どこかで剛体になる。
その必要があると思っていた。ずっと長いこと。
若いころから思っていた。まずはやわらかく、何にでもなれるように、しかしいずれは、硬い土台となってその場に埋まって何かを支えなければいけないことになると。
常に変化し続けることがカギだ、とか言い出す人は多い。最近でいうと30代くらいのベンチャー社長とかが平気でこういうことを言う。
カギでもなんでもない。それは「普通」だ。世の中を見てほしい。コーヒーの中にクリープを注いでみてほしい。一瞬だって止まっていないだろう。「変わり続けるのは普通」なのだ。
「年を取ると考え方が硬直するから若いときの柔軟な考え方をだいじにしてほしい」とかよく言うよなーと思う。そういう人に限って先週と来週で150度くらい違うことを言って、若い部下を右往左往させている。
カギはもう少し複雑なのだ。難解でもある。
常に流動して変化し続ける中で、「たまに誰かがアンカーを打ち込めるような剛体となる覚悟」を決めること。
むしろこっちのほうがしんどくて、かつ、中年がやらなければいけないことなのではないか、と最近思うのだ。
「自分が変わり続けるために」系の論を張る人を見ていると、あまりに自分のことしか考えていないので逆におもしろくなってしまう。
こいつ映画とか見ないのか。マンガとか読まないのか。小説とかぜんぜん摂取してないのか。
「周りが変わっていくこと」だって立派に目標になるのに。ふたことめには基準が自分なのだ。五感の感応距離が2 mmくらいしかないのだろう。精神の排他的経済水域内でしか精神漁業をやっていない。
自分とまわりをすべて含めた世界がどう動き、変わっていって、その中で自分がどうあるのか、どう衝突してどう跳ね返っていくのか、それによって周りがさらにどのようになっていくのか。
たまに剛体になる。
そういう覚悟を読みたいし聞きたいのに。
弱い文章が多すぎる。
noteの投げ銭が自分の価値だと喜んでいる場合ではない。
しっかりしてほしい。何にでもなれる若い人たちのために。何かになった姿を見せる覚悟はどこにあるのだ。