2021年1月25日月曜日

ラベンダーの色

つまらない本を1冊、読みづらい本を1冊。そしておもしろいんだけど難しい本を1冊読んだ。正月からこっち、積み本がゼロになる日もある。読書が順調な日が何日か続いている。少しほっとして、どこかいそいそとしている。

さあ、書店でむやみに本を探しに行こう。……前ならそうしていた。今はでかける気がしない。せめてワクチンを打ってからだろう、ぼくが前のように、自由にでかける日がくるとしたら。

病院の職員玄関でIDをかざしてドアを開けるとき、マスクをして廊下をあるいて検査室のドアをひじで押し開けるとき、デスクに座って書類を書いて総務課行のボックスに入れ、診断書をプリントアウトして外来に届けるとき、いつも、ぼくの指についたわずかなウイルスが巡り巡って患者をひとり殺すかもしれない、という交通事故にも似た不運を思い浮かべる。ぼくが今感染症にやられても世界は滞りなく回るだろう、ただし、病理検査室の全員が即座にPCRをしなければいけなくなる、それが心苦しい。少し想像するともう、出かける気がしない。世界をかき混ぜる気にならない。クリームを垂らしても回転しないほどに凪いだコーヒーの液面。ちょっと動けば拡散が起こる、それをいつも気にしている。

問題は自分のかきまぜすら止まってしまうことだ。「思いもよらない本」を手に入れることを強く欲する。そうか、「自由」というのは、思い通りにやることではなく、「思いもよらないことすらやること」なのだな。



Amazonでこれまでの自分の文脈と完全にはずれた本を買うというのは思った以上に難しい。AIは所詮その程度なのだ。「この本を読んだ人はこんな突拍子もない本を次に読んで『うわあ、これをぼくが読むとは思ってなかったけど前とはぜんぜん違う意味でよかったなあ!』と思っています。」Amazonがそこまでやってくれたらぼくはもう本屋に行かなくなるだろうか? いや、行くだろうな。行けないけど。

Twitter公式アプリはタイムラインを勝手にいじってしまって、ぼくが普段楽しく気に入って見ている人のツイートばかりを表示させる。だからいまだに、PCではHootsuiteというサードパーティアプリを使い続けている。これだとぼくがフォローしている11万人くらいのフォロイーを、「純粋に時系列順に」表示してくれるから、ふだんあまり気にしていない人々のツイートが突然目に飛び込んでくる、ということも起こりやすい。

もっとも……「ぼくがフォローしている」という時点で、十分バイアスはかかってしまっている。ぼくはTwitterのフォローは基本的に「フォロー返し」なので、つまりはまず向こうがぼくをフォローしてくれて、その人のタイムラインを見に行って、政治的・信条的にとがりすぎているだとか暴力的だとかツイートが1個もないなどの問題がないことを確認したらフォローを返す。ということは、ぼくが見ているタイムラインというのは少なくとも「ぼくのツイートを一瞬でも気に入ってくれた人」ばかりで構成されているということだ。これでは世の多様性を反映することにはならない。

もっとも、「完全にランダム」なんて絶対に無理だということもわかっている。本屋でぶらぶらすれば思いもよらない本に出合えるというのも実は嘘だ。だって、その書店で本を仕入れて棚に並べている人の意思が入ってくるのだから。複数の本屋をめぐればいいというのも幻想だ。「本にするにはちょっとめんどう」なコンテンツは手に入らないのだから。なんだってそうだ。関係性の中でしか自由は生まれない。制限があり有限化がある先でしかぼくらは自由に選べない。



こういうことを考えていると、「偏った読書をしたくない」なんていう願い自体がひんまがっているというか、理想という名の幻想なんだよな、ってこともちょっとだけ考える。読書という行為自体がバイアスなのだ。いまさらそこで偏りを恐れてどうする、というツッコミは正当だと思う。ただ、ほほえみを生まないタイプのツッコミは下品だ、というだけの話で。



偏っていることを前提としてそれでもカタヨリ続けるかどうか。自分の行為のかじ取りを、諦念に任せきるでもなく、ハリボテで覆って美辞麗句を表面に書き連ねるでもなく、「ハンドルが異常に重い自転車をふらふら走らせていくように」、なんとかときどきは真ん中に戻そうと思って覚悟していけるかどうか。






秋に摘み取ったラベンダーをひとつかみ、乾燥させて、グラスに挿してキッチンの片隅に置いている。においはもうほとんどしないのだけれど、視界のかたすみに、日常生活ではほぼ目にすることのない青紫というアクセントがあることでぼくの脳がときおりウォッシュ・アウトされていく。そういうイレギュラーな刺激がぼくの性格をこのように組み立て続けてきたことはもはや疑いようがない。少しだけ疑う。けっこう疑う。疑ったあとで、ま、こちらにベットしてみるか、と、疑いを抱いたまま信じる自由を享受する。