「年を取ったらはじめようと思っていた趣味をいざはじめてみたら、さまざまなトラブルにあって続けられなかった」みたいな話をたまに目にする。
退職後に、録りためておいた映画をゆっくり見ようと思ったが、長時間座っているのが苦痛でなかなか集中できないとか。
たくさん読書をしようと思っていたけれど、目が悪くなっていてあまり読めないだとか。
運動に励もうと思っていたが、股関節や膝をいためていてあまり走れないとか。
もちろん、年をとったらなんでもできなくなるわけではない。そこは「自分の体のベテラン」だけあって、いろいろうまくやりすごして、結局なんとかしてしまう人も多い。
ただ、「できると思っていたらできなかった」で心を折ってしまう人がいることもまた事実である。
最近なんとなく思うのだが、「理想でいうとこれをやりたいが、いろいろ大変なので、代替手段を用いてなんとなく近似的にどうにかする」という一連の行動には、ある種の特殊な体力が必要なのではないか?
やりすごす力。
8割、あるいは6割でよしとする力。
鈍感力とかスルースキルといったものとも少し違う、「代替力」みたいなものがそこで求められる気がする。
この力は育てるものというより、「自分の中にそういう力があることを認める」ことからはじめるものだろう。人間の脳って、本質的にはけっこう代替手段をとれるものだ。なぜならば思考の視野角は本来そこそこ広いからだ。「which」に相当する言葉はどんな言語にもたいてい存在するという。目的地にたどり着くために一本道しか見えないということはない。
ただし、何か、性格というか、気質というか、「こうと決めたらこの道だ」と自分で自分の可能性を狭めることに快感をおぼえるタイプのキャラがいることも事実。そういう人たちは、ひとつの道がふさがると途端に機嫌を悪くする。
年を取って歯が弱って、それまで食べられていた好物があまり食べられなくなったときに、「いや、別にやわらかいものでもおいしく食べられるよ」とか、「今度はこちらを好きになればいいじゃないか」と、気持ちを切り替えていけるタイプの人に、生きるための底力があるなあと感じる。
ぼくはそういう「いなし方」にあこがれている。もう、だいぶ長いこと。
ここで話が変わるようで実は変わらない、ぼくは「自分が組織のトップになったら、とにかくいろいろいなしていこう」と、ずっと思っていた。若いときにはできないことだとほのかに感じていた。上がいると気を遣うからなのかもしれない。老いを見据えるのにそれくらい準備が必要だったのかもしれない。今、近づいて来た老いを見て、体幹のしなやかさのようなものを準備する気になっている。ぼくはこれと決めた道にこだわりすぎないことが今後自分の性格と付き合う上で何かのカギになるのではないかと予想している。