2023年11月2日木曜日

病理の話(833) 命の果てから振り返る

病理解剖という手技がある。病気で亡くなった患者を解剖するのだ。手足をばらばらにしたりはしない。基本的には内臓の病気であることがほとんどだから、手足や顔には手をつけず、あとで服を着せたときにキズが見えないような場所にメスをいれて、胸やお腹の中にある臓器をとりはずして外に出し、必要な部分をホルマリン固定する。解剖が終わった後のご遺体は外から見るととくになんの代わりもないように見える。そのようにするのが技術だ。遺体にシャワーをかけてきれいに拭いたあと、「おくりびと」的な業者さんにお願いして、顔や髪をきれいに整えていただき、清潔な服を着せてお返しする。その後、ぼくらはおあずかりした臓器を丁寧にみる。


体の全部でないとはいえ、臓器はたくさんあるので検索もたいへんだ。心臓、肺、胃腸に肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、副腎、精巣や卵巣・子宮、膀胱、甲状腺……。解剖の目的にもよるが、ときには脊髄をはずしたり脳を取り出したりすることもある。大動脈のような血管を見ることも忘れてはいけない。これらの重さをはかり、外から見て、ナイフで割を入れてその切り口を見て、写真を撮ってあとからまた見直せるようにしておく。


ホルマリンに入れれば臓器はずっと固定した状態にできるが、ホルマリンがしみわたるのに時間がかかることに注意しないと、中までうまくホルマリンがしみなくて内部がしおれてしまったりすることがある。また、中までしっかりホルマリンを浸透させたとして、そこから72時間以上ほうっておくと、今度は細胞内のRNAやDNAが壊れてなくなってしまって、研究的手技を使うことに支障が出るから、ホルマリンに漬けたからといっていつまでも放置しておいていいものではない。どうするか? 切り出してプレパラートにする必要があるのである。


プレパラートにするといったってどこもかしこもというわけにはいかない。標本を作るにもそれを見るにも時間と手間がかかるからだ。もちろん、病気の正体を見極めるにあたって必要な手間なら惜しまない。しかし、効率も考えなければ、同時に複数の人びとの診断をすることはできない。病理医はシステムに組み込まれており、流れ作業の流れを止めてしまっては多くの人たちに迷惑がかかる。自分の興味だけのために調べるならば解剖に無限の時間をかけてもいい。でも、医療とは、他人と自分との間に立ち上がる「何か」のために施すものであり、間を満たすためには時間もお金もきちんとバランスをとらないといけない。


どこをプレパラートにするか? もちろん、病気のありかをプレパラートにするのが一番いい。ただし、病気を体現するような場所のど真ん中をドンピシャでプレパラートにすればいいというものでもない。プレパラートの中に病気の細胞だけがあると、正常との「比較」ができないからだ。病気にある程度の「範囲」があるもの、たとえばがんのような「カタマリ」を作る病気ならば、そのカタマリのど真ん中を作ってもいいが、縁辺の部分、はしっこ、境界部分にこそ診断の真髄が潜んでいたりする。


ある病気にかかった患者がなくなるとき、人体はたくさんの仕事を同時に行っている。腎臓が血液をきれいにし、肺が酸素をとりこみ、心臓がポンプとして血液を循環させ、肝臓では解毒が行われ……こういったプロセスが、いわゆる「末期」には同時多発的にこわれていく場合がある。でも「死んでるんだから壊れて当たり前だろう」とは限らない。ここはまだガマンしているな、とか、こっちは治療でだいぶ長持ちしたんだな、みたいなことを丹念に探っていく。そうすることが、その患者にほどこされた治療の「意味」を、あとから少しだけ足すことになる。


患者は、家族は、主治医ですらも、「解剖なんて手遅れだ」と考える場合がある。しかし、おそらくそうではない。過去は現在から見返したときに評価される。プロセスはふりかえってはじめてわかる。そういうことがある。手遅れなのではなく将棋でいうところの「感想戦」のような状態、それは、ほかでもない患者がこの世とコミュニケーションしつづけるにあたって、現世の側においていった「棋譜」を読む作業であり、私はそれに、意味が無いとか、手遅れだといった感情はあまり持たない。患者がたどりついた命の果てから来し方を振り返ることは患者のためでもあり、伴走していた我々の行く末の、改札を通るのに必要なチケットでもある。