2023年11月22日水曜日

脊髄だけにしゃべらせない

きちんと頭を使い続けている人というのがいて、自分もそうであると言いたいところだが、自信がない。ぼくの当座の目標は、「連想ゲームではない思索」を細々と維持する人間になることだ。油断するとすぐに、「ああ来たらこう返す」のような、武道の有段者(でも達人ではない)のような反射的思考に陥る。自分がそうだからここはあえて下げて語ってしまうが、剣道三段なんてくさるほどいる。別にすごくない。長くやってりゃ「自動化した動き」で段位くらい取れる。脊髄だけで剣道しても三段くらいならたどり着く。大事なのはいかに脊髄と脳とを両方回すかだと思う。反射だけで竹刀を握るならそれは獣のいさかいと同じである。体に動きをしみ込ませるのは大切だ、しかし、半自動的にさばけるようになった重心を脳で補正し、無意識にいい力加減で握っている掌~指先を意図で微調整することこそが、武道の本質ではないかと思う。

思考も一緒だ。

反射だけ、連想だけで考えた気になって、思考の有段者を気取ることは簡単。でもそれは、獣の思考である。




べつに、ずっと難しいことを考えて、何か役に立つことを言うためにがんばりたい、と言いたいわけではない。


哲学とか思想の本を読むとき、「よし、誰それのナニナニというむずかしい言葉を覚えたぞ」と受け入れるばかりで、すぐに忘れてしまうぼくは、言葉からリゾーム的にひろがるなにかにアクセスする手間をきちんと為していないなあと思うことがある。こむずかしい言葉を掘り進むようにひらいていく人、そういう人になれたらいいなと思う。


ところで自分の内奥から外界に出てくる「なにか」は、心の隘路をすり抜けていく間にさまざまな突起や棘にひっかかって、さまざまな傷を負う。その傷痕をあたかも意味のある文字列のように掲げて、「俺の心から出てくるこのフレーズに意味がある!」とやってしまうタイプの人がいる。誰かというとそれはぼくである。しかし、ライフルごとに施状溝が決まった形になるように、そんな、心の奥から出てきた何かにいつも同じ刻印をしたものばかり射出するというのもつまらない話だと思うのだ。たとえば、奥から出てきたものを、みずからの辺縁でいったん留保して、外部から赤外線のように届くなにか、それは他人の言葉であったり絵画であったり文学であったりするのだが、それをもって撹拌する。そうすれば心の中から出てきたものは、みずからの境界を越える前に、粘菌のようにじわじわと形を変えて、毎回異なる迷路を抜けるように毎回別様のものとして自分の外に出ていくだろう。



誰が見ても頭いいやろという人がそのまんま頭を存分に使っているのを見るのは楽しい(萩野先生なんかそういうかんじだろう)。

日ごろから一貫してギャグやダジャレしか言っていないのに、ふとした瞬間に飛び出てくるイディオムが奇天烈で、どれだけ独り言を長く繰ったらここにたどりつくのかとめまいがしたりするタイプの人もいる(浅生鴨さんというのはこれだろう)。

いっぱいあこがれる人がいる。幡野さんなんかいつもすごいなと思っている。彼はお仕着せの言葉を使わない。この場面ではこれを言うという決め事がない人に感心する。



きちんと頭を使い続けている人というのがいて、自分もそうであると言いたいところだが、自信がない。ぼくの当座の目標は、「連想ゲームではない思索」を細々と維持する人間になることだ。あと、安易にコピペするのをやめたい。