと置いてしまう。あいつがまとめて出した古本はどれもおもしれぇなーと感動されることもあるが、クオリティの高い本で雑本を抱き合わせて出品してんじゃねーかと笑われることもある。病理診断において、なにをどこまで「ひとくくりにするか」については立場ごと、人ごとの哲学と思想があり、それらを踏み越えたり留保したりするたびに、「うーん、これ、今日はSSLって診断するけど、いつまでそうしていられるのかなあ。」みたいに、逡巡や葛藤が出てくる。


出てこない? それは病理医ではないということである。いや違うか。名付けてまとめることに悩みを持たないタイプの病理医もいる。ただ顕微鏡を見て診断を書いているという点だけで、さまざまなタイプの人間を、「病理医」という名前のもとに縛り付けており、その言葉の向こうにあるニュアンスの違いにはたどり着けなくなるということだ。

2023年11月22日水曜日

脊髄だけにしゃべらせない

きちんと頭を使い続けている人というのがいて、自分もそうであると言いたいところだが、自信がない。ぼくの当座の目標は、「連想ゲームではない思索」を細々と維持する人間になることだ。油断するとすぐに、「ああ来たらこう返す」のような、武道の有段者(でも達人ではない)のような反射的思考に陥る。自分がそうだからここはあえて下げて語ってしまうが、剣道三段なんてくさるほどいる。別にすごくない。長くやってりゃ「自動化した動き」で段位くらい取れる。脊髄だけで剣道しても三段くらいならたどり着く。大事なのはいかに脊髄と脳とを両方回すかだと思う。反射だけで竹刀を握るならそれは獣のいさかいと同じである。体に動きをしみ込ませるのは大切だ、しかし、半自動的にさばけるようになった重心を脳で補正し、無意識にいい力加減で握っている掌~指先を意図で微調整することこそが、武道の本質ではないかと思う。

思考も一緒だ。

反射だけ、連想だけで考えた気になって、思考の有段者を気取ることは簡単。でもそれは、獣の思考である。




べつに、ずっと難しいことを考えて、何か役に立つことを言うためにがんばりたい、と言いたいわけではない。


哲学とか思想の本を読むとき、「よし、誰それのナニナニというむずかしい言葉を覚えたぞ」と受け入れるばかりで、すぐに忘れてしまうぼくは、言葉からリゾーム的にひろがるなにかにアクセスする手間をきちんと為していないなあと思うことがある。こむずかしい言葉を掘り進むようにひらいていく人、そういう人になれたらいいなと思う。


ところで自分の内奥から外界に出てくる「なにか」は、心の隘路をすり抜けていく間にさまざまな突起や棘にひっかかって、さまざまな傷を負う。その傷痕をあたかも意味のある文字列のように掲げて、「俺の心から出てくるこのフレーズに意味がある!」とやってしまうタイプの人がいる。誰かというとそれはぼくである。しかし、ライフルごとに施状溝が決まった形になるように、そんな、心の奥から出てきた何かにいつも同じ刻印をしたものばかり射出するというのもつまらない話だと思うのだ。たとえば、奥から出てきたものを、みずからの辺縁でいったん留保して、外部から赤外線のように届くなにか、それは他人の言葉であったり絵画であったり文学であったりするのだが、それをもって撹拌する。そうすれば心の中から出てきたものは、みずからの境界を越える前に、粘菌のようにじわじわと形を変えて、毎回異なる迷路を抜けるように毎回別様のものとして自分の外に出ていくだろう。



誰が見ても頭いいやろという人がそのまんま頭を存分に使っているのを見るのは楽しい(萩野先生なんかそういうかんじだろう)。

日ごろから一貫してギャグやダジャレしか言っていないのに、ふとした瞬間に飛び出てくるイディオムが奇天烈で、どれだけ独り言を長く繰ったらここにたどりつくのかとめまいがしたりするタイプの人もいる(浅生鴨さんというのはこれだろう)。

いっぱいあこがれる人がいる。幡野さんなんかいつもすごいなと思っている。彼はお仕着せの言葉を使わない。この場面ではこれを言うという決め事がない人に感心する。



きちんと頭を使い続けている人というのがいて、自分もそうであると言いたいところだが、自信がない。ぼくの当座の目標は、「連想ゲームではない思索」を細々と維持する人間になることだ。あと、安易にコピペするのをやめたい。

2023年11月21日火曜日

病理の話(839) 世界初の症例

とある研究会に出たときの話をしよう。


その回の当番にあたった臨床医が、ある患者の画像を画面に提示する。

血液データに加えて、CT, MRI, 超音波……。

これらは整理された状態でパワーポイントに貼り付けられている。

参加者は、内科医、外科医、放射線科医、そして病理医など。

いろいろな専門の医者たちが、Zoomの画面越しに、見る。

見て、考える。

もし、この患者に自分が遭遇したら、何を考えて、どういう治療方針を選ぶだろうか、と、追体験をするのである。


でもまあ全員が黙って考えているだけだと会が進まない。

そこで、事前にあてられていた発表者が、代表してその画像を「読む」。読影(どくえい)という言葉がある。

ぼくらも、発表者も、答えは教えてもらっていない。

できれば答えにたどり着きたいなと思いながら、読影をして、診断を考える。

みんなプロだ。だから当てたい。

しかし今日は「研究会」だ。わかりやすい典型的な症例は提示されない。

画像の見え方がめずらしいとか、いかにも間違いそうな見た目をしているとか、そもそもの病気自体が珍しいとか、いろいろな理由で、症例は選ばれる。

だからどれだけ考えても、「正解」にたどり着くのは至難の業だ。


案の定、その日の症例の、「正解」にたどり着いた人はひとりもいなかった。

途中、読影の最中に、少しだけ「惜しい」答えが幾人かから提示されたが、それはちょっと違うだろうということで棄却された、ある珍しい病名が答えだったのだ。

みんなためいきをついた。

正解を提示するのは、病理医だ。

ここでの病理医は、手術によって摘出された病気を解析する。だから診断名にたどりつくことができる。


参加していた外科医のひとりが質問をした。「この症例はだいぶめずらしいですよねえ。今までに報告されているんですか?」

すると、解説を担当した若い病理医が言った。「えっと……私が調べたかぎりでは、過去に報告はありません。」

「世界初!」

Zoomがしずかにどよめく(みんなミュートだけど)。

ぼくもびっくりした。


しかし……数分後に、ほんとうかな、と思う。その病気は確かに、その臓器に出れば珍しいことは間違いない。しかし、ほかの臓器には出ることがある。

こういう「非典型的な場所に出現する病気」というのは、どれだけ珍しくても、たんねんに論文を探すと、たいてい世界の誰かが報告しているものだ。

若い病理医はきちんとPubMed(論文検索サイト)を検索できたのだろうか。

ぼくもその場で、ためしに調べてみる。


その病理医が述べた診断名を入れてみると……うーん、ドンピシャのは確かに見つからないようだが……。


別の臓器に出るときの名前に変えて検索してみる。すると案の定、今回の症例とよく似た症例が、とある国から報告されているではないか。


あーあ。ちゃんと論文検索してなかったんだろうな。というか、若い病理医だったから、検索の仕方もまだよくわかってなかったのかもしれない。


論文はオープンアクセス(無料でダウンロードできるもの)だった。最近のものだ。せっかくなのでその場で読む。「世界で約100例の報告があり……」とある。


たしかにめちゃくちゃめずらしいことは事実だ。この広い世の中で、まだ100例しか報告されていないなんて! Extremely rare(超まれ)である。


しかし、世界初、ではない。


それはなんというか……そりゃそうなんだよ……「それが世界初なわけないんだよ」という感覚なのである。病理医にとっての「世界初」は、めったに訪れない。「こんな珍しい病気、まずないだろう!」と思っても、どこかの誰かがすでに報告していることがほとんどなのである。


2023年11月20日月曜日

指だけが旅をする

とある小さな書店のイベントで、「ヤンデル先生のご著書をお持ちの方は、イベントにお持ち頂ければサインしていただけます」と書いてあって、笑ってしまった――


からはじまる文章を書いていた。しかし、自分なりに「こういう文章にしたいなあ」と考えていたニュアンスからはほど遠い、かなり強めの皮肉なワードがいっぱい出てきて、閉口した。

違う。

そんな悪い言葉を書きたいわけではない。

しかし、言葉が言葉を連れてくるような感じだ。思った以上に強い言葉がぬるぬる出てきて、ままならない。


後藤隊長はかつて「便秘に浣腸みたいなもんだ」と言った。しかし今回のぼくのはそういうわけでもない。「内心言いたいことがスルスル引き出された」というのとは違う、と思う。シニカルでアイロニカルで攻撃的な言葉たちが、仮にぼくの隠していた本心だというならば、まあ、あきらめて、というか覚悟を決めて、この機会に一度、ガス抜き的に表明しておくのもいいかも、と思った。しかし、冷静に読み直しても、ぼくはそこまで悪い感情を持っているわけではない。言葉が次の言葉を連れてくるときに勝手に悪感情のニュアンスをのっけてしまっている。

結局書いていた文章を消した。これがぼくの本心だと受け取られるのも、レトリックだと受け取られるのも違うなあと思った。


さながら、売り言葉に買い言葉、をひとりでやっているような気分だった。


この言葉の次に連想されるフレーズはこう。

こちらのふたを開けたら次にあくのはあちらのふた。

そういった半自動的な書き方を続けていくと、最初に自分が思い描いた風景とは異なるものが描き出される。指先がどこに向かうのかを楽しく見られる日もある。小説家やマンガ家が「キャラクタが勝手に動き始めた」みたいに言うことがあるが、この程度のブログであっても「指が勝手に何かを語り出す」ということはあると思う。しかしそれを自分でうまく操作できないというのは困りものだ。


ブログのネタに困ったことがない。とりあえず一行書き始めれば、そのときの気持ちにあわせて何かまとまった量の文章になる。そういうやりかたでずっとやってきた。もちろん、プロのエッセイストやコラムニストが書く何かと比べると、クオリティ的にはほどとおいものばかりだったけれど、その日そのときのぼくらしさが正直に綴られているかぎり、多少文章がわかりにくくても、表現があいまいでも、それがその瞬間のぼくの脳だったのだろうと、自分としてはわりと納得する蓄積ができていた。

しかし今日、ぼくは、指先の惰性がぼくの心から微妙に遠いところをうろちょろするところを目にした。そして、なんだか、これはまずいなあと思った。惰性で何かを書き続けるのもそろそろおしまいにしたほうがよいのかもしれない。ブログを不定期更新にするか。毎日続ける日記としての効用がなくなる。しかし、効用があるからといって飲まなくてもいい薬を飲み続けるようなことになっていたのではないかと思わなくもない。

SNSの使用頻度が激減するにつれ、自分の中を循環していた水の流れが悪くなった感覚がある。よどんだなにかがブログの記事に流出するのはよくない。いろいろと考えたほうがよさそうだ。すぐに更新をやめようとは思わないけれど、なんというか、ここにも終わりが見えてきたのではないか、という気はしている。

2023年11月17日金曜日

病理の話(838) 診断困難例

患者から取ってきた細胞を顕微鏡を使って診断するのが、我々病理医の仕事だ。「細胞を一目見ればピタリと当てる」というのが理想型である。しかし現実にはそう簡単ではない。病理医が頭を悩ませるパターンには以下のようなものがある。



1.命にかかわるがん? それとも命に別状のない良性の病気?

ふつうのがん細胞は、正常の細胞と見た目が異なる。細胞核がでかい。でかくて不規則にゴツゴツしている。核の中に入っている染色体の量が多くて色が濃い。細胞ひとつに着目するだけでもこれくらいの、あるいはもっとたくさんの違いがある。ただし、これらの「核の変化」は、じつはがんではない細胞でも生じる。

たとえば炎症があって、細胞の周りの環境がぼろぼろになっていると、細胞がダメージを受ける過程で、もしくはやられた細胞が再生する過程で、がんのような見た目を呈することがある。病理医が「この細胞はがんですね」と言えば主治医はその言葉を信じるので、手術や抗がん剤などの「大きな治療」が選択されるのだが、実際にはがんはなくて炎症のせいで「細胞が悪そうに見えただけ」ということも過去には起こっている。非常におそろしい誤診である。したがって我々はいつも、細胞を見て「がんだ!」と感じて診断書に書く前に、「待てよ、本当にがんか? 本当に、本当にがんか?」と念を押すように顕微鏡を見る。



2.がんなのは決まりだが、どんながんだかわからない。

細胞がいかにも「悪そう」で、これががん細胞であることは間違いない、と確信できたとして、そこで診断が終わるわけではない。次にそれがどんながんなのかを調べるのも病理医の大切な仕事だ。「どんながんか」にはいくつかの判断基準がある。どれくらいの範囲に広がっているか? どのような性質をもったがん細胞なのか? 範囲を知ることは、手術でがんを残らず切り取ったり、がんのある場所にくまなく放射線を当てたりするのに必要だ。また、がん細胞の性質(どのようなタンパク質を持ち、どのような方向に「分化」しているか)によって、どの抗がん剤が効くかが変わってくる。

範囲なんてすぐわかるだろうと思ったら大間違いだ。がんというのは「しみ込む」病気だから、しばしば思ってもいないところに潜り込んでいたりする。それを顕微鏡で見つけ出すのはけっこう大変なのだ。たとえばあなたが、自分の部屋で箱に入った「画びょう」をぶちまけてしまったとする。あわてて拾って、これで全部かなと思っても、ソファの足の裏側とかじゅうたんの毛の中とかに紛れ込んでいるなんてことがあるだろう。がん細胞もときおり、そういうタイプの進展を示す。がん細胞の数が少ない場所ではそれだけ診断も大変になる。

細胞の性質についても難しさがある。がん細胞が試験管のような構造をつくっていたら「腺癌」、シートのようにある面積を埋め尽くしていたら「扁平上皮癌」といった感じで、ぱっと見るだけでどのような性質を持っているかがすぐわかることもあるが、中には、「B細胞の性質を持っているのか、T細胞の性質を持っているのか、形の違いではまるでわからない」というケースもある。こういうときに病理医は、細胞の性質を見極めるための特殊な手法を用いる。免疫組織化学やフローサイトメトリー、染色体検査など、やり方はたくさんある。



3.がんではない病気だとわかるが、ではどういう病気なのかと言われてもわからない。

このパターンがじつはけっこう難しい。病理診断「学」(病理医の診断根拠を学問のかたちで練り上げたもの)は、別にがんばかりを診断するわけではなく、さまざまな病気における細胞の変化を見極めることができる……はず……なのだが、がん以外の病気では往々にして、「原因が何であっても結果が同じになること」があるのだ。

これはちょっと説明が必要だろう。たとえば、あなたがハリセンを持っていて私のことを波コンと叩く。すると私のあたまにこぶができる。次にあなたがハリセンではなくピコピコハンマーを持って私を叩いたとする。それでもやっぱり私のあたまにこぶができるだろう。あなたが持つものが竹刀でも、バールのようなものでも、同じ衝撃を加えればおなじようにこぶができる。病気にもこれと似た部分がある。原因(ハリセン? 竹刀?)にかかわらず、誘導される結果(炎症)がいっしょだと、炎症のようすをいくら見ても原因はおしはかれないということになる。

しかし、とはいえ、竹刀ならば四つに組んだ竹をとめている「布」の形があたまに残るだろうし、ピコピコハンマーだとマンガ的表現でたんこぶがモチのようにふくらんで表面にバッテンのばんそうこうが貼られるだろう。がん細胞ほど「これは間違いなくがんの特徴!」とは言えなくても、「なんか、あの原因と対応してるっぽいぞ……」みたいな傾向はとらえることができる。

逆にいうと、がん以外の診断は、難しいし、直裁的じゃないし、マニアックだし、奥が深くて、けっこう頼られるのだ。



4.頻度が非常に少ない病気と、よくある病気なんだけどなんかへんなやつ

この二つはどちらも迷う。「頻度が非常に少ない病気」を診断するのはすごくプレッシャーがかかる。なにせ、ほとんどの人が診断したことがないわけだから、教科書に書いてある通りの細胞パターンが見つかったとしても、「これ、ほんとうに○病なんだよな?」とかなり弱気になる。いろんな人に相談しながら、たくさんの資料を調べて、ようやく珍しい病気だと診断を付けるのだ。小説やドラマは珍しい病気を簡単に診断しすぎていると思う。

なぜ珍しい病気の診断をためらうのか? それは、「頻度が超低い病気」よりもはるかに、「頻度がめちゃくちゃ高い病気が、たまたま、まれな病気っぽい見た目であらわれたケース」のほうが経験されるからなのだ。これは例え話がむずかしいのだが……うーん、そうだな……「真のUFO」を見つけるよりも、「たまたま飛行機やアドバルーンがUFOっぽく見えること」のほうが圧倒的に多い、みたいな感じかな。ちょっと違うかな。

ちなみに内科の教科書(や國松淳和先生の書くもの)の中では、「レアな病気の典型像」vs「コモン(よくある)な病気のレアなプレゼンテーション」、と言い表したりする。病理診断の場合は、劇的にレアな病気がばんと出てくるよりも、日ごろから診断している病気がたまたま不可思議な見た目で顕微鏡の中に登場する頻度のほうが高い気がする。



ほかにも診断に迷うケースはあるのだけれど、これ以上列挙すると、どうしても「実際に自分が困った症例の話」になってしまう。今日はこのへんにしておこう。

2023年11月16日木曜日

メールのトリコ

このブログを書いている次の日から、木・金と出張で仕事場を開ける。土曜日の夕方に戻ってきて髪を切り、日曜日に出勤して残務を片付ける予定だ。

残務と言っても診断業務については同僚がカヴァーしてくれているので、本職に関しては別に仕事が溜まったり残ったりはしない。それはほんとうにありがたい。病理医が一人しか勤務していない、いわゆる「ひとり病理医」の環境だったらこうはいかない。

一方で、メールの返事は確実に溜まる。共同研究の進捗を自分がストップさせていないか、新規の診断コンサルテーションが舞い込んでいないか、学生から講義の質問が来ていないか。出張中にもPCは持っていくけれど、たいていの時間はPCを開かず勉強したり相談したり気絶したりしているので、メールはとにかく、帰ってからだ。ちょっとお待たせすることになってしまうけれど……。

それくらいでいいのだろう。あまりメールに真剣にならなくていいのだろう。



「あまりメールに真剣にならなくていい」はここ1年くらいの自戒である。よく自分に言い聞かせている。もともとぼくはメールに真剣に向き合うほうだ。それはおそらく過剰なレベルだ、ということが近頃よくわかってきた。

ふだん自分の信頼できる人とばかりやりとりしていると、たまにしかやりとりしない人たちのメールの「雑さ」にひっくり返りそうになる。題名無し、本文無しのGmailにパワポのプレゼンだけを貼り付けて「見ておいてくれ」と電話をかけてくるドクターがいたかと思えば、期限ギリギリの案件について「至急お返事ください」とメールしてくるくせにこちらが返信するとそれに対する反応は必ず1週間遅れるディレクターもいる。フォントのサイズがおかしい。敬語を含めた日本語がへん。返信機能を使わずに毎回「新規作成」でメールを寄越すのでそれまでの話とのつながりがわからない。半年以上前の案件を前提無しで語り始めるので、しばらく検索をしないとこの人がなんの仕事について言っているのかわからない、などなど。

ビジネスマナーの浸透率の低さ? いや、もっと根本的な、「相手がこれを読んだら何をどれくらい考えるだろうか」ということに対して想像というリソースをあまり割いていないということ。

しかし、逆に、ぼくがそういうのを気にしすぎなのだ、ということを今は思うようになった。失礼な、要領を得ない、一方的なメールをしてくる人はみな、それぞれの世界できちんと働いていて、特にコミュニケーションの齟齬も生じずにやりくりしている。となれば、ひとり怒っているぼくだけが過剰だということになる。

早くレスポンスすることこそ社会人のたしなみだ、とか、なるべく見やすい日本語で簡潔かつ丁寧に用件のみを書くべし、といった、メールマナーをずっと気にしてきた。そこまで真剣にやる必要はなかった気がする。ちょっと神経症っぽかったなと思う。



いろいろと荷を降ろすタイプのことをやっている毎日だ。今とくに気を遣っているのが「メールに真剣になりすぎないこと」である。ぼくはもっと返事が遅くていい。のんびり仕事をしている人たちにいちいちキレ散らかす必要もない。雑でいい。失礼なくらいが長持ちする。そろそろ「わかる」べきなのだ。このブログを書いている最中に届いたメール2通、すかさず返信を送って、また何ごともないようにブログの画面に戻っているだけど、ほんと、そういうことしなくていいのだと思う。その証拠に、ほら、みんなこんなに雑に接してくるではないか。ニコニコとした顔で。

2023年11月15日水曜日

病理の話(837) 臓器のやわらかさ

臓器ごとの硬さについて。突然ですが。


胃はふにゃふにゃです。やわらかーい。よく動く。ただし、引っ張る力にはすごく強い。また、人力でねじっても、ねじ切ることは不可能。これって結構しっかりした能力だと思う。たとえば木の枝って、引っ張ってちぎることはできないけど、ねじりながら曲げるとわりと簡単に折ることができるでしょう。たいていの物質には、力のかかる方向によって、強く耐えられる向きとそうでもない向きとがあるわけ。でも胃はどんな方向でもけっこう大丈夫。

胃の壁はたくさんの筋肉によって支えられている。平滑筋と言って、われわれが普段力こぶを出したり歩いたりするときに使っている骨格筋(横紋筋)とは違い、意志の力で動かすことができず、自律神経によって勝手に動く。この筋肉が、胃の短軸方向と長軸方向、それぞれに向かって二重に走っていて、強い胃の壁を作り出す。場所によってはさらに斜走筋と呼ばれる筋肉にも包まれて三重になっていたりもする。だから引っ張る力やねじる力にはとても強い。でもふにゃふにゃなんです。食べ物を混ぜるためによく動く。たいしたもんだよね。


肝臓という臓器がある。これはけっこう固い。中身がしっかり詰まっている。イメージでいうと……そうだな……イスに座った状態で、ふとももの上の部分をこぶしでトントンと叩いてみてほしい。それくらい硬い。張りがあって、はね返される感じ。

中には細胞がみっちり詰まっている。胃のように中に食べ物を通すわけではなく、肝細胞という名前の、機能する細胞が大量に入っているから、密で硬い。ただ実際のところ、肝細胞だけで構成されているわけではない。肝細胞の作った胆汁を通すためのダクト(胆管)が内部を走行しているし、腸管で吸収した栄養を加工するために肝細胞に運び入れるための別種のダクト(門脈)も走行しているし、心臓から酸素をたっぷり持った血液を運び入れるためのダクト(動脈)も走行していて、血液を排出するためのダクト(静脈)も走行している。つまりはダクトまみれなのだ。ただこのダクトは非常に細いネットワークを作っているので、臓器の硬さにはあんまり関係しない……気もする。しないってことはないんだろうな、と、今書いていて思った。



肺という臓器がある。肺は酸素を取り込んで二酸化炭素を排出する、有名な臓器だ。内部はスポンジのようになっていて、つまりはたくさんの空気をやりとりする必要があるからなのだけれど、硬さもわりとスポンジに近い。ただし、表面は胸膜とよばれる膜で覆われていて、こいつがある程度の弾力を発揮する。内部はフニャフニャなんだけど皮の部分がしっかりしている、というイメージだ。ちなみにタバコを吸いまくると、スポンジが穴だらけになり、表面の皮もボロボロになって、運が悪いと空気がもれて「気胸」と呼ばれる状態になってしまうことがある。必死で息を吸い込んでも肺の表面から空気がもれて、胸の中にたまってしまうから、肺をうまくふくらませることができなくなって呼吸困難に陥る。非常にやばい。肺はみんな大事にしてほしい。



腎臓という臓器がある。腎臓はなんだか……しっかりしている。テニスボールくらいの質感がある気がする。持って比べたことはないけれど。肝臓にも肺にも言えるが腎臓にも表面に膜がある。しかし腎臓の場合は肺とは違って中までみっちりだ。肝臓にも似ている。腎臓は、全身の血液を受け止めて濾過して、いらない成分を尿として体の外に排出する臓器であるが、この尿、排出中に「やっぱり出さない! 回収します!」みたいな調整をめちゃくちゃやっている。トキメキすぎてなかなかものが捨てられない状態であり、尿が尿細管と呼ばれるダクトの中を通過している間ずっと、「これは捨てる……やっぱり捨てない!」と、体の中と尿の中とで大事なものを往復させている。人体は腎臓の迷う気持ちをよくわかっていて(?)、ダクトをすごく長くして、すぐに膀胱の中に捨てさせないように迂回させる仕組みをつくっている。したがって腎臓の中には、肝臓よりもさらに、ダクトがめちゃくちゃいっぱい走っていて、それらのダクトがいちいち迂回をしている。ダクトがみっちり詰まった硬さは、肝細胞のような「水風船のように、ひとつひとつがそれなりに硬い細胞がみっちり詰まっている」のとはまたちょっと違ったニュアンスの硬さになる。


脳はやわらかい。思った以上にやわらかい。えっこれこぼれるんじゃない? ってハラハラするような感じだ。さすが全方位を頭蓋骨に囲まれてぬくぬく過ごしてきた臓器だけある。余計な混ぜ物があまり入っていない。血流は通っているし、神経細胞やグリア細胞といった各種の細胞もいっぱいあるはずなのだけれど、これらは押しくらまんじゅうをするでもなく、ひたすらSNSよろしくコミュニケーションをしていて、間質と呼ばれるスペースには線維もなにもなくてスカスカしている。ちなみに脊髄も同じくらいやわらかいのだが、脊髄が基本的に有髄線維といって、線維のまわりを髄鞘という膜に包まれているのに対し、脳の場合は全部の神経が膜に包まれているわけではないので、その分やわらかく感じる(場所によるが)。


これらをお伝えしたところでみなさんのこれからの暮らしに役に立つことは何もない気がする……。まあいいか。病理学っていつどこでどんな知識と結びつくかわからないしな。いいってことにしとこう。

2023年11月14日火曜日

11月6日のツイートのまとめ

久々に会った友人と酒を飲んで、ふだんと違う言葉が自分の口から出てきたのが良かった。ずいぶんと長いこと、誰に対しても同じことを話していたような気がするが、最近たまに、相手と自分との間で苗木を育てるような会話ができるようになった。ただ、途中で酔いに負けてしまう。


先日のお店は空いていてよかったが、店の大将が差別的な言動をするタイプの人で、私も友人もその攻撃の対象にはならないのだけれど、そういう問題ではなく、友人が傷ついていなければいいが、と気がかりであった。いい飲み屋が探せないことが悩みだ。3年半でいい飲み方がわからなくなった。


自分はだらしなく酔う。相手が何かに傷ついたのではないかということを必要以上に、余計なお世話的に気にしてしまうだらしなさ。本当はそんなことまで気にしなくていいが、酔いが進むと気になってしまう。だから、相手が極力傷つかない場所を選ばないと、対話の苗を育てることに集中できなくなる。


この10年を振り返って、自分が本当に楽しく飲めたのはいつでも、「誰かが取ってくれた店」だった。自分が用意した場が相手をなんらかの形で傷つけることを怖れているし、相手が用意した場ならどんなところであっても傷つかない。そう信じてきた。そうやってだらだらと傷を増やしてきた。


本屋をやりたいとは思わないのか、とたずねられて、昔は飲み屋をやりたかった、と答えた。その二つは何が違うのだろうと考えた。人は本屋で救われるわけではなく、本で救われる。人は酒場で救われるが酒で救われるわけではない。その両者は違う。ぼくは場を過剰に怖れているのだと思った。


今日のぼくは、「居場所が大事」という論を展開したいわけではない。そうではなく、もっと軽薄にとらえていい一時的な居場所(例:飲み屋)に自分の心が大きく動かされてしまうこと、過剰な怖れ、これは今のぼくの抱えた病理なのではないか、ということを考えている。


なお、「場を異常に怖れること」の奥には、ほんとうは相手を傷つけるのは場所からのストレスなどではなく、対話の相手であるぼく自身の言動なのではないかという、圧倒的な恐怖がたぶん潜んでいるのだが、これを怖れるのは病理的ではなく生理的だと思うので、そこは残酷だけれどあまり気にしていない。


おもしろいなーこんなところに着地するのか、今日のぼくは、と思って連続ツイートを眺めている。ひとりで対話し、新たな苗を育てた。


ぼくはツイッターがいろいろ変わったことにわりと傷ついて、思った以上にしんどくなっているのだと思う。自分のツイートがどう転がっていくのかなというのを眺めながら、突然そんなことを思った。場のことばかり考えている。大事なのは場ではないのだが。


2023年11月13日月曜日

病理の話(836) がんはがんでもどんながんか

病理医の仕事の多くは「がん」と関係がある。患者の体にカタマリらしきものが見つかったときに、そこから細胞を採取してきて、顕微鏡で見て確かにがんだと確定するというのは、病理医にしかできないエグい仕事だ。

ただし、「がんかがんじゃないか」以外にも、けっこうやることがある。この仕事は二択とか三択で答えを選ぶようなものではない。

たとえば、がんだとすでにわかっている人の「ステージング」(病期分類)。あるいは、「がんはがんでもどんながんなのか」を決める、組織型の細分類。

治療法を決める上で、「どんながん?」を探っていくことはとても重要だ。

一例をあげる。同じ肺癌といっても、ステージIとステージIIIでは手術の仕方も抗がん剤の使い方も違う。さらに、同じステージIIIの肺癌であったとしても、組織型が違うと(例:腺癌、扁平上皮癌、小細胞癌)効きのいい抗がん剤は違う。さらにさらに、同じステージIIIの肺の腺癌だったとしても、遺伝子検査の結果によって抗がん剤を細かく使い分けるのが令和5年現在のスタンダードな治療法なのである。

50年前はこうではなかった。20年前も違ったと思う。ていうかこの10年でけっこう変わった。はっきりいって昨年と比べても今年の方がさらに細かいことをやっている。

病気を「どこまで調べるか」は、基本的に時代を経ると必ず深く、細かくなる。ただし、何でもかんでも検査をしてもだめだ。「治療の効きやすさに直結する検査」だけを選び取るために、たくさんの臨床試験が組まれ、その結果が次から次へと日常の診療に反映されていく。

それらをすべて拾い上げて、細胞を見たり検査に回したりするのが病理医の役目である。「がんか、がんじゃないか」に使っている時間よりも、「どのようながんか」に費やす時間のほうが長くなることが多い。

そして、今のぼくの場合、これはある程度年を取ったからというのもあるのだけれど、実際に診断をしている時間よりも、「最新の診断をするために勉強をする時間」のほうが少しずつ長くなりつつある。キャリアを積むことで診断の速度はどんどん早くなるのだが、病気と向き合っている(調べたり考えたりしている)時間はむしろ長くなっている。

ちなみに、勉強のためにウェブや書籍を検索するのにかかる時間は、経験を重ねるとどんどん早くなる。少しずつ勉強が得意になっていくということだ。しかも最近はAIがサポートしてくれているから、昔よりもはるかに的確な情報にすばやくアクセスできる……はずなのだけれど、それでも勉強の時間は延びる一方だ。

うーむ。そういうものなのかな。そういうものなんだろうな。便利になればなるだけ、やることが増えていくのが病理医という……人間の仕事というものなのかもしれない。

2023年11月10日金曜日

アイマイタイムマシン

鼻水だけが軽く出る状態が1日続いた。


ワクチンを打ったせいで異様に軽症になったコロナだったらいやだなと思って検査をした。

コロナ陰性、インフル陰性、つまりは「ただの風邪」。

まあ、検査も完璧ではない。検出感度以下のコロナかもしれない。しかし体調がそこまで悪くはないし、むりにコロナと「みなす」よりも、コロナじゃない風邪と考えたほうが現在の有病率的には合理的だろう。

それにぼくはデスクで基本的にあまり人と接さなくてもいい職業人だ。出勤停止まではしなくてよい。以前にとある偉い人から、「君の場合はコロナにかかっても、日中休んで夜中に、誰もいない時間に自分のデスクから動かずに働いてもたぶん大丈夫だよ」と言われたことがある。やなこった。休ませてくれ。

しかし休みはない。いつものようにマスクして、あまり人と会話せずもくもくと働く。そもそもずっとマスクしているのにどこでウイルスをもらったのだろう。マスクとて完璧ではないし、たぶん近頃妙に増えた出張の移動中とかそのへんだろう。職場に風邪を引いている人がいないわけではないがくり返すけれどあまり接点がないからな。

薬を飲むか、飲まないか。

仕事を減らすか、減らさないか。

判断が次々とやってくる。そのどれもがどこかすこし他人事で、心が多少、自分の体から浮いたように感じられる。どうでもいいな、と感じたり、どっちでもいいな、とあきらめたりしている。

これも症状なのかもしれない。これほど適当になっていること自体も症状なのかもしれない。

外に何かを放出し、外から何かを受け取ったりするためのエネルギーが、脳によって自動的に節約されているような気がする。そのぶん、体内でウイルスを駆逐するために用いているのだろう。

人体というのはよくできている。

よくできていてなお、風邪をひくこともあるのだから、ウイルスというのもまたたいしたものだなと思う。


このブログをいつ公開するかを悩んでいる。基本的にブログの文章は1週間以上前に書いておくのだけれど、ふと思ったこと、この記事を仕込んで「来週」公開したら、あとから振り返ってあのときお前は体調悪かったのかよ、と怒られる可能性がなくもない。これだけ人に会わないように気を遣っていても、後日ふりかえるとたぶんそのへんはなんだかうやむやになって、怒られが発生する可能性もある。従ってこのブログの公開は少なくとも3か月以上あとにしようと思う。公開されたときに一番おどろくのはぼくだろうな。「これいつの記事だよ……」となっていたらちょっとおもしろいな。未来のぼくへ。その元気さ、たいせつにしてください。失ってはじめてわかるぞ。

2023年11月9日木曜日

病理の話(835) 持ち込み企画で医学書をつくる

ある医者に相談を受けて、これから一冊の医学書を作る過程に立ち会うことになった。編集にも執筆にもタッチしない予定であり、できあがった本にぼくの名前がクレジットされることはないが、ひとつの専門書が編み上げられていくさまをいちから見ることができる。そのような縁をもらえたことがうれしい。著者のことはずっと尊敬しているので、本が世に出たら真っ先に読みたいと思っていたから、願ってもないことだ。第一番目の読者になれる。

制作のきっかけは、ある医者が「これまで培ってきた臨床技術を書籍にして世に出したい」とまず願ったことだ。著者の思いファーストである。

著者からスタート=出版社が決まっていないということでもある。

出版社が「こういう専門書のニーズがあるから作ろう」とか、「この医者は前におもしろい本を作っていたからうちでも作ってもらおう」といったように、企画を立ち上げてから執筆適任者を探すパターンもあるが(多いが)、今回はそういうわけではない。

まず、編集者を医者と引き合わせることからはじめる。幸いうまくマッチングでき、すぐにオンライン会議の場がもうけられた。



第一回会議では、医者が思い浮かべる「だいたいこんな本を作りたい」というイメージを、編集者に説明する。マンガの「持ち込み」を想像すると近いかもしれない。医学書の持ち込み企画だ。

マンガの場合は編集者に「わかりにくいですね」と言われたらダメ出しになるのだろうけれど、医学書の場合は「編集者がわからない」ことは必ずしも本の価値を落とさない。専門家が用意したコンテンツを編集者がすべてわかる必要はない。

医療系の編集者は「わかりやすさ」や「表現方法のすばらしさ」を見るのではなく、もっと違うところを見ている。それは「どこに刺さるか」、すなわち、どの層にどれだけの深さで読んでもらえるかという、よりオーダーメードな感覚だと思う。

本を作る以上、たくさん売りたいのは当然だ。しかし「何冊売ることがその本にとっての成功になるのか」の基準は、思ったよりも複雑だ。

そもそも専門性の高い本はあんまり売れない。その情報を必要とする人の数が圧倒的に少ないからだ。ちょっとしか売れない分、単価はどうしても高くなる。1冊の値段が30000円を超えるものもいっぱいある。

ぼくが毎日のように使っている消化管病理学の教科書、「Fenoglio-Preiser's Gastrointestinal Pathology」は、定価が63000円だ。これほど専門性の高い本を買う必要がある病理医は日本には100人いないだろうと思う(ほぼ全員の顔がわかる)が、必要ではなく興味で買う病理医もいるだろうし、大学の病理学講座や図書館などにも入荷するだろうから、なんだかんだで300冊くらいは売れているだろう(予想)。ちなみに今日確認したところ、なぜかAmazonで40%オフくらいになっていたので、興味がある人は買ってみたらいい。

このように、医学書には、「2000人しか専門家の存在しない領域で、50000円の本を500人が買ってくれたらベストセラー」みたいな感覚がある。

とはいえ、専門性が高いから値段を上げましょう、少部数を売り切れば収支はOK、販売成功です、という考え方だけで業界が成り立っているわけではない。

たとえば、最近の医療系出版社はよく、「マンガ的な医学書」を出す。

マンガ的というのは、決してネガティブな意味で使っているわけではない。マンガのように、「多数の人に読まれなければ打ちきられて/本が出なくて当たり前というプレッシャーを乗り越えて表現を追究する姿勢」を盛り込むということだ。

マンガ的な医学書には、理解を助けるためのさまざまな仕掛けがほどこされる。文字通りマンガを挿入したり、指導医(オーベン)と研修医(ネーベン)との掛け合いトークを収録したり、Q&Aコーナーをもうけたりする。「いかに簡単にわかりやすく読めるか」を追究し、医学書以外のさまざまなコンテンツ・エンタメの手法を取り入れる。

そして、なるべく「多数の人」に手に取ってもらい、その分単価を抑える。「多数の人」というのは誰か? それは基本的に「若者たち」だ。専門家になる前の人たち。学生や研修医、専攻医などの若者は、まだ自分の専門性を獲得していなくて、どの領域も広く浅く勉強する。だからいろいろな領域の本を読んでくれる。

超絶カルトな専門性ばかりだと若い人には興味を持ってもらえない。しかし子供だましの初心者向けコラムばかり揃えてもだめだ。そんなものはネットに無料でいくらでも落ちている。「この領域の専門を極めてみたい」という、関心と感心と向上心を喚起するものでなければいけない。単にカンタンに書けばいいというわけでもない。

さらに言えば、若い医療者はほとんどが「職業訓練」の真っ最中である。手技や処置を身につける時期を過ごしている。となると「本を使って勉強する」ことの優先順位が低い。本を読む時間がとれないからあまりたくさんは買わない。収入が少ないから高い本も買えない。

若い人たちを対象とするときはお得感が重要だ。研修の間、ずっと持ち運んで、辞書を引くように使いまくるマニュアル系だったら7000円でも買うかもしれない。しかしひとりの著者が物語るようなタイプの本だと、いかにレジェンド級の医師が書いていようと、5000円でも高く感じる。

看護師をはじめとする医師以外の医療スタッフも視野に入れるならば2800円以上では出せないだろう。

ともあれ。

著者が書きたい内容、書ける内容が、いったいどの層にどのように届けられるべきものなのかを、編集者は判断する必要がある。

そのために必要なのは、著者の脳内にだけ存在する「本のイメージ」を、編集者がきちんと共有するための作業だ。

いったいどうすれば、著者の思い描く理想の本のすがたを、編集者が的確に見抜くことができるのか。

有効なのはおそらく「仮の目次を作る」ことだと思う。

どういう項目を網羅すべきか、どのような順番で語るのがいいか、何を書くか/何を省くか(ここは本当に専門家でなければ全くわからないことだ)、そういったものを、著者が目次のかたちで示せることが大前提であろう。

というわけで、第二回会議までに、著者が「仮の目次」を作ることになった。ついでに誌面イメージとしての「仮原稿」も書いて頂く。これまで著者があちこちで行ってきた講演や著作なども提出してもらう。

こうして、著者と編集者のイメージを揃える。二人三脚で足をしっかり結わえ付けるところから始める。




もっとも、医療系の編集者にはいろんなタイプがいる。

売れる・売れない・二の次で・かっこのよろしい・本ばつくり・読んでもらえば・万々歳・そんなアタシは・かぶきもの・人呼んで・ナンバーガールと発しやす

みたいなタイプの編集者がけっこういる。

そういう人に当たると、医学書の執筆はとっっっっってもたのしいし、できあがった本は結局そんなには売れない(経験談?)。

2023年11月8日水曜日

時間をかけてむせる

夜中にノドが腫れていて目が覚める。きた……コロナだ……と思って絶望し、ひとまずノドの痛みをなんとかするために体を起こして水を飲みに行く。ごくん。痛い。鼻の奥あたり。ごくん。絶望をたしかめるようにもう一口水を飲む。鼻の奥から何かがぽろりと外れる感覚があった。のどにひっかかりそうになるそれをうまく留めて口の中にはこび、指で取り出すとサカナのホネなので仰天した。昨晩の遅い晩飯のときに何かがひっかかってむせた後、どうもノドの上のあたりがごそごそするなあと思っていたのだが、ビールを飲んでそのまま失神するように眠ってしまったけれど、あれがつまりホネだったのだ。気管に入って急激にむせるというのはたまに経験するけれども、ノドの上で鼻のほうに逆流したまま留まって「慢性的にむせる」というのははじめての経験だ。ホネがささったままだったから腫れてきたのだろう。炎症の古典的四徴は発赤、腫脹、疼痛、熱感、これに機能障害を加えて炎症の五徴候。今のぼくのノド、鼻の奥の部分は、おそらく赤く腫れ上がっていて熱を持ち、痛くてのみこみづらさが発生しているから完璧に炎症である。小さな痛み止めを一錠飲んで寝なおす。抗炎症する。3時間ほど追加で寝て、朝起きてもまだノドは痛い。あれ、ホネ拾得は夢だったのか、やはりこれはコロナなのか、と不安になりながら出かける支度をしているうちに、ノドはだんだんよくなってきた。熱も上がらない。首をひねりながら出勤をして、昨晩帰りがけにドカドカ積み上がった次の仕事の山を見ているときに、猛然と疲れが吹き出してきた。ノドの痛みはすっかりよくなったけれど全身がだるくて重くなった。しかしこれはコロナではなく疲労のせいだろうと思う。疲労の理由は睡眠を途中で寸断されたからか? いろんな意味でどたばたしたからか? どちらでもない、そもそも疲れていたからこそノドのホネをなんとかすることもせずに就寝してしまったのだ、因果が逆である。そういったことを数秒かけて考えてさらに疲れた。SNSにぐったりしたことを書き込むと、猛然と返信が付いてそれでまたどっと疲れる。昔からふしぎだったのだが、疲れてしんどい人にメッセージを送る人というのは、「メッセージを読んでそれに返事をするしんどさ」に思いを馳せたことがないのだろうか、それとも思いを馳せてもなお自分の気持ちを伝えることがコミュニケーションだと信じて疑わないのだろうか。ぼくの数少ないネット上の友人たちはみな、ぼくがつらそうにしているときには話しかけてこない。エアリプもしない。代わりに、丁寧に関係のない話題を、少しだけ気持ちが明るくなるような話題を選んで、決して直接話しかけることなく「余力があって気が向いたらこの辺のコンテンツを摂取すれば少しラクになるかもしれないけれどまあ気がついたらでいいし気にしなくていいよ」といったムーブでタイムラインになんらかの花をそえてそれっきり去って行く。それをできる人とだけ付き合いたいものだと思い続けた結果、友だちは増えなかった。人はもっと、無遠慮で不格好なままコミュニケーションしていい生き物で、無節操かつ無鉄砲に友人関係を広げていいはずなのに、ぼくは人間同士の関係にこうあるべきという「べき論」を持ち込みすぎて、そうやって自分の内臓を過剰に守り続けてきた結果、自己炎症的にさいなまれる日がたまに訪れる。

2023年11月7日火曜日

病理の話(834) 天気予報くらいにね

肝細胞癌、という病気がある。肝臓にカタマリができてそれがだんだん大きくなっていく。

治療法はいくつかあるが、昔から「手術」がよく行われる。病気のカタマリをまるごと体から取り除いてしまえば治る、という発想は、きわめてシンプルでわかりやすい。

ただし、カタマリの部分だけを丁寧にくり抜けばいいかというとそうではない。どうしても、「正常の肝臓」もいっしょに切り取ってくる必要がある。

肝細胞癌に限らず、「がん」は周囲にしみこんでいく能力を持っている。ぱっと見た判断で「ここまでがカタマリだな」と思ってくり抜いても、ミクロの世界ではもう少しカタマリより遠いところまで癌細胞が達していたりするのだ。癌細胞は1個でも体の中に残っているとそこから細胞分裂をくり返して再発する。

そこで、カタマリのある部分プラスアルファを取り除くやり方をとる。「えっ、がんのサイズはこれだけなのに、こんなに肝臓取っちゃうんですか? もったいない……」。いやまあもったいないのもそうなのだが、肝臓だってはたらく臓器なのだから、あまり取りすぎるとかえって健康を害する。だからバランス感覚がむずかしい。

どれくらい正常の肝臓をいっしょに取るか。「のりしろ」部分を確保する、みたいな感覚だとラクなのだが、そういうわけにもいかない事情がある。

たとえば、カタマリの横に「水道管やガス管」のような管が通っていたとする(たとえばなしだが実際に肝臓の中にはたくさんの管が通っている」。それらをカタマリといっしょに取ってしまうと何が起こるか? カタマリより下流にある領域に、水やガスが供給できなくなるのである。すると、カタマリより下流の肝臓はへたって死んでしまう。死なないまでも、「正常の臓器」としての働きがこなせなくなって、結局、体の中に残した意味がなくなる。

したがって、カタマリを取るときには、その近くを通過している管の走行をきちんと解析して、「手術で取らざるをえない管」があるときにはその下流の領域もいっしょに取ってしまう。「区域切除」などと呼ばれる。

このへんで、ヤダーだんだん大事になるじゃない、とおびえる人も出てくる。しかし現実だ。がんのカタマリが大きくなるとそれだけ切り取らなければいけない肝臓の領域もでかくなる。「右葉切除」といって、肝臓の右側の2/3くらいをごっそり切り取ってくる手術もたまに行われる。こんなに肝臓を取ってしまって大丈夫なのだろうかと心配になるが、「残りの肝臓だけでも生きていけるかどうか」(肝予備能検査という)をかなり細かく検査してから手術に臨む。


今のは肝臓を例にあげたが、ほかの多くの臓器のがんに対しても言えることだ。肺がんの治療で肺をどれくらい切り取るかだって切実な問題だ。胃でも大腸でも同じ。

「少しでも正常なところを多く体の中に残しつつ、カタマリをきれいに取り除く絶妙のバランス」をいつも探っている。

キーとなるのは、手術前に撮影・撮像したCTやMRIなどの画像だ。

これでカタマリが正確に描写されていると、切り取る範囲も細かく設定することができる。

「この病気、ぜんっぜん周りにしみこんでないっぽいぞ!」とわかれば、カタマリぎりぎりをくり抜くような手術ができることもある。

でも、CTやMRIの解像度ではどうしても、ミクロのレベルで癌細胞が周囲にしみこんでいるかどうかはわからない。

そこで病理診断が重要となる。顕微鏡を使った検査の解像度は最強だ。ミクロはまかせてほしい!



ただし……ひとつ問題がある。

「カタマリを絶妙にきりとるために、ミクロの情報がほしい」のだけれど、病理診断が行われるのは「カタマリが切り取られた後」だ。病気の正確な範囲が先にわかれば切り取る範囲を決められるが、すでに切ってしまったものを見て、「あっ、周りにしみ込んでませんでしたね。残念だなあ、あんなに大きく取らなくてもよかったのに」なんて後から言われたって、それこそ「手遅れ」である。

この、順番のジレンマを克服するために、我々医療者たちは、長くいろいろと考えてきた。その結果、こういう結論に達している。


CTやMRIなどが「これこれこのように」見えるときは、あとで顕微鏡を見ると、がん細胞がだいたいこんな感じでまわりに散らばっている「ことが多い」。


すなわち、CTやMRIなどの画像と、病理で見るミクロの風景とをいくつもいくつも照らし合わせて、「統計」を行い、画像で得られる情報からミクロを予測するのである。病理診断というのは単独で用いると若干の手遅れ感がある。しかし、データを積み重ねると未来予測への強力なツールとなるのだ。あたかも、過去の膨大な気象データを蓄積して、数日以内の予報ならばほぼはずさなくなった天気予報のようである。


※病理診断のすべてが手遅れだということはない。たとえば抗がん剤の効き目を予測するように、「先に細胞を採って、そのようすを見てから治療の選択を行う」といった、治療に先んじて行うタイプの病理診断もあるからだ。でもまあ今日はその話ではないのだ。


病理診断をする前に、「ミクロではきっとこうなっているはず」と予測する。その予測が当たっていたかどうかを顕微鏡で確認して、精度を高めて、次の患者のためにまた用いる。そのくり返しが、現在の手術の奏功率にかなりかかわっていると言っていいだろう。

病理診断はしばしば「答え合わせ」と言われる。多くの臨床医もそのように考えているふしがある。しかし、実際にその部門を担当している病理医からみると、われわれは単独で「答え」を自認すべき部門ではない。ほかの検査データとの照合をくり返して、医療全体の最適解を調整していく部門が、「俺たちが唯一解だ!」とえらそうにしているというのは、ぼくはちょっと、違うと思う。

2023年11月6日月曜日

冬の使者

関連病院の仕事で俱知安に向かった。小樽方面に向かう高速道路に乗り、後志道に向けて左折してしばらく進んでいくと、目の前にもやがかかったように白いつぶつぶが出現する。雪虫だ。雪虫であった。雪虫はアブラムシの一種で、白い綿毛のような体毛を持つのと、その年の初雪の1週間くらい前に飛び交うことが多いという噂(たぶん噂でしかない)によって二重の意味で「雪の虫」として道民に広く知られている。今年は雪虫の出方が異常だという話は耳にしてはいた。「蚊柱」を極太にしたような……いや、そんな生やさしいものではなかった。高速道路の向こう側、山の際に夕陽が落ちていくにあたって、山の輪郭がぼうっと白く光っている、それがみんな雪虫なのだ。杉花粉が飛び散るときの資料映像のように、山全体がオーラのように白い蒸気を吹き上げている、それがみんな雪虫なのでぼうぜんとしてしまう。遠方に折り重なる山々すべてに白いカバーがかかっている。ぼくは車のエアコン送風口から雪虫が出てくるのではないかと思って怖くなった。外気取り入れを内部循環に切り替える。コートの中で汗をかく。窓が曇らなければいいがと心配になる。もし今窓を開けたらヒッチコックでもカメラを止めるだろう。沢木惣右衛門直保の見ている風景もこんなものなのだろうか。冬タイヤは雪にすべらないためのものだが、雪虫を大量に踏み潰しても果たして滑らないでいられるのだろうか。

高速を降りて余市・仁木のフルーツ街道に入ると雪虫はいなくなった。大きめのため息をついてウインドウォッシャーを窓に吹き付ける。トラクターをよけながら走って俱知安市街に到着し、コンビニによってコーヒーを買って一気に飲み干す。スマホをひらくと「雪虫大発生」とあり、そうか、やはりニュースになるほどのことか、と思って見に行く。しかし雪虫が発生しているのは札幌市の話で、ぼくが今通ってきた小樽の奥の山については特に触れられていなかった。あの風景を書いておかなければ、なかったことになる。それもまた怖い。札幌に戻ったらブログに書こうと心に決め、実際に今、こうして書いている。自然に対するおそれのような気持ちを、もう8割方忘れていて、PCの前でぽつねんと疲労をなでている。

2023年11月2日木曜日

病理の話(833) 命の果てから振り返る

病理解剖という手技がある。病気で亡くなった患者を解剖するのだ。手足をばらばらにしたりはしない。基本的には内臓の病気であることがほとんどだから、手足や顔には手をつけず、あとで服を着せたときにキズが見えないような場所にメスをいれて、胸やお腹の中にある臓器をとりはずして外に出し、必要な部分をホルマリン固定する。解剖が終わった後のご遺体は外から見るととくになんの代わりもないように見える。そのようにするのが技術だ。遺体にシャワーをかけてきれいに拭いたあと、「おくりびと」的な業者さんにお願いして、顔や髪をきれいに整えていただき、清潔な服を着せてお返しする。その後、ぼくらはおあずかりした臓器を丁寧にみる。


体の全部でないとはいえ、臓器はたくさんあるので検索もたいへんだ。心臓、肺、胃腸に肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、副腎、精巣や卵巣・子宮、膀胱、甲状腺……。解剖の目的にもよるが、ときには脊髄をはずしたり脳を取り出したりすることもある。大動脈のような血管を見ることも忘れてはいけない。これらの重さをはかり、外から見て、ナイフで割を入れてその切り口を見て、写真を撮ってあとからまた見直せるようにしておく。


ホルマリンに入れれば臓器はずっと固定した状態にできるが、ホルマリンがしみわたるのに時間がかかることに注意しないと、中までうまくホルマリンがしみなくて内部がしおれてしまったりすることがある。また、中までしっかりホルマリンを浸透させたとして、そこから72時間以上ほうっておくと、今度は細胞内のRNAやDNAが壊れてなくなってしまって、研究的手技を使うことに支障が出るから、ホルマリンに漬けたからといっていつまでも放置しておいていいものではない。どうするか? 切り出してプレパラートにする必要があるのである。


プレパラートにするといったってどこもかしこもというわけにはいかない。標本を作るにもそれを見るにも時間と手間がかかるからだ。もちろん、病気の正体を見極めるにあたって必要な手間なら惜しまない。しかし、効率も考えなければ、同時に複数の人びとの診断をすることはできない。病理医はシステムに組み込まれており、流れ作業の流れを止めてしまっては多くの人たちに迷惑がかかる。自分の興味だけのために調べるならば解剖に無限の時間をかけてもいい。でも、医療とは、他人と自分との間に立ち上がる「何か」のために施すものであり、間を満たすためには時間もお金もきちんとバランスをとらないといけない。


どこをプレパラートにするか? もちろん、病気のありかをプレパラートにするのが一番いい。ただし、病気を体現するような場所のど真ん中をドンピシャでプレパラートにすればいいというものでもない。プレパラートの中に病気の細胞だけがあると、正常との「比較」ができないからだ。病気にある程度の「範囲」があるもの、たとえばがんのような「カタマリ」を作る病気ならば、そのカタマリのど真ん中を作ってもいいが、縁辺の部分、はしっこ、境界部分にこそ診断の真髄が潜んでいたりする。


ある病気にかかった患者がなくなるとき、人体はたくさんの仕事を同時に行っている。腎臓が血液をきれいにし、肺が酸素をとりこみ、心臓がポンプとして血液を循環させ、肝臓では解毒が行われ……こういったプロセスが、いわゆる「末期」には同時多発的にこわれていく場合がある。でも「死んでるんだから壊れて当たり前だろう」とは限らない。ここはまだガマンしているな、とか、こっちは治療でだいぶ長持ちしたんだな、みたいなことを丹念に探っていく。そうすることが、その患者にほどこされた治療の「意味」を、あとから少しだけ足すことになる。


患者は、家族は、主治医ですらも、「解剖なんて手遅れだ」と考える場合がある。しかし、おそらくそうではない。過去は現在から見返したときに評価される。プロセスはふりかえってはじめてわかる。そういうことがある。手遅れなのではなく将棋でいうところの「感想戦」のような状態、それは、ほかでもない患者がこの世とコミュニケーションしつづけるにあたって、現世の側においていった「棋譜」を読む作業であり、私はそれに、意味が無いとか、手遅れだといった感情はあまり持たない。患者がたどりついた命の果てから来し方を振り返ることは患者のためでもあり、伴走していた我々の行く末の、改札を通るのに必要なチケットでもある。

2023年11月1日水曜日

他人のりくつはおことわり

秋のコロナワクチン接種で注射を射った左肩が少し痛い。熱も出ず体調も悪くなっていないことに、感謝したほうがいいだろう。運がよいのだ。ありがたみを噛みしめる。なぜぼくはコロナワクチンの副反応がいつも軽くてすむのか。膨大な量のメカニズムが背景にあることは間違いない。しかしすべてを解説することは必ずできない。理はある、しかし理で語れないことのほうが多い。

一理ある。一理しかない。そんな話ばかり。厭世のことわりは尽きまじ。理不尽という。先日、ある障害を書いた本を読んで猛然と書評をしたためた。おそらく2キロくらい痩せたのではないかという読書であった。ちなみに2キロは水分だけで変動しうる誤差ではあるが、平均で2キロやせられたのならそれはきっとぼくの中にうごめいていた理不尽の魔物がカロリーを代わりに食ったのだと思う。

病気は必ず治せるとは限らない。治療は必ずうまくいくとは限らない。そもそも治療があるとは限らない。何か変わったままやっていかなければいけない。効くと思っていて効かない。良かれと思ったけれど逆効果。あきらめたはずが停滞。終わると思っていたものが継続。すべてに一理ずつあり一理までしかない。理不尽に殴られて涙する人たちが戦車に乗ってやってくる。私たちは一理でしか戦えない。そもそも戦ってはいけないのではないか。理をもって戦うことの理不尽を思う。

台湾で開催される研究会の誘いを釧路出張があると言って断った。献本したいと書いたメールにすぐさまAmazonで購入した画面のスクショを貼って送った。この記事を書いている今日、40分後には、ぼくは自分の車で出張に出る。途中、タイヤをスタッドレスに変えなければ危なそうなので少し早めに出るのだ。ほんとうは電車で行けばいい。1泊して明日の朝、ゆっくり電車で帰ってくればいい。職場の都合なのだからそれでいいはずなのだがぼくは今から自分で運転して出張に行くし、明日は4時に起きて車に乗って帰ってきていつも通りの時間に出勤する。一理ある。一理しかない。なぜそうするのですか、という言葉に対して、理でこたえることは不可能だ。なのになぜぼくらは、すぐ、人を理詰めで説得しようと思ってしまうのか。そこにもきっと一理あり、ひとつの理くらいしかない。