2023年11月27日月曜日

病理の話(843) 見直したらありました

今日のブログのタイトルは世の中の99.99%の人にはぴんとこないと思うが0.01%くらいの人にはぞっとする響きをもつのではないかと思う。

まあ病理の話だから基本的には病理医がやる顕微鏡診断の話だ。

しかしもしかするとどの領域でも起こることかもしれない。



顕微鏡で細胞を見る。プレパラートの端から端までしっかりと見る。ビルの窓を清掃するときの、ワイパーで上から下、下から上へとまんべんなく拭き取るような心持ちで、視野を残さず、じっくりと見る。スキャンする。

そうして「所見」を探す。所見というのはわかるようでわからない言葉だが、ぼく自身は、ただ見えたものを「所見」と言うのではなく、見えたものに病理医としてなんらかの意義づけができるなあと思ったものを「所見」と呼んでいる。

したがって所見というのは「血管がありました」「炎症細胞がありました」「上皮細胞がありました」という報告ではない。

「ここにあってはいけない上皮細胞がありました」

とか、

「ここに普通よりもはるかに多い、病的な量の炎症細胞がありました」

ということを見つけたときに、「所見」として報告書に書き込む。


で、くまなくスキャンして、結局、「所見がない」ことはある。

病気の部分からきちんと組織が採取されていないのか。

はたまた、臨床医が病気かなと思っただけで、そこはじつは病気ではなかったのか。

いろいろな可能性が考え付くけれども、ないものはないのだ、だからそういうときには病理医は、「有意な所見はありませんでした」とか、「特異的所見は見いだせません」と書く。


で、だ。


報告書を書いて、すぐ出さずに、ほかの病理医にもチェックしてもらう。ダブルチェックである。「目を変える」ことで、見逃しや書き間違いなどを防ぐのである。

すると、二人目の病理医が、ぞっとするようなことを言う。

「あるよ。所見。ほら。」

えっ……。あんなに見たのに……。

あらためて顕微鏡を覗く。たしかにある。そこに異常な細胞が。それもけっこうな量で。

見逃すというのは「微少で見逃す」ばかりではない。なぜこれに目がいかないの? というような、落とし穴にハマったような見逃し方をすることがある。

へんな汗が背中を流れる。

「見直したらありましたね……」


これが本当にあるから怖いのだ。そして、このような見逃しを防ぐ方法も、いろいろと受け継がれてきている。

さっきの「ダブルチェック」はいいやり方だ。でもほかにもある。一人でできることがある。

「上から下、下から上とスキャンしたら、次は左から右、右から左へともう一度スキャンする」なんてのが、おもしろいやりかただと思う。

作家さんの中には、書き間違いをチェックするにあたって、横書きで書いたものを縦書きにして見直すと見つけやすい、みたいなテクニックを持っている人がいるという。なんだか似ているなあと思う。

あと、これはいかにも病理診断ならではなのだが、「標本を作り直す」というやり方がある。ガラスプレパラートをもう一度作ってもらうのだ。技師さんには申し訳ないが、細胞の切り口が変わるので、見え方がちょっとだけ変わる。すると、前回とは違った雰囲気の中で、見づらかった細胞が見えるようになったりする。

免疫染色を使う、という手法もある。でもこれはお金がかかるのであまり乱発はできない。



「ないと思ったけど、見直したらありました。」主治医も患者もずっこける瞬間だ。できるだけ経験したくない。でも、長く仕事をしていると、完全な見逃しまではいかなくても、ヒヤリ、ハッと、することはある。あぶねー! はままある。油断できない。慎まねばならない。