2021年1月27日水曜日

アンチ無限の可能性

ひとりの人間が立っている。


周りは荒野である。


このとき、人間の、皮膚の中にはいろいろなものが「ある」。


いっぽうで、皮膚の外側にはなにも「ない」。


そう考えがちである。







人間は立ち続けている。


ときどき風が吹き、荒野の枯れ葉が飛び交う。人間の皮膚の外の、空気の部分に、たまに葉っぱが現れてはまた去っていく。


また、ときどきほかの人間が通りがかり、元からいた人間の前に立って、何やら立ち話をする。ときにツバを飛ばして口論などをする。そしてまた去っていく。


人間の皮膚の外には、何かが通り過ぎることがある。舞い上がることがある。吹き付けることがある。訪れることがある。埋め尽くすことも、降りかかることもあるだろう。


人間の皮膚の外にはなにも「ない」わけではない。一瞬を切り取ってみれば「ない」かもしれないが、時間軸を前後に無限に動かしていけば、そこにはおそらくなにかが「ある」。


三次元を一瞬だけ観察すれば、人間の皮膚の外にはなにも「ない」かもしれないが、四次元で時間軸を自由に動きながら眺めれば、人間の外のほうにこそ無限の可能性が「ある」。





人間の皮膚の中には、人間が体内で作り出し、整えたもの「しか」ない。


ときおり食べて取り込んだものは「ある」。しかし、それ以外は「ない」。


皮膚の外にはなんでも「ある」。どこか一瞬だけ見れば「ない」かもしれないが、実際には「なんでもある」。





つまり。





生命とは、境界部の中の可能性を「減らしている」状態である。


皮膚の中に、自分という限定的なものしか「ない」。皮膚の外よりも可能性が「ない」。





そういう内容の話を読んだ。なるほどなあ……と思った。物理の世界の住人が、生命の定義をするときに、「エントロピーの局所的な低下だよ」と答えたことを思い出す。


生命とは、その内部の可能性を、外よりも減らしたものなのか。ああ、確かに、そうかもしれない。無限の可能性というものは常に皮膚より外にある。





脳の電気信号のバリエーションばかりを「無限だ」と言ってよろこんでいたぼくも、たまにこうして、反省をする。