2023年11月14日火曜日

11月6日のツイートのまとめ

久々に会った友人と酒を飲んで、ふだんと違う言葉が自分の口から出てきたのが良かった。ずいぶんと長いこと、誰に対しても同じことを話していたような気がするが、最近たまに、相手と自分との間で苗木を育てるような会話ができるようになった。ただ、途中で酔いに負けてしまう。


先日のお店は空いていてよかったが、店の大将が差別的な言動をするタイプの人で、私も友人もその攻撃の対象にはならないのだけれど、そういう問題ではなく、友人が傷ついていなければいいが、と気がかりであった。いい飲み屋が探せないことが悩みだ。3年半でいい飲み方がわからなくなった。


自分はだらしなく酔う。相手が何かに傷ついたのではないかということを必要以上に、余計なお世話的に気にしてしまうだらしなさ。本当はそんなことまで気にしなくていいが、酔いが進むと気になってしまう。だから、相手が極力傷つかない場所を選ばないと、対話の苗を育てることに集中できなくなる。


この10年を振り返って、自分が本当に楽しく飲めたのはいつでも、「誰かが取ってくれた店」だった。自分が用意した場が相手をなんらかの形で傷つけることを怖れているし、相手が用意した場ならどんなところであっても傷つかない。そう信じてきた。そうやってだらだらと傷を増やしてきた。


本屋をやりたいとは思わないのか、とたずねられて、昔は飲み屋をやりたかった、と答えた。その二つは何が違うのだろうと考えた。人は本屋で救われるわけではなく、本で救われる。人は酒場で救われるが酒で救われるわけではない。その両者は違う。ぼくは場を過剰に怖れているのだと思った。


今日のぼくは、「居場所が大事」という論を展開したいわけではない。そうではなく、もっと軽薄にとらえていい一時的な居場所(例:飲み屋)に自分の心が大きく動かされてしまうこと、過剰な怖れ、これは今のぼくの抱えた病理なのではないか、ということを考えている。


なお、「場を異常に怖れること」の奥には、ほんとうは相手を傷つけるのは場所からのストレスなどではなく、対話の相手であるぼく自身の言動なのではないかという、圧倒的な恐怖がたぶん潜んでいるのだが、これを怖れるのは病理的ではなく生理的だと思うので、そこは残酷だけれどあまり気にしていない。


おもしろいなーこんなところに着地するのか、今日のぼくは、と思って連続ツイートを眺めている。ひとりで対話し、新たな苗を育てた。


ぼくはツイッターがいろいろ変わったことにわりと傷ついて、思った以上にしんどくなっているのだと思う。自分のツイートがどう転がっていくのかなというのを眺めながら、突然そんなことを思った。場のことばかり考えている。大事なのは場ではないのだが。