2023年11月27日月曜日

もっこもっこ

病院の会議がはじまるとだいたい5分で寝てしまう。

入院患者の数がどうとか、地域からの紹介がどうとか逆紹介がどうとか、健全運営のために必要なことのほとんどは病理診断科のぼくにとっては全く関係がない……とまでは言えないが、ほぼほぼ関係がない話になるのは事実なので、ひとまず睡眠の時間にあてている。

寝ぼけながら参加している管理職の医師たちを見回していると、なかにはやけに熱心に病院の経営方針に口を出すタイプの人もいる。経営職でもないのになぜそこまで……とふしぎな気持ちになる。そういう人は、将来自分も開業する予定があって興味津々なのかもしれないし、そうではなくて単純にこういう会議でいきいきするタイプの人柄なのかもしれない。いずれにしてもぼくが全く気持ちを入れられないこういう場面で、水を得た魚になってくださる人のおかげで病院というどでかい企業は動いているのだから感謝こそすれ揶揄などしてはならない。ありがとう魚。おい、魚が行くぜ。大変な野火ですな、魚を向けて焼いたらどうです。張飛ってすげえよな。

会議から戻ってくると定時を回っていたのでここからは自己研鑽の時間である。当科の医師はみんな帰ってしまっておりだれもいない。じつにすこやかな職場環境だ。ここでぼくがちょっとでも働いていたらそれは「自己研鑽という名の下にやりがいを搾取してうんぬん!」と各方面から激ギレ込みで突進してこられる案件になるのだけれど、ぼくは今こうしてブログを書いているわけで、どう考えても過剰労働ではなくて自己をキュッキュと研鑽しているのである。思わず研磨の効果音を入れてしまったが研鑽というのはしかし不思議なことばだな。語源でも調べてみようか。研鑽の研究は研磨の研であり、まさにとぐとかみがくという意味だ。研鑽のさんは穴を開けるきりの意味のようである。つまりこれは木工なのだな。仕事が終わってからじっと考えながら自己研鑽をするというのはすなわち黙考して木工に勤しむということだったのだ。

研鑽するために必要なのは削っても穴を開けてもよい板を用意することである。厚みのある素材だから思い切り彫ることができるのだ。ペラペラのベニヤ板だと、ちょっと削っただけでバキッと折れてしまうだろう。若いときには自己研鑽なんてするよりもまずは素材の厚みをきちんと確保することが大事な気がしてならない。十分に肥え太ったものを伐採してもっこもっこと削ってようやく自分が仏像みたいに姿をあらわす。したがって業務終了後に金ももらわずに自分に向き合うのをやっていいのは私のような中年の特権である。若者は自己研鑽なんて生意気なことを言ってないで定時を過ぎたら映画をみるなりワインを飲むなりしたらよい。そのために必要なのは十分な給料だ。仕事のできない人間にこそたくさんの給料を渡してどんどん分厚くなってもらったらいい。ぼくみたいに仕事ができるようになった人間にはもはや給料なんていらないということになる。……なんだこの木工は。いびつすぎるぞ。捨てよう。黙考のやりなおしが必要である。あんなに寝たのにまだ眠たい。