2023年11月27日月曜日

ライブバイブ

原稿を書きながら耳で医者の話を聞いている。こないだ現地会場に出席した学会であるが、後日のオンデマンド配信分の金も払っていたので、聞きに行けなかった会場のセッションを流しっぱなしにしている。デュアルモニタの右側が学会動画、左側が原稿。ときどき気になるものがあったら手を止めて右側に目をやる。単位は十分足りているので、どの動画も最後まで見る必要はない。とにかくおもしろそうなところを流しておき、これだと思ったら見る。


しゃべり方がじょうずな人がいると、おおっと思って目を奪われる。耳だけで十分情報は入ってくるが、うまく言葉を使う人の顔はきちんと見てみたいし、これほど整然としゃべれる人ならさぞかしパワポのプレゼンもきれいだろうと期待する。結局、ラジオ的には聞かずに画面に向き合うことになる。しゃべるのがあまり上手ではない人だとプレゼンもたいしたことないような気がして、なんとなくラジオ的に、バックグラウンドで流しているうちに話が終わる。



まとめると、「しゃべりがうまいとプレゼンをちゃんと見る。しゃべりがへただとあまり見ないで聞くだけにする」。なんだか逆の気もするが、自然とこうなっている。



実際には、ぼそぼそ平板に、つっかえつっかえしゃべる人の中にも、とんでもない美しいデータと画像を出してくる人がいる。けっこういる。そういう人を見つけ出して話を心ゆくまで聞くのが学会の楽しみのひとつではないかと思う(性格悪い楽しみ方だが)。しかし、オンデマンドではなかなかこれがうまくいかない。



なぜだろう。PCの前で学会を見ていると、つい、「最初の30秒がつまらないともうだめ」みたいな雰囲気に満たされてしまう。YouTubeの動画の評価とかといっしょになる。学術の話なのに。イントロで重要なことが語られるとは限らない、結論からディスカッションにかけてが盛り上がるであろうアカデミックな話なのに。オンラインで、オンデマンドで見ていると、なんだか「プレゼンの上手さ」についての期待がいつもより高まってしまう。講師をYouTuberと同じ土俵に乗せてしまっている。



現地会場だとそうでもない。映画館のような椅子に深々と身を沈め、目の前で次々と展開されていく演題を見ているとき、スマホを開きたくなるわけでも、別の動画を見たくなるわけでもなく、ただスクリーンをずっと見続けている。それにあまり抵抗を感じない。ときに眠たくなることもあるけれど、目をあけたらまだ学術をやっているのが気持ちいい。そうやって、ぼそぼそぶつぶつ、しゃべる人の中に、本物の学問の輝きを見つけることが必ずある。それが学会の良さだ。現地会場だけの良さなのかもしれない。オンデマンド? Netflixみたいなもんだ。つまんなかったら即チェンジ、もしくは単位のために流しっぱなしにしておく。それ以上にも以下にもならない。



ネット、AI、なにについても言える。こんなに使えないなんて。めちゃくちゃ使ってるけどさ。こんなに届かないものだなんて。すげえ新しい世界開いてるけどさ。ここまで、リアルを補完してくれないなんて。別のものを外付けしてしまっているけどさ。体を失って生きる時代が来るかと思ったけど、これじゃあ、望み薄だと思う。身体性がどうとか哲学者が言うのもわかる。ていうか、なんだろう、肌が空気の振動を感じ取ることって、こんなに大事なことだったんだな。耳だけで講演を聞いている。肌が聞いていないということだ。