2021年1月29日金曜日

香の物とおつゆもご一緒にどうぞ

「なぜメディアは時に辛辣に、ときに挑発や揶揄を全開に用いて、政治や社会にもの申すんでしょうか。」


数年前、ぼくはあるメディア関係者との宴席でこのように尋ねた。思慮深いその人はこう答えた。


「為政者による言論弾圧の歴史……権力を持つものが社会の多様性をないがしろにしてきた過去……。これらを覚えている者はみな、今のメディアの揺るぎないやり方を支持しています。弱き者の側について、強くゆがんだものにカウンターを当てる役割、刃物を持った道化。それこそがメディアの存在意義のひとつだ、と、少なくともメディアの中にいる人たちは考えているのです。」


ぼくは、覚悟と冷徹と困惑の三食丼を思い浮かべて、かきこんだ。






もっとも、今の世の中に明確な「権力を持つもの」なんて、存在しないかもな、と思う。


あるいは、もしかしたら、昔から存在していなかったのかもしれない。


何かひとつの「中央」が、末端すみずみにまでメッセージを行き渡らせるという虚構が、ここ数年で、少しずつあばかれているように思う。


そもそも、これまでも、末端の声が拾われることがなく、「中央の影響から逃れたものたち」を可視化する方法がなかっただけなのかもしれない。


「届いているところまでしか、見ていなかった、届いているところまでが、全体だと思っていた」だけなのかもしれない。


ずっとこうだったのかもしれない。





映画『この世界の片隅に』でぼくは、戦時中といえば軍部の暴走と視野狭窄だよね、あまねく恐怖と倦怠感と焦燥感が日本全土をくまなく支配していた日々だよね、と思い込んでいた自分自身の「乏しさ」を知った。

片隅にも自我がある。片隅にも矜持がある。ただその声が全体に反響していかないだけだ。昔から人々は、丘の向こうで、池のほとりで、防空壕の中で、ひそかに克己していた。


今、そのことがSNSによって、誰の目にもわかりやすくなっているのだな、と感じる。




横暴な権力の不正を暴く監視装置であったはずの報道機関が、いつのまにか権力の側にいて、140文字×無限大の個人記者たちが、今日もそれを監視して引きずり下ろそうとする。

権力不在の世の中で、いまやメディアこそが、揺るぎなく叩かれる側にいる。


ありとあらゆる「狭い領域の専門家達」が、日替わりで「素人記者たち」を抑え込み、「お前らの暴走は目に余る。我々専門部隊がお前らを監視し、糾弾し、是正する」と、日々怒声を挙げている。


「メディア」同士の内紛すら起こっている。「お前程度の能力ではメディアを名乗ることは許されない」と、メディアの人間が口にする。クラスタごと切腹しているかのようだ。それを見て、「有識者達」は高笑いをしながら、「残された最後の山」に向かって総攻撃をかけ続ける。長篠合戦のように、順次、入れ替わり立ち替わり、火縄銃を撃ち続ける。






昨日、ぼくはある医療関係者とのZoom会議で、このように尋ねた。


「なぜ医療者は時に辛辣に、ときに挑発や揶揄を全開に用いて、メディアにもの申すんでしょうか。」


極めて思慮深いその人はこう答えた。


「メディアによる歪んだ報道の歴史……発言力を持つものが科学をないがしろにしてきた過去。これらを覚えている者はみな、今の医療者の揺るぎないやり方を支持しています。弱き者の側について、強くゆがんだものにカウンターを当てる役割、刃物を持った道化。それこそが医療者がみずから情報発信を担う存在意義のひとつだ、と、少なくとも医療の中にいる人たちは考えているのです。」


ぼくは、自戒と諦念と反骨の三食丼を思い浮かべて、かきこむほかない。





進歩がいるのではないか。


今こそ、「歴史はくりかえす」を、反証すべきなのではないか。

2021年1月28日木曜日

病理の話(499) ネコちゃんうまいことやってるね

先日の京都大学のプレスリリースで、「ネコがマタタビによってあんな感じにくにゃっくにゃになってしまう理由」が解説されていた。非常におもしろい仮説であった。


https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2021-01-21


ネコは進化の過程で、マタタビの中に含まれているネペタラクトールという物質に「幸せ」を感じる性質を獲得した。


幸せ~だけではなくて、おだやかでぼーっとしてしまう(鎮静効果)というのもある。


おまけに体をぐにゃっぐにゃと動かしたくなる。ネコの脳はそういう風にできている。


その結果……「マタタビのにおいがある場所」=「マタタビの上」で、「ぐにゃぐにゃと体をねじる」ことで、マタタビの有効成分が、ネペタラクトールが体にくっついて……


こいつがなんと、「蚊を寄せ付けない」んだそうだ。まーびっくりした。何ソレ。ぜんぜん話がずれたね。ネコがぐにゃる物質が、たまたま蚊よけにも効果があって、蚊よけを摂取すると蚊よけの上でぐにゃる、って。すげえ堂々巡りみたいだ。


ま、最初は、「マタタビでぐにゃるネコ」だけじゃなくて、「マタタビが効かないネコ」もいっぱいいたのだろう。たまたまマタタビでぐにゃる体質のネコがあるとき現れたのだ。ちょっとした(?)、変異で。


ところが、このちょっとした変異が、気の遠くなるような時間の中で、だんだん差につながっていく。


マタタビの有効成分にぐにゃぐにゃして、マタタビを体に塗りたくるタイプのネコは、ほかのネコに比べて、蚊に襲われにくい。


すると、マタタビにぐにゃぐにゃするタイプのネコは、マタタビに反応しないネコにくらべて、蚊が原因の感染症にかかりにくくなる。


マタタビが平気なほうは、蚊が原因の感染症によって、不幸にもたまに命を散らす。あるいは寿命を減らす。


マタタビが平気なネコは、長い時間の中で少しずつ駆逐されていき……


現在、多くのネコは、「マタタビぐにゃ族の末裔」になっている、という仮説、かな。


すごいな進化って。





これを読んでしばらく考えると、こんなことに気づく。


「ヒトはなぜ、マタタビでぐにゃぐにゃの戦法をとらずにここまで来たんだろうか……」。





いくつか説を(勝手に)考えるぞ。


そのいち。


ヒトは毛が少ない。ぐにゃったらマタタビの汁がくっつくだけじゃなくて、地面のせいでこまかな擦り傷や切り傷が肌に直接ついてしまう。すると、蚊はよけられるかもしれないが、地面にいる細菌をはじめとするほかの感染症にやられてしまうリスクが上がったのではないか。


そのに。

脳をでかくして社会性をもつことで生き残る戦略をとったヒトは、興奮・鎮静して心ココにあらずをやってしまうと、たぶん各種の生存戦略をとれなくなる。「頭がいいこと」を捨てるというのは、ヒトにとっての牙や爪を折る行為に等しい。わざわざメリットつぶしてはだめだ。


そのさん。

ヒトの手は器用なので、皮膚に「かゆみ」のセンサーをきちんと用意して、蚊がとまったら叩き殺すという手段をとれた。つまり、ぐにゃるまでもなかった。


そのよん。

脳と手先の器用さを活かして、服を作って着るという選択肢も選べた。うまいこと防御した。




こんなとこかな。ネコとは元々の強みが違うヒトにとって、マタタビぐにゃ戦法は有効ではなかったのだろう。


ところで……蚊が媒介する感染症のうち、マラリアに対しては、「鎌状赤血球症」という特殊な遺伝子変異をもちいて対応した人類が今も生き残っている(アフリカに多い)。


蚊に刺されてマラリア原虫が体内に入ってくることはしょうがないとあきらめて(!)、マラリアが体に侵入しても赤血球のほうでそれを受け入れないように変化してしまおうというなかなか思い切った作戦(?)だ。



進化っておもしろい。

人力で進化を導くのは無理だなと思う(神ならいけると信じるひともいる)。

神ならぬ人にとって、マタタビぐにゃ戦法がネコの遺伝子を後世に伝える役に立つ、とはなかなか創造……じゃなかった想像できない。



生命の持つ機能の、不思議な巡り合わせをひとつひとつ解きほぐしていく、現代の科学者たちの執念と想像力も、全く大したものだなあと思う。ていうかよく気づいたな、こんな複雑な仮説……。

2021年1月27日水曜日

アンチ無限の可能性

ひとりの人間が立っている。


周りは荒野である。


このとき、人間の、皮膚の中にはいろいろなものが「ある」。


いっぽうで、皮膚の外側にはなにも「ない」。


そう考えがちである。







人間は立ち続けている。


ときどき風が吹き、荒野の枯れ葉が飛び交う。人間の皮膚の外の、空気の部分に、たまに葉っぱが現れてはまた去っていく。


また、ときどきほかの人間が通りがかり、元からいた人間の前に立って、何やら立ち話をする。ときにツバを飛ばして口論などをする。そしてまた去っていく。


人間の皮膚の外には、何かが通り過ぎることがある。舞い上がることがある。吹き付けることがある。訪れることがある。埋め尽くすことも、降りかかることもあるだろう。


人間の皮膚の外にはなにも「ない」わけではない。一瞬を切り取ってみれば「ない」かもしれないが、時間軸を前後に無限に動かしていけば、そこにはおそらくなにかが「ある」。


三次元を一瞬だけ観察すれば、人間の皮膚の外にはなにも「ない」かもしれないが、四次元で時間軸を自由に動きながら眺めれば、人間の外のほうにこそ無限の可能性が「ある」。





人間の皮膚の中には、人間が体内で作り出し、整えたもの「しか」ない。


ときおり食べて取り込んだものは「ある」。しかし、それ以外は「ない」。


皮膚の外にはなんでも「ある」。どこか一瞬だけ見れば「ない」かもしれないが、実際には「なんでもある」。





つまり。





生命とは、境界部の中の可能性を「減らしている」状態である。


皮膚の中に、自分という限定的なものしか「ない」。皮膚の外よりも可能性が「ない」。





そういう内容の話を読んだ。なるほどなあ……と思った。物理の世界の住人が、生命の定義をするときに、「エントロピーの局所的な低下だよ」と答えたことを思い出す。


生命とは、その内部の可能性を、外よりも減らしたものなのか。ああ、確かに、そうかもしれない。無限の可能性というものは常に皮膚より外にある。





脳の電気信号のバリエーションばかりを「無限だ」と言ってよろこんでいたぼくも、たまにこうして、反省をする。

2021年1月26日火曜日

病理の話(498) がんの定義

実はこの回、当ブログ「脳だけが旅をする」の1000本目の記事となる。通し番号が微妙にずれている(交互に病理の話とそうでない話をしていたはずだった)のだが、途中ちょっとイレギュラーな回もあったし、ま、こんなもんだろう。いちおうキリのいい回なので王道の話をする。




顕微鏡を見てその細胞が「がん」かそうでないかを判断すること。病理医の大切な仕事。


この、「がん」とは、そもそも何なのか?




もっとも文字数少なく説明するならば、「がん」とは、秩序を乱すものだ。

「がん」は、いくつかの際立った特徴によって、人体がそれまで保ってきたバランスを崩す。



人体がやりくりをしていくときに大事なのは、無数の細胞がきちんと手分けしていることだ。指には指の、胃には胃の、脳には脳の細胞がいて、それらが


・適切な人数そろっていて、

・適切な専門技術をもって働いていて

・定期的に新陳代謝する(古くなってエラーを起こす前に入れ替わる)


ことが必要なのである。これ、人間社会とまったく一緒だと考えてもらっていい。田舎のジャスコに大量の専門店が入っていて、それぞれに数人ずつの店員がいて、バックヤードで輸送にたずさわる人たちがいて、フードコートがあって……それぞれ売り場や仕入れや物品搬送、あるいは料理などに長けた人が適材適所できちんと配置されている。何年も同じ人がずっとそこにいるのではなくて、新しいバイトが入ってきたりベテランがやめていったりするけれど、全体としては「ジャスコ」を保っている。


これと同じように人間も体の中でうまくやっている。


では「がん」というのはどういうかんじか?



ある細胞が「エラー」を起こす。グレる。変質してしまう。そして、


・適切な人数 → を、守らない。異常に増え続ける。

・適切な専門技術 → を、持っていないのにそこにいる。

・定期的に新陳代謝 → しない。なんなら死なない。


となる。最後さらっとおそろしいことを言ったが、がん細胞というのは寿命がないのだ。人間社会に登場するヤクザやマフィアも不死とまではいわないことを考えると、がんというのは人体における「不死のヤクザ」でありヤバさが際立っている。




そして、これらの三つの特徴に加えて、がん細胞がもっとも人体にとって迷惑な点がある。それは何かというと……


・各自の持ち場を離れて縦横無尽に動き回る


ということだ。これを専門用語で「浸潤(しんじゅん)」と呼ぶ。また程度がひどくなると「転移」を引きおこす。ジャスコの中で異常に増えたヤクザが近隣のパチンコ屋とかイトーヨーカドー、警察署、学校などにも出没するということだ。こうなるとジャスコが崩壊するだけでは済まない。町があぶない。




さいしょの三つの特徴、


・適切な人数 → を、守らない。異常に増え続ける。

・適切な専門技術 → を、持っていないのにそこにいる。

・定期的に新陳代謝 → しない。なんなら死なない。


を、それぞれ、「異常増殖」「異常分化」「不死化」と呼ぶのだが、実はこのようながん細胞の特徴は、「そうとうに面倒」ではあるのだけれど、「制御できないわけではない」。


ざんこくな想像をしてほしい。ジャスコの中でだけヤクザが増えて暴れまわっているというならば、最悪、ジャスコに爆弾を落としてこっぱみじんにしてしまえば町は救える(ひどい)


でもこれを本気でやるのが「手術」だ。こっぱみじんにはしないけれどまるごと体から取ってしまうわけだ。


しかし、「がん」が持ち場を離れて勝手に移動する「浸潤」や「転移」をしはじめると、ジャスコを爆破しただけでは話はおさまらない。




ここで考え方にぐっとアレンジを加える必要がある。


「ジャスコの中に留まっているヤクザ」と、「町中に広がったヤクザ」では、取り締まり方を変えなければいけない、ということだ。ジャスコの専門店街の一角にあるアクセサリー屋にだけヤクザがいるならばその店をつぶせば平和は戻るし、町中にヤクザがいるならば爆弾で町ごと焼き尽くすことはできないので別の手段を考えなければならない(たとえば、ヤクザだけを殺す特殊な水を上水道に混ぜるとか。こっわ!)。


「がん」と一言でまとめるのは危険だ、ということだ。どれくらい進行しているか、どこにどういう性質で隠れているか、場合によって対処がかわってくるというのはそういうことである。





こんなとこかな。引き続き当ブログ「脳だけが旅をする」をよろしくお願いします。何度でもやります。



2021年1月25日月曜日

ラベンダーの色

つまらない本を1冊、読みづらい本を1冊。そしておもしろいんだけど難しい本を1冊読んだ。正月からこっち、積み本がゼロになる日もある。読書が順調な日が何日か続いている。少しほっとして、どこかいそいそとしている。

さあ、書店でむやみに本を探しに行こう。……前ならそうしていた。今はでかける気がしない。せめてワクチンを打ってからだろう、ぼくが前のように、自由にでかける日がくるとしたら。

病院の職員玄関でIDをかざしてドアを開けるとき、マスクをして廊下をあるいて検査室のドアをひじで押し開けるとき、デスクに座って書類を書いて総務課行のボックスに入れ、診断書をプリントアウトして外来に届けるとき、いつも、ぼくの指についたわずかなウイルスが巡り巡って患者をひとり殺すかもしれない、という交通事故にも似た不運を思い浮かべる。ぼくが今感染症にやられても世界は滞りなく回るだろう、ただし、病理検査室の全員が即座にPCRをしなければいけなくなる、それが心苦しい。少し想像するともう、出かける気がしない。世界をかき混ぜる気にならない。クリームを垂らしても回転しないほどに凪いだコーヒーの液面。ちょっと動けば拡散が起こる、それをいつも気にしている。

問題は自分のかきまぜすら止まってしまうことだ。「思いもよらない本」を手に入れることを強く欲する。そうか、「自由」というのは、思い通りにやることではなく、「思いもよらないことすらやること」なのだな。



Amazonでこれまでの自分の文脈と完全にはずれた本を買うというのは思った以上に難しい。AIは所詮その程度なのだ。「この本を読んだ人はこんな突拍子もない本を次に読んで『うわあ、これをぼくが読むとは思ってなかったけど前とはぜんぜん違う意味でよかったなあ!』と思っています。」Amazonがそこまでやってくれたらぼくはもう本屋に行かなくなるだろうか? いや、行くだろうな。行けないけど。

Twitter公式アプリはタイムラインを勝手にいじってしまって、ぼくが普段楽しく気に入って見ている人のツイートばかりを表示させる。だからいまだに、PCではHootsuiteというサードパーティアプリを使い続けている。これだとぼくがフォローしている11万人くらいのフォロイーを、「純粋に時系列順に」表示してくれるから、ふだんあまり気にしていない人々のツイートが突然目に飛び込んでくる、ということも起こりやすい。

もっとも……「ぼくがフォローしている」という時点で、十分バイアスはかかってしまっている。ぼくはTwitterのフォローは基本的に「フォロー返し」なので、つまりはまず向こうがぼくをフォローしてくれて、その人のタイムラインを見に行って、政治的・信条的にとがりすぎているだとか暴力的だとかツイートが1個もないなどの問題がないことを確認したらフォローを返す。ということは、ぼくが見ているタイムラインというのは少なくとも「ぼくのツイートを一瞬でも気に入ってくれた人」ばかりで構成されているということだ。これでは世の多様性を反映することにはならない。

もっとも、「完全にランダム」なんて絶対に無理だということもわかっている。本屋でぶらぶらすれば思いもよらない本に出合えるというのも実は嘘だ。だって、その書店で本を仕入れて棚に並べている人の意思が入ってくるのだから。複数の本屋をめぐればいいというのも幻想だ。「本にするにはちょっとめんどう」なコンテンツは手に入らないのだから。なんだってそうだ。関係性の中でしか自由は生まれない。制限があり有限化がある先でしかぼくらは自由に選べない。



こういうことを考えていると、「偏った読書をしたくない」なんていう願い自体がひんまがっているというか、理想という名の幻想なんだよな、ってこともちょっとだけ考える。読書という行為自体がバイアスなのだ。いまさらそこで偏りを恐れてどうする、というツッコミは正当だと思う。ただ、ほほえみを生まないタイプのツッコミは下品だ、というだけの話で。



偏っていることを前提としてそれでもカタヨリ続けるかどうか。自分の行為のかじ取りを、諦念に任せきるでもなく、ハリボテで覆って美辞麗句を表面に書き連ねるでもなく、「ハンドルが異常に重い自転車をふらふら走らせていくように」、なんとかときどきは真ん中に戻そうと思って覚悟していけるかどうか。






秋に摘み取ったラベンダーをひとつかみ、乾燥させて、グラスに挿してキッチンの片隅に置いている。においはもうほとんどしないのだけれど、視界のかたすみに、日常生活ではほぼ目にすることのない青紫というアクセントがあることでぼくの脳がときおりウォッシュ・アウトされていく。そういうイレギュラーな刺激がぼくの性格をこのように組み立て続けてきたことはもはや疑いようがない。少しだけ疑う。けっこう疑う。疑ったあとで、ま、こちらにベットしてみるか、と、疑いを抱いたまま信じる自由を享受する。

2021年1月22日金曜日

病理の話(497) 菌がいるからといって悪さをしているとは限らない

大腸の粘膜を、小指の爪の切りカスくらいのサイズ、ちょっとはがしてとってくる。「生検」という。大腸カメラを入れて、カメラの先端部から小さなマジックハンドみたいな「鉗子(かんし)」を出して、つまみとるのだ。


それを顕微鏡でながめていると、たまに、粘膜の表面にモヤモヤっと、ねばねばがくっついているかのような違和感を覚えることがある。そこまで高頻度とは言えないが、ぼくの場合、年に複数回は経験する。


そのねばねばは単なる粘液であることも多いのだが、名状しがたい……心の側面を筆でちりちりなでられているような微細な違和に気づいたら、「Warthin-Starry染色」というのを行う。


すると、ねばねばのなかに、小さな菌糸が見えてくる。ブラキスピラと呼ばれる菌だ。




この菌が引き起こす腸管感染症を「腸管スピロヘータ」という。スピロヘータというと梅毒を思い浮かべる医学生もいるかもしれないが、梅毒の原因菌であるトレポネーマと、腸管にみられるブラキスピラとは別物である。どちらもスピロ……スパイラル……すなわちらせん状の構造をしているのでスピロヘータという「あだ名」がついているだけだ。

このあたり、感染症や微生物の専門家から怒られそう(ちょっと雑に説明している)。でも今日はこれくらいの解像度で語ることを許してほしい。




さて、患者に下痢などの症状があり、大腸カメラを入れて、粘膜をちょっととってきて、顕微鏡でみたらそこにブラキスピラがいた……となると、すぐに「ブラキスピラのせいで下痢をしたんだろう!」と言いたくなる。


しかし、そうとは限らない。


実はブラキスピラは、腸管の粘液性状が変わるだけでちょいちょいそこに住みつくのだ。たとえば、大腸の良性腫瘍(例:Sessile serrated lesion: SSL)の表面に偶然ブラキスピラがくっついているのを見ることがある。この場合、患者はべつに何の症状も呈していない。SSLという腫瘍(※腫瘍ではない、という立場の人もいるなかなか難しい病気)では、周囲の大腸粘膜と異なった粘液が放出されているようで、粘膜の環境が微妙に異なるのでブラキスピラが住みやすくなる……のではないかと個人的に考えている(※証明されていない)。



いったん何の話だよ、コメジルシとかカッコとか満載でようわからんわ、という人のためにたとえ話をしよう。




ある地区で犯罪が多発しているので、家をすべて立ち入り検査したら、両腕にがっちりイレズミを入れた坊主刈りのムキムキの男が現れた。さあ、彼が犯罪者と決めつけていいだろうか?


当たり前だがそうとは限らない。では、もうちょっといじわるなセッティングを考えてみる。


ある地区でとうとう、ガラスが割られて家が荒らされてしまった。その家の前に、さきほどのイレズミ坊主がたたずんでいた。さあ、彼が犯人だろうか?


ちょっとそうかもなーと思ってしまうぼくがいるが、もちろん、そうとは限らない。


「そこに悪そうなやつがいるからといってすぐに犯人と決めつけてはだめ」だろう。


ではさらにいやらしい状況を想像してもらいたい。


ある地区で立て続けに車のタイヤがパンクさせられた。警察が被害に遭った家を3軒続けて捜査しているとき、いつもそれを遠巻きにながめているイレズミ坊主がいた。


これならさすがに犯人だろうって?


いや、実は、イレズミ坊主さんは警察のファンであり、犯罪を研究する学者でもある。自分の住む地区で何かが起こると必ずかけつけて、その様子をメモして、あとで警察官や被害者にも話を聞いて、論文にまとめているだけなのだ。





……おわかり?


悪そうなやつがいるから事件が起こる、のではなく、


「事件が起こって騒然とすると現れる、悪そうな顔の人」というパターンもある、ということだ。





腸管におけるブラキスピラはもしかすると「腸が荒れると目に見えやすくなる」だけなのかもしれないのである。だからそこにブラキスピラがいるからといってすぐに「犯人」と決めつけてはならない。




……もっとも、実際に、そのブラキスピラを薬でやっつけると、腸炎が治ってしまうこともあって……話はさらに複雑になるのだけれど。

2021年1月21日木曜日

有言実行のこと

どこかで剛体になる。


その必要があると思っていた。ずっと長いこと。


若いころから思っていた。まずはやわらかく、何にでもなれるように、しかしいずれは、硬い土台となってその場に埋まって何かを支えなければいけないことになると。





常に変化し続けることがカギだ、とか言い出す人は多い。最近でいうと30代くらいのベンチャー社長とかが平気でこういうことを言う。


カギでもなんでもない。それは「普通」だ。世の中を見てほしい。コーヒーの中にクリープを注いでみてほしい。一瞬だって止まっていないだろう。「変わり続けるのは普通」なのだ。


「年を取ると考え方が硬直するから若いときの柔軟な考え方をだいじにしてほしい」とかよく言うよなーと思う。そういう人に限って先週と来週で150度くらい違うことを言って、若い部下を右往左往させている。





カギはもう少し複雑なのだ。難解でもある。


常に流動して変化し続ける中で、「たまに誰かがアンカーを打ち込めるような剛体となる覚悟」を決めること。


むしろこっちのほうがしんどくて、かつ、中年がやらなければいけないことなのではないか、と最近思うのだ。





「自分が変わり続けるために」系の論を張る人を見ていると、あまりに自分のことしか考えていないので逆におもしろくなってしまう。


こいつ映画とか見ないのか。マンガとか読まないのか。小説とかぜんぜん摂取してないのか。


「周りが変わっていくこと」だって立派に目標になるのに。ふたことめには基準が自分なのだ。五感の感応距離が2 mmくらいしかないのだろう。精神の排他的経済水域内でしか精神漁業をやっていない。


自分とまわりをすべて含めた世界がどう動き、変わっていって、その中で自分がどうあるのか、どう衝突してどう跳ね返っていくのか、それによって周りがさらにどのようになっていくのか。




たまに剛体になる。


そういう覚悟を読みたいし聞きたいのに。


弱い文章が多すぎる。


noteの投げ銭が自分の価値だと喜んでいる場合ではない。


しっかりしてほしい。何にでもなれる若い人たちのために。何かになった姿を見せる覚悟はどこにあるのだ。

2021年1月20日水曜日

病理の話(496) ハッとさせる主治医のひとこと

病理医が顕微鏡をみて細胞の性状を考えているとき、手元には……あるいはデスクトップには1枚の「依頼書」がある。


その細胞を採取した主治医が書いた文章。


病理医であるぼくに読ませようと思って、書いた文章。





たとえば、


「体下部小弯後壁 1材」


とだけ書かれた依頼書がある。体下部小弯後壁、というのは、胃の中の住所みたいなものだ。どこにも「胃」とは書いていないが、こう書いてあると「ああ、胃なんだな」ということはわかる。


小「弯」……本来は小「彎」と記載するが、面倒なので略字を用いられることも多い。

「1材」というのは、1個つまみました、くらいの意味だ。


「胃のこの場所から1個、粘膜をつまんできました。見てね」というわけである。無味乾燥だが必要十分でもある。




ときに、その文章の横っちょに、暗号みたいな図が手書きで描かれていることもある。たとえばこんな感じだ。














なんじゃこの貧相なタンポポは、と思われそうだが、矢印の先の部分を「切片①」として採取してきた、という意味がある。線が寄り集まっているのは、その中心に向かって「胃の粘膜がひきつれている」ことを示す。





仕事の文章というのは、「誤解なく伝える・伝わること」と共に、「文章を書くことに時間をとられてほかの仕事を圧迫しない程度に省略すること」が求められる。芸術性は必要ない。人間はどこまで記号化したやりとりで意図を共有できるのだろうかという命題を、毎日解いているようなところがある。日ごろから臨床医たちと会話をし、その医者がどういうタイミングで病理に検体を出したいかを把握していれば、子どもの落書きみたいな模式図からも伝わるものはある。





そういう文章が集まってくる中心点ではたらく。省略と記号の集合地に暮らす。だからこそ、病理医の書く文章だけは、逆に、なるべくわかりやすく丁寧でなければいけない。


中心から逆に辺縁に向かって送り返す文章は常に読みやすくしておく、必要以上の略称を用いない、むしろ、必要以上に略称を「ほどく」。「AIH」ではなく「自己免疫性肝炎 autoimmune hepatitis; AIH」と毎回記載する。「GIST」ではなく「Gastrointestinal stromal tumor; GIST」と毎回記載する。読み手の勘違いを防ぐためだ。この先何科の医者がみることになるかわからない病理診断報告書に、「これでわかるよね~」的な甘い略称を書いてはいけない。




丁寧さは一方通行である。臨床医には臨床医の事情とスピードがあり、病理医には病理医の立場とクオリティがある。基本的に、依頼書はシンプルで、報告書は細かい。





ただ、まれに、臨床医の書く依頼書が、妙に念入りなことがある。







「お世話になっております。●●を疑い○○から生検しました。造影CTでは□□なのですが、造影超音波ですと△△であり乖離がある点が気になっています。遠方からお越しの患者であり、併存疾患も多く早期の対応が求められます。大変恐縮ですが貴科的に御高診ください。」




こういう文章を読んだときに「ハッ」とする。いつものノリじゃない!





ここで脳にニトロを流し込めるか。本当にその一点に、病理診断医としての質の違いというか、患者に対して2秒早く対処できるかどうかの分水嶺があるというか……。




具体例を書けないんでこのへんにしとくけれど、病理医が救急医のようなスピードで電話をかけ、目にも留まらない速さで教科書をめくりながら顕微鏡をみて猛然と診断する現場は、年に3回くらいある。たった3回。その3回で「ハッ」とできるかどうか。あるいはぼくも、もっと優秀だったら、年に6回くらいは「ハッ」としているのかもしれないが。

2021年1月19日火曜日

正月のゲシュタルト

「正月のゲシュタルト」みたいなものがあるなあ、と感じていた。ただし今日は正月ではなく1月10日なのだが。誤差10日くらいなら許容されるであろう。


札幌に40年以上住んでいるぼくの感じる正月っぽい雰囲気というのはおそらく、「積雪+日差し+人の少なさ」から醸し出されている。家にいると窓の外からの日差しが、視覚的には強く、触覚的には弱く体感される。雲一つない晴天に、路上の雪からの照り返しが加わって、盛夏なみに明るくて思わず目を細めてしまうほどなのに、光自体の持つエネルギーが弱くて室内はまるで暖まらない。さらに田舎の正月というのは人間がだいたい引きこもっているので車の音がせず、排気ガスも漂わず、お年玉の計算に余念がない子供たちは家にいて、外から音が一切聞こえてこない。


視覚:超明るい

聴覚:何も聞こえない

触覚:寒い

嗅覚:冷えた鼻の孔を通る冷たさで誤認するミント感

味覚:朝に食べたきなこ餅のなごり

第六覚:先祖の霊


だいたいこんなとこだろう。今日は正月でなく1月10日、北陸では豪雪に何万人もの人々が悩まされ、東京では感染症への恐怖がじわりと高まっており、ツイッターには尊いマンガが並んでいてぼくは『めしにしましょう』を布団の中で読んでいる。窓の外からは目に痛いほどの光が飛び込んでくるのに部屋はいっこうに暖まらない。看護学校の試験の答案を採点しなければいけないのだ。こんなことをしている場合ではないのだ。

2021年1月18日月曜日

病理の話(495) 三次元の力を一瞬借りる

顕微鏡で細胞を観察するときのプレパラートは、「ペラッペラ」である。


なぜなら、顕微鏡というのは「細胞に下から光をあてて、上からその光を観察する」からだ。透過光を見る。イメージとしてはセロファンだとか、ステンドグラスを見ているようなものに近い。


下から光をあてて細胞を観察しようと思うと、「スケ」が大事だ。


このため、組織を4~5 μm(マイクロメートル=ミリメートルの1000分の1)という、「極うす」にする。ま、実際には10 μmくらいで細胞のおおまかな構造はわかるのだが、細胞内にある「核」までちゃんと見ようと思うと、10 μmでもまだ分厚く感じる。


これほど薄い厚さに組織をカットするには、カンナのおばけみたいな装置を用いて、


”めっちゃテクいかつらむき”


をする必要がある。びしびしこなしていく臨床検査技師はいつ見てもすごいなと思う。YouTube動画にしたら2万再生くらいは行くだろう。


というか、ちょっと検索してみよう。あるかな。


あった。



https://www.youtube.com/watch?v=5Kvf8XeerPs



ペラッペラだよね。そして思ったより「試し切りを何度も何度もやって表層のあたりを無駄にしている」ということも伝わると思う。




さて、このペラッペラな細胞を観察して、ぼくら病理医は細胞の正体を推測していくわけだが。


ペラッペラすぎて細胞の性状が読めなくなる場合が、まれにある。


実は、細胞というのは、顔付きを見るだけではなく、そのふるまい……正確には「隣同士にある細胞との位置関係」を見ることがけっこう大切なのだ。


細胞は、その種類によって、「ジグソーパズルみたいに平面を埋め尽くして増えていく」場合や、「盛った髪の毛のようにモコモコうねうねと折り重なって厚みを増しながら増えていく」場合などがある。個別、ばらばら、一匹狼っぽく散らばっていることもあれば、混雑しているラーメン屋に並ぶ人々のようにちょっと押し合いへし合いしながら一列に並んでいることもある。


このような位置関係を、「ペラッペラの断面」だけで判定するのはけっこう難しい。




そこで病理医がしばしば用いる方法に、「細胞診(さいぼうしん)」がある。えっ、細胞を診断? それって病理医のやってることそのものでしょう? と勘違いしそうだが、ペラッペラの細胞に色を付けて観察するいつものやり方は「組織診(そしきしん)」なのだ。これらはちょっと違う。


細胞診では、細胞を「ペラッペラに切らない」。


じゃあどうやって透過光で観察するのかって?


組織の見たい部分を、ガラスにぴとっとおしつけて、そのガラスに「くっついてきたやつ」だけを見るのだ。


さあ、想像してほしい。ここに北海道産の筋子(すじこ)があります。


筋子のしょうゆ漬けです。おいしいよ。


これがどんぶりにたっぷり。


そこにガラスをもってきて、ぴと! とつけます。すかさずガラスを持ち上げる。


筋子はスジでくっついてるから、一個一個はくっつかないんだけど、筋子のスジの部分をうまく調理しているとやわらかくなって、数個まとまった「小さな筋子のかたまり」が、ガラスにねばっとくっついてくることがある……。




これを透過光で観察するのが「細胞診」だ。ペラッペラの薄切り過程を経ない分、ガラスの上で多少、上下に重なったり、盛られたりしている。


つまりは断面ではなく、三次元構造が垣間見える。




もうひとつ例をあげましょう。筋子じゃなくてイクラを使う。こちらも同じ魚卵だけど、筋子とは違って、スジから魚卵をはずしてあるので、一粒一粒がばらばらになっている。しょうゆ漬けがうまいよ。


イクラを山盛りにしたどんぶりの上にガラスをぴと。




すると今度は? 筋子とは違って? 魚卵ひとつひとつが、ばらばらにねばねばガラスにくっつくでしょう。




それを顕微鏡でみる。ほら、筋子とは、「くっつき方が違う」ことがわかるじゃん。




もっとキワい例をあげよう。


筋子のおにぎりと、イクラのおにぎりを、ならべて置いて、ルパン三世に出てくる石川五エ門に、斬鉄剣で切ってもらう。タァーッ


で、断面を見る。断面だけ見て、「どちらが筋子でしょうかクイズ」をやる。これ、けっこう難しいと思うんだよな。


筋子とイクラの違いって、色とか形というよりも、「スジでくっついてるかどうか」ですよね。


だからタァーッって切っちゃうとかえってわからなかったりするのよ。まあピンとくるものはあるんだけど。


そこで、筋子 or イクラを見極めるときは、むしろおにぎりを雑に手で割って、そこにぴとっとスプーンをくっつけて、持ち上げてみればいいわけだよ。


魚卵1個がくっついてきたらイクラじゃん。





おなかがすいてきたのでこれくらいにするけれど、ペラッペラ細胞断面という「二次元の世界」で診断している病理医は、たまに、細胞診(さいぼうしん)という「ミクロの三次元診断」を用いることがある、ってことでした。イクラと筋子どっちがすき? ぼくはコレステロールが少し高めなので玄米のおかかおにぎりが好きです。

2021年1月15日金曜日

サビーナ

夜明け前に車のエンジンをかけて出発する際に、うっかり何の対策もとらずにワイパーを動かしてしまうと、窓にがっちり凍り付いてしまったワイパーが、有声音で悲鳴をあげる。運が悪いとワイパーのゴムがちぎれたり根元のギアがかけたりしてしまう。


夜中の間に降った雪が、帰宅後しばらく熱をもっている車内によっていったん溶かされて、それから再び凍り付く。だから、早朝はまず窓の氷を落とさないといけない。デッキブラシの甥っ子みたいなスノーブラシを使ってガリガリと窓を削る。フロントガラスの遠いところをしっかり削っていると、知らないうちに車の側面にコートが触れていて、雪がべっとり、なんてこともしばしばだ。


それが札幌の冬。


ただし、所詮は札幌の冬でしかない。





札幌の冬でマイナス10度を下回るということは、実はあまり多くない。上記の車に関するトラブルはせいぜい最低気温がマイナス5度くらいの時期に頻発する。ただし、北海道の内陸ほどではないにしろ、札幌でも強烈な寒波がくると夜間や早朝にマイナス12度くらいまで気温が落ち込むことはあって、そういう日は、少々状況が変わる。





朝、家から出ると、空気がやたらと澄んでいて、遠くの信号まではっきりと見通せる。ああ、厳冬期だ、と視神経が記憶を掘り返してくれる。気温がとことん下がると大気に含まれる水分量も減り、透明度が上がる。ほとんどの人が気づく。ああ、われわれは、普段は水の中で生きていたのだ、と。


「温痛覚」という言葉を思い出す。この場合、「冷痛覚」と呼ぶべきかもしれない。寒さは痛さと区別が付かなくなり、手袋なしで金属に触ると皮がはげるのではないか、という、経験した覚えはないはずなのだが経験し終わっているかのような、遠い記憶に悩まされる。


そして車のフロントガラスに積もった雪を削る必要が無い。ワイパーを一閃させればすべて吹き飛んでいくようになる。凍り付いていないのだ。なぜなら、昨晩帰宅してエンジンを切ったあと、車内の室温は急速に低下して、ガラスに残った余熱もほどなくしてなくなり、夜間に降った粉雪がサラサラのまま、一切固着せずにガラスに乗っているだけになるからだ。パウダースノーってこれか、と、スキー場以外で感じられるようになる。


サイドのガラス4枚についた雪を落とすのにも、スノーブラシを使う必要はない。車のドアを開けてしめればいい。「バタン!」ですべて落ちる。




やたらときらきらひかる、信号と朝焼けの中を職場に向かう。路面は凍結しているのだが、水気がほとんどなくなっているせいか、織田裕二が昔CMで言っていた「氷じゃなくて水で滑るんだ~」の言葉の逆、すなわち、日ごろよりも滑らなくなっているように感じる。もちろんそろそろと走らせる。でもどうせこの時間、ほとんど車は通っていないのだけれど。


車内のエアコンが温風を吐き出すまでの時間が長く感じる。自分の吐いた息で視界が曇らないように気を付ける。




職場の駐車場に着くと珍しい光景を目にした。



前日に誰かの車の下にはえた「つらら」が、車が帰った後も地面とつながっている。

持ち主が仕事を終えて帰宅するときに、たまたまうまく車とつららが分離して、つららだけが地面に突き刺さったまま残った、といったところだろう。

こんな風景、そうそうみるものではない。よく車にひかれて粉々にならなかったものだ。




北海道では「マイナス」という言葉が省略される、という話がある。若い人の間ではあまり聞かない。しかし、釧路や根室、網走、そして北見といった酷寒地域に住む友人は今でも「冬は20度超えてからが本番だよな」みたいな言い方をする。


ぼくがつらつら書いてきたのも、所詮は「10度の世界」の話だ。


まだまだ、「冷えには冷えがある」。もっと清浄な世界に生きている人たちもいる。ぬくぬくと記事を書いているぼくは平和である。

2021年1月14日木曜日

病理の話(494) 極意

病理医にもいろんな人がいて、個性というか振れ幅が存在する。特に、SNSだと極端な例ばかりが目につくので、一般の方々に対する病理医の印象も、わりと極端になる。

……それをお前が言うのかよ(笑)、と言われそうだが……。



なぜSNSでは極端な例ばかりが目につくのか?



それは、多くの人間が、「いつもと違うものを見たときに言葉にしたくなる」からだと思う。このとき、言葉にするというのはツイートするという意味だけではなくて、リツイートやいいねをすることも含める。

平凡、日常、よくあること、平均的なこと、些細なことは、いちいち言葉にしないし、人に見せようとも思わない。





しかし、医療をやっていると、さらには病理診断をやっていると、この「いつも目にするもの」をきちんと言語化し、「些細な違和感」にすぐ気づけるようにしておくことが、とても大事だなと思う。




たとえば、「圧倒的に貧血の人」の検査データなんてものは、医学生でもすぐに解釈できる。

「あっ赤血球がぜんぜん足りないぞ、ヘモグロビンの値もおかしい、UNが高値だ、これはきっと消化管から出血してるんじゃないか!」

てな感じだ。

「突き抜けた異常」は判断がしやすいので、悩まない。何がどう異常なのかと細かく説明するには知識が必要だけれど、「おかしい!」ということ自体にはすぐ気づける。




一方で、「特に病気がない人でもよく目にする程度の、ごく軽度の異常」を示す検査データの解釈はとても難しい。

「好塩基球だけが微増している、ごく軽度に貧血の人」

を目にしたときに「あれっ」と思えるかどうか。むしろこっちに知恵と経験が必要だ。

「白血球の総量が増えていないし、分画も好塩基球以外はほとんど狂ってない……というかほぼ正常範囲……だけどよく見ると好塩基球以外もいつも目にする比率とは微妙に違うな……? これ、造血機能に何か異常があるのかな……?」

このような観点で「ヒントをひっかけて」、「深く思考するためのフタをあける」。これができるかどうかが、鋭い診断(あるいは治療)の役に立つ場合が、年に数回ある。




(※なお上記の好塩基球の例はあくまで「例」であって実際の症例を元にしたものではありません。というか実際にはもっと数多くのパラメータを同時に見ないと判断できない)




病理診断でもそういうことがある。

普段みている大腸粘膜と何か違うな……

いつもの肝生検と違ってぼくが一瞬顕微鏡を動かすのを止めてしまうのはなぜだろう……

がんはない……がんはないのに、なぜこの胃粘膜、おかしいと思うのだろう……




これは、「異常な細胞があるとわかったあとに、その細胞がAなのかBなのかを決める」のととはそもそも思考のタイプが異なる。

異常があるかどうかまだわからない段階。

あきらかな異常とは言えないんだけど、「ひっかけておく」とあとあと患者や医者にいいことがある、という段階。

この時点での診断制度を高めるために必要なのは、異常Aや異常Bの形を丸暗記するタイプの勉強ではなく、「正常の振れ幅」を取得するタイプの勉強だ。どうしても経験が要る。




そして、みんながみんな、全ての臓器に対して十分に経験することはできないからこそ、「やや言語化するのが難しいが、ぎりぎり言語化できてしまう、職能に応じたテクニック」というものが存在する。ブログだと書き切れないけれど、あえてひとことで言うと……。




「臨床医と仲よくして、常に他者の経験を外挿できる状態を保ちつつ、毎日丹念に顕微鏡を見る」



これしかないんだよな。まじで。

2021年1月13日水曜日

やわらか戦車ってあったな

「年を取ったらはじめようと思っていた趣味をいざはじめてみたら、さまざまなトラブルにあって続けられなかった」みたいな話をたまに目にする。


退職後に、録りためておいた映画をゆっくり見ようと思ったが、長時間座っているのが苦痛でなかなか集中できないとか。


たくさん読書をしようと思っていたけれど、目が悪くなっていてあまり読めないだとか。


運動に励もうと思っていたが、股関節や膝をいためていてあまり走れないとか。


もちろん、年をとったらなんでもできなくなるわけではない。そこは「自分の体のベテラン」だけあって、いろいろうまくやりすごして、結局なんとかしてしまう人も多い。


ただ、「できると思っていたらできなかった」で心を折ってしまう人がいることもまた事実である。




最近なんとなく思うのだが、「理想でいうとこれをやりたいが、いろいろ大変なので、代替手段を用いてなんとなく近似的にどうにかする」という一連の行動には、ある種の特殊な体力が必要なのではないか?


やりすごす力。


8割、あるいは6割でよしとする力。


鈍感力とかスルースキルといったものとも少し違う、「代替力」みたいなものがそこで求められる気がする。


この力は育てるものというより、「自分の中にそういう力があることを認める」ことからはじめるものだろう。人間の脳って、本質的にはけっこう代替手段をとれるものだ。なぜならば思考の視野角は本来そこそこ広いからだ。「which」に相当する言葉はどんな言語にもたいてい存在するという。目的地にたどり着くために一本道しか見えないということはない。


ただし、何か、性格というか、気質というか、「こうと決めたらこの道だ」と自分で自分の可能性を狭めることに快感をおぼえるタイプのキャラがいることも事実。そういう人たちは、ひとつの道がふさがると途端に機嫌を悪くする。




年を取って歯が弱って、それまで食べられていた好物があまり食べられなくなったときに、「いや、別にやわらかいものでもおいしく食べられるよ」とか、「今度はこちらを好きになればいいじゃないか」と、気持ちを切り替えていけるタイプの人に、生きるための底力があるなあと感じる。


ぼくはそういう「いなし方」にあこがれている。もう、だいぶ長いこと。


ここで話が変わるようで実は変わらない、ぼくは「自分が組織のトップになったら、とにかくいろいろいなしていこう」と、ずっと思っていた。若いときにはできないことだとほのかに感じていた。上がいると気を遣うからなのかもしれない。老いを見据えるのにそれくらい準備が必要だったのかもしれない。今、近づいて来た老いを見て、体幹のしなやかさのようなものを準備する気になっている。ぼくはこれと決めた道にこだわりすぎないことが今後自分の性格と付き合う上で何かのカギになるのではないかと予想している。

2021年1月12日火曜日

病理の話(493) 豚バラ実験顛末記

一般にモウチョウと呼ばれている病気……「虫垂炎」というのがある。

おなかの右の下あたりにある虫垂という「しょぼいぶらさがり」(ただし機能がないわけではない)の部分で炎症が起こり、痛む。

ほうっておくと炎症を起こした虫垂が破れてしまい、内容物……つまりウンコ……がおなかの中にばらまかれてしまって激しい炎症を起こすので、医者は虫垂炎かなと思ったら「画像診断」を用いて、虫垂がいまにもやぶれそうなのか、それともまだけっこうぴんぴんしているのかを判断する。

このとき、CTを使ってもいいが、エコー(超音波検査)がけっこう便利である。エコーけっこう。



エコーは、T字型のプローブ(探触子)をおなかにあてる。イメージとしては超ちっせえクイックルワイパーをおなかにべとっと当ててる感じだ。違うけど。クイックルワイパーの先端のひらべったいところから超音波が出る。超音波は別に体に悪い影響を及ぼさない(所詮は音だ)。ただし眼球には当てないほうがいいと言われている。眼球もろいからね。

超音波がおなかの中を進むといろいろな物質、あるいは物質と物質が接する部分で散乱や反射、屈折などを起こす。このうちうまいことクイックルワイパーのほうにモドッテクルオンパー(戻ってくる音波)だけを、プローブが受け止めて画像をつくる。

で、モニタには、基本的に白黒の画像がうつる。



虫垂というひょろい構造物は、うまく描出できるとモニタの中でも細長くうつる。で、この虫垂に激しく炎症が起こって、虫垂のまわりにある脂肪の中に炎症が及ぶと、周囲の脂肪の部分が「白っぽくぼやあっと目立つようになる」。



エコーをあてて、虫垂の周りの脂肪がぼやあっとなっていたら「やばい」。炎症がけっこう激しいなーと判断する。まあほかにも判断の方法はいっぱいあるんだけど、今日はこの「ぼやあっ」の話をしている。



なんで炎症がおこると脂肪の部分の超音波画像が「ぼやあっ」と変化するのか?


「それは、炎症によって、周囲の血管から水がしみ出てきて、脂肪細胞のあいだに入り込むからだ」とぼくは教わった。

昔のぼくは、この時点でちんぷんかんぷんであった。

読んでいるみなさんもちんぷんかんぷんかもしれないがもう少し付き合ってほしい。もうすぐわかる。




ここで、脂肪がイメージできないとめんどうなので、ラーメンどんぶりのスープの表面にういた泡を思い出してほしい。あのプルンプルンの円形の油膜が、球状になってぎっしり詰まった状態。これが腹部の脂肪のイメージそのものである。

球状のアブラがぎっしり詰まっているのが、「炎症のないときの脂肪」。

炎症によって水気が増えると、ラーメンどんぶりの脂肪プルンプルンの間に水が流れ込む。

「脂肪と脂肪の距離が開く」




これが超音波の画像を変化させるのだと教わった。ほかにもいっぱい理論があるけど今日は置く。




で、ぼくはこの、「水気が脂肪の間に入り込むと超音波画像のぼやあっが出る」というのがよくわからなかったので、かつて、ある技師さんと協力して実験をしたのだ。




豚のバラ肉を買ってきて、バラ肉の脂肪の部分に、注射器で水を入れる。



そのバラ肉を超音波で見る。すると、水を注射した部分だけ、エコー画像が「ぼやあっ」とするのだ。


バラ肉だぞ? 生きている人間に注射したわけではない。生体反応が一切ないはずなのだから、この水がやはり「ぼやああっ」の正体だということはわかる。



で、次に、注射器で入れる水を、墨汁に変えてみた。



水を入れたときとまったく同じように、墨汁を入れてもやっぱり、エコー画像は「ぼやあっ」となる。


ただし墨汁のあとはもう少しいいことがある。豚のバラ肉を病理検査技師さんにお願いしてプレパラートにしてもらい、そのプレパラートを顕微鏡で見ると、脂肪細胞と脂肪細胞の間に墨汁が入り込んでいることがはっきりわかった。






と、まあ、こういうことは、別にぼくが実験なぞせずとも、すでに(理論が)教科書に書いてあることではあるのだが……。

実際に豚バラ肉に注射してプレパラートまで作った人はいなかったので、これを実際にやってみることで、多くの人に「なぜ虫垂炎のときに周囲の脂肪がぼやあっとするのか」を説明しやすくなった。





豚のバラ肉をプレパラートにしてくれた技師さんには、あとで六花亭のお菓子をあげた。安いくらいだなとは思った。





※以上の内容は下記の論文の一部で使っている内容とおなじです。


2021年1月8日金曜日

読後雑感

正月休みはほぼ暦通りだった。初詣も外食ももちろんできなかったので、よく本を読んだ。


これじゃあいつもと変わり映えがしなさすぎてちょっとなーと思い、「はじめて買うマンガ」を2冊ほど入れてみた。SPY×FAMILYと怪獣8号である。おもしろかった。


あとジャイキリの57巻を読んだ。安定。いつ終わるんだこの漫画。まあいいが。


ワンピースは2か月くらいかけて71巻までたどり着いた。ワンピースは1年に1度くらい、1巻から通読するようにしているのだが、読み通すのに数か月かかってしまう。寝る前に2巻ずつ読んだとしても50日弱かかってしまうのだからしょうがない。


医学書で積み本になっていたものをあらかた読み終えた。雑誌系を4つ、成書を3冊。グリコカリックスの本は内容がおもしろかったが文章はとてもへただなと思った。へたというか、これはむしろ、「一般向けではない(研究者向けである)」ということなのだろう。「文章がへたなのに内容がおもしろい」、これ以上に何を求めろというのか?


数年来ぼくをブロックしてことあるごとに罵詈雑言をつぶやいている某氏の出した本も読んだ。内容はよかった。一度はTwitterで「この本はいいですよ」とツイートもした。しかし、ちょっと思うところあって再読し、「言葉の端々に違和がある」ことが気になった。これもある意味、「言葉がへただが内容はおもしろい」という本なのである。


哲学、宗教と科学の本を6冊。うち4冊は再読である。新しく読んだ2冊のうち1冊は、目の付け所がよく、理路がやや薄く、言葉遣いが軽率な部分がときおり目についた。うーん、またか。






そういう流れ、ほかにもジャンルがあれといいづらい本を数冊読んで、全部で結局何冊読んだのかよくわからない、ほかにほぼ日のアーカイブなども読んでいたが、この正月を振り返ってみて思うことは、


「考えている方向はおもしろいのだけれど媒介する言葉が微妙」


な本をけっこう読んでしまった、ということだ。贅沢な悩みではある。そして、わが身に振り返って考えておく。




正月休みの最後にはボルヘスの文庫本を3冊読んだ。どれもよかったが今のぼくではまだ歯が立たない部分がけっこうある。本棚に挿して、いずれまた手に取りたい。そういえば正月休みに入る前に読んだ『翻訳のストラテジー』(白水社)も大変よかった。あれもめくるめく言葉の世界に歯が立たなかったが恍惚とした。





蛇足だが、鬼滅の刃のマンガは、考えている方向はわりとよくあるのだが媒介する言葉が素晴らしいのである。




2021年1月7日木曜日

病理の話(492) ヘパラン硫酸プロテオグリカンの免疫染色用抗体を買って試して失敗したことがあります

人間の体をつくる「細胞」は、タンパク質でできている。


タンパク質というのは、わかったようでわからない言葉なのだけれど、個人的には「レゴのカタマリ」として認識してほしい。レゴブロックひとつひとつをアミノ酸という。アミノ酸レゴブロックはぜんぶで20種類あって、これらを組み合わせて、おうちとかお城とか、消防車とかパトカーとか、ダースベーダーの乗っているアレとかを作ることができる。作り上げた構造物がタンパク質。タンパク質をさらに複雑に組み上げることで細胞ができていく……。


と、このあたりは最近の高校生くらいが学校で習うようになった。


で、このタンパク質はだいぶ細かく研究されているのだが、今はさらに話がマニアックになっていて、「タンパク質の表面に張り付けるシール」の部分に注目が集まっていたりする。




レゴブロックのでかいやつをゴリゴリ作ったことがある人は、たまーに、レゴの表面に「目」とか「紋章」などのシールを貼ることがある。レゴだけでは細かな模様が作りきれないわけで、そういうときにシールの力を借りる。


レゴの例えをやめてガンダムのプラモ(ガンプラ)の例えにしたほうがわかりやすいかな? ああいうのって、けっこう、作り上げたあとに、シール貼るよね。




で、アミノ酸を組み上げて作ったタンパク、そのタンパクを組み上げて作った細胞にも、実は多数のシール、もしくはタトゥー、さらには吸盤、もしくは……カビ? 表面に生えるカビ的な? そういう、「プラスアルファ」がいっぱいくっついているのだ。


プラスアルファには本当にさまざまなものがあるのだが、最近ぼくが読んだ本で取り上げられていたのは、「糖衣」。


「正露丸糖衣A」というのを聞いたことがある人がいるかもしれない。あれはクソまずい正露丸の周りをお砂糖でくるんでいるという文字通りの「糖衣」なのだけれど、細胞の周りをとりまくのは単なるお砂糖ではなくて……


糖脂質、あるいは糖タンパクと呼ばれる、「タンパクを修飾する、非タンパク的なにか」なのである。




この糖衣の部分が生体においてけっこういろんな役割を果たしているらしい、ということをこの15年くらい激しく研究している人がいて、ぼくもそういう人たちの存在はよく知っていた。なんなら、病理検査室で、この糖衣の部分に着目して、何かいい検索ができないかと試したことがある。


……ところがこのシール部分の解析が……、難しい!!!




イメージでいうと。レゴを手に取って調べているうちにシールがはがれてしまうというか。


シールがレゴブロックより圧倒的に小さくて薄いから、普通の検索方法では歯が立たないというか。




で、ぼくは結局、7年くらい前に、通常の病理検査室がやれるやり方で、一部のグリコカリックス……「糖衣」を研究するのをあきらめてしまったのだけれど。


世界にはそういう難しい世界でめちゃくちゃがんばっている人たちがいて、そういう人たちの書いた本などを読んでいると、「おおおおーあの難しいことをよくやるなあ……」と、感心してしまうのである。



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2021年1月6日水曜日

強い言葉を使うだけ

SNSでは「強い言葉を使う」と、だいたい届く……いや、届いたようにみえる。なぜなら、いいねがいっぱいつくからだ。


でも本当は届いていない。


そのことをわかっておく必要がある。





ときおり思い出す。


「ぼくはたいていのツイートにいいねをつけず、RTもしていない」という事実。


では、ぼくがいいねやRTをつけないとき、ぼくに何も届いていないのかと言ったら、そんなことはない。断じてない。


ぼくは、いいねを付けずに大量の情報を受け取っている。


「いいねを付けていないけれど、心に残ったもの」というのが死ぬほどある。






サッカーのワールドカップ予選、あるいはM-1のテレビ放送、鬼滅、ジブリ、新海誠など、世間を確実に賑わせるテレビ番組が放送されるとき、タイムラインに無数のツイートがあふれかえる。


「堂安すげぇー」


「マジラブあれ漫才なのかよww」


「チッキショー(森七菜の真似)」


こういったツイートは番組に呼応し、世間で同時多発的に、狭い時間帯にドッとあふれてくる。ぼくはトレンドの濁流の、中州の部分に立って、左右を見回し、流れていくものをぼうっと見る。


ひとつひとつにいいねなんてつけない。


「ああ、世間は今こうやって盛り上がっているなあ、の場」に、だまってたたずむ。


そうするのがいちばん楽しい、というか、自然とそうしてしまっている。


黙っているのに飽きたら、ときおりいいねやRTをつけて、「口を開く」ことはある。


でも、ほとんどは、口を閉じている。SNSを使っている時間の8割方、「何もしゃべっていないし、いいねもつけていない」。





トレンドを感じるために、誰かとやりとりする必要はない。


誰かの思いに共感を表明しなくたっていい。


日本代表をみんなが応援している感覚、松本人志の採点にぎょっとする感覚、「今から晴れるよ」をハモりたい感覚、そういったものを、傍観者として眺めていたいだけ。


空気を感じていたいだけ。






それまでの自分と大きく違う意見を見てびっくりしたとき、それを吸収したいと思う人は「いいね」をつける。感動した、泣いた、笑った、あるいは逆に、怒った、あきれた、そういったときに、「いいね」や「引用RT」などで思わず反応する。――そういう使い方ばかりがもてはやされる。


なぜなら、企業は、宣伝をしたい人は、成り上がりたい人は、「いいねが付けば付くほど価値がある世界」で話を進めたいからだ。ぼくらはみな、「いいねを付けたほうがいいよ」「RTで広めてあげてくださいね」という文脈の中に、腰まで浸かっている。


でも、ほんとうは、いいねやRTよりもはるかに、ぼくの心にダイレクトに作用するタイプの「Twitterの使い方」がある。地味で、日ごろはあまり気にしないのだけれど。


それが、「黙ってぼうっと見ている」というスタイルだ。


世界と自分が一瞬でも同期しているなと感じるときの独特の安心感は、いいねを介する必要がない。


「ああ、あちこちでみんながつぶやいているなあ」の気持ちがぼくを安心させることがある。


雰囲気。空気。


そういったものに、SNSの特殊な「伝達能力」がひそんでいる。






「強い言葉」は、いいねやRTを呼ぶための技術だ。


いいねをつけ、RTで拡散をして、……その結果、多くの人に届くよと、誰もが錯覚している。


いいねの数も、RTの数も、「ある情報が距離をまたいだ」ことの証明にはなるが、「人の心に、空気としてしみこんだ」ことを表してはいない。


強い言葉は心を貫通していく。傷を付け、痕を残す。


ただそれだけのことだ。




SNSでは「強い言葉を使う」と、だいたい届く……いや、届いたようにみえる。なぜなら、いいねがいっぱいつくからだ。


でも本当は届いていない。


そのことをわかっておく必要がある。


Twitterでぼくらが……いや、ぼくが、本当に受け取っているのは、ぼんやりとした時代の空気のほうだ。


「どの言葉が記憶に残ったか、と言われると、いや、具体的にはぜんぜん思い付かないんだけど、なんとなく、なんとなくだよ、あのあたりをフォローしておくと、いいんじゃないかなーとは、じわっと感じている」


誰かにとっての、そういう存在を目指すために、「強い言葉」は害にしかならない。





詩集を編むような気持ちこそが、必要なのかもな、と思う。

2021年1月5日火曜日

病理の話(491) 病気の知識だけあってもだめというテーマ

2020年12月25日に発売となった、『アフタヌーン』誌(2021年2月号)に掲載されている『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』がエグい。


コミックスでいうと19巻がこないだ発売されたばかりだが、最新回はちょうど「19巻のすぐ次」にあたる。つまり、コミックス派もここから雑誌を買えば追いつくことができる。ぜひ追いついてもらいたい。アフタヌーンは今大変アツイぞ。ブルーピリオドもスキップとローファーもいいし、マジオペ(マージナルオペレーション)はもうすぐ最終回らしいが、ワンダンスがあればさみしさにも耐えられる。地味に「友達として大好き」もすばらしいと思う……


いや違った、今日は病理の話だ。フラジャイル最新話の何がエグいかを語る。ネタバレはしないので安心して欲しい。




このマンガは簡単に言うと病理医……という珍奇な職業を通じて医療現場のさまざまなもろさ、弱さ、ゆがみなどを描き出す物語である。病理医が主人公だからといって、ヒーローがエースでチャンピオンでスマイルプリキュアとはならないのが特徴だ。正義をまっすぐ書かない。ご都合主義の解決を描かない。大人の極上嗜好品であり講談社漫画賞受賞作でもある。

作画がうますぎて多くの人の目に触れる。するとときには変なリアクションも集める。

「なんでこの主人公はこんな行動をしたんだ!」

「あのマンガに出てきた例の医者の発言はやばいぞ!」

などと、かつてネットの片隅でナンクセを付けていた人もいた。そういう人たちは文学を読んだことがないのかなと疑問に思う。太宰治の人間失格を読んで「もっときちんとしろ」と言うようなものだ。「フラジャイル=脆弱。取扱注意」というタイトルを見て、何も考え付かないのだろうか? 物語を脳内で楽しく摂取できない人のことを哀れむ。


話を戻すが、『フラジャイル』は、病理医のマンガだからと言って病理医のことを大絶賛して、病理医の職能ばかりにクローズアップしていくわけでもないのが潔い。


そして最新話である。ぼくが今までひそかにずーーーーーーーっと考えていた、「医療系マンガで一番描くのが難しいであろう機微」を扱っているのでぼくはびっくりした。

何かというと。



「病気の知識だけあってもだめ



という「テーマ」(≒真実)である。



病理医マンガでこれを描くというのは原作が(いい意味で)狂っている。すさまじい洞察の末に書かれた脚本だ。ぼくは身震いをした。




医者は実際には「手技」を行わなければいけない。「処置」でもいい。考えるだけではなく体を動かす必要がある仕事だ。判断をしながら行動もしなければいけない。書いてみると当たり前のことである。「頭だけよくたってだめなんだよ」みたいなセリフをあなたも聞いたことがあるだろう。「机上の空論じゃだめだよね」なんて、自分でも言ったことがあるかもしれない。

……おわかりだろうか。

「聞いたことがある」し、「言ったこともある」テーマを、マンガが描くとき、そこにあるのは基本的に、既視感とマンネリになるはずである。

なのに、『フラジャイル』は、それを描くことを選んだ。



実際この「医者は体を動かしてなんぼだ」というテーマは、描けば描くほど陳腐になりかねない、トラップのような題材だと感じている。それには理由がいくつかある。



医者の手が異常に器用で手術がめちゃくちゃうまいとか、医者の判断が早くて一刻一秒を争う場面で正しい手技が施されるみたいな展開は、あらゆる過去のエンタメでコスられすぎており、目新しさが一切ない。「ピアニストみたいに手が動くぞ、あの医者」はブラックジャックがとっくに全部描いてしまった。「気胸だ!ボールペンドス――!」は救命病棟24時で江口洋介がなぜか海岸を舞台にやって以降描かれなくなった。「ペロ……これは……青酸カリ!」はコナン君の名を一躍スターダムにのし上げて(?)、かつ危ないのでやってはいけません。



逆に、そういう「言われすぎて来た医療のテーマ」を、病理医というキテレツな狂言回しを通じてディストーションをかけながら描写してきたのが『フラジャイル』なのである。「考えることしかしない職業人」が病院の中にいることが「めずらしくて、おもしろい」というのがこのマンガの根幹に(望むと望まざるとにかかわらず)ある。


しかしとうとう最新話ではこの魔窟に踏み込んだ感がある。さあここからどうなるのか。



「『病気の知識だけあってもだめ』という程度の認識で医療を見ているやつはぜんぜんだめ」みたいなテーマに逆転させるつもりか?


いや……そんなのもうフラジャイルの読者だったら予想できてしまう。「結局最後は岸先生の頭脳が、行動派の英雄気取りの若い医者を尻拭いするんでしょ」みたいなこと、ここまで読んできた読者なら多かれ少なかれ予想はしているのだ。


でもその予想を裏切り、期待を裏切らずにここまでやってきたのが『フラジャイル』というマンガの凄みなのである。


相次ぐ製薬会社編、緩和ケア、ソフトランディング型の死、医療訴訟、そしてがんとその家族といった、誰もが問題だとは知っていて幾度となく描いてきたけれども結局たいてい陳腐化してしまったテーマを、


・熱意はあるし有能なんだけどぎりぎりのところで能力が足りない医者


や、


・じっくり考えればもっとよい策を思い付くんだろうけれど妙にリアルな時間設定の中で絶妙に結果的に間違った選択をしてしまう医者


や、


・現実的に逃げ道を用意していてどうやっても断罪できないような周到さを備えている悪い小者


などの、普通描けないだろってくらい設定の深いキャラを複数、全開で動かすことで、余人には考え付かないような展開とスペクタクルを展開してきた『フラジャイル』である。




「病気の知識だけあってもだめ」というテーマをこの先どう扱っていくのか……本当に楽しみで仕方ない。20巻早く出ないかなあ。19巻のおまけマンガ読んで号泣したからな。もはやぼくは宮崎の親である。

2021年1月4日月曜日

そういう仕組みになっている

ノートPCにBluetoothで外付けキーボードを接続し、モニタから顔をなるべく話して、椅子の背もたれに背中をきっちりあずけた後傾姿勢でキータッチをする。そうしないとぼくのストレートネックは頭蓋の重さを支えられなくて、左腕に頚椎症のしびれが出る。頸椎の角度を意識して自分の姿勢をコントロールすることで、ようやく長時間文章を打てる体を取り戻した。20代のときにはこんなこと考えもしなかった。


ここ数年はこの「キーボードを引き離すスタイル」でやっている。


今こうして実際に打ち込んでいる外付けのキーボードをじっくり眺めてみると、PCに並行には置かれていないことに気づく。振り返ってみれば、右か左、どちらかにななめに傾いている。日による。一日の中で持ち替えて場所をチェンジすることもあった、そういえば。


キーボードをやや左側に置いているときには左足を組むことで、上半身と下半身が逆側にねじられる。キーボードを右側に置いているときは右足を組む。このクセを、今さら認識してみている。


意図的に姿勢をコントロールしている部分と、無意識に体が調整されている部分とがある。人間の体って、こんなに左右対称に作られているくせに、日中わりと右に左にゆらゆら揺れて、重心をばらけさせているんだなあと感心する。


指先とPCモニタが連動している感覚はない。脳で文字を書いている。ときおり体をぐぐっと前掲させて、胸の下でキータッチをするときは、脳の深いところにあるよく見えない隅の部分に手を差し伸べてゴソゴソと探し回るようなイメージで言葉を掘っているし、椅子のリクライニングバーを解除して、背もたれを倒し、キーボードを太もも側に引き寄せて天井のほうを向きながら一気に文章を書くときは、脳の高いところにあるぼんやりとした部分に結んだ凧糸を引っ張るようなイメージで言葉をたぐり寄せている。


ぼくはよく、考えるときに目が右上や左上の遠いほうを向いている。その方向にたまたまあるものを見ているわけではもちろんなくて、単に、「脳内にある自分の目」がキョロキョロと開けるべき引き出しを探しているのと、実際に体についている目の向きとがうっかり同期してしまっているだけである。


先日から職場のデスクの一角に幡野さんの写真を掛けているのだが、顕微鏡を見てから考え事をするときに目がたまたまそちらの方角を向くことがある。写っている小さな人影、白い風景、けむりのようなもの、石のような雪のようななにか、その中にいつしか自分も立っている。考え事が中断し、写真の中に自分と息子とが立っている。それをぼくは顕微鏡の手前で見ている。ぼくと息子が立っているところを顕微鏡の前で見ているぼくを見ているぼくが手を伸ばしたものが指先に届くころにぼくは体の向きを変えてキーボードに指を乗せると、掘り出したりたぐり寄せたりした文章がモニタに出てきて、本登録を押すとそれが臨床医の手元に届く。そういう仕組みになっている。