2021年1月6日水曜日

強い言葉を使うだけ

SNSでは「強い言葉を使う」と、だいたい届く……いや、届いたようにみえる。なぜなら、いいねがいっぱいつくからだ。


でも本当は届いていない。


そのことをわかっておく必要がある。





ときおり思い出す。


「ぼくはたいていのツイートにいいねをつけず、RTもしていない」という事実。


では、ぼくがいいねやRTをつけないとき、ぼくに何も届いていないのかと言ったら、そんなことはない。断じてない。


ぼくは、いいねを付けずに大量の情報を受け取っている。


「いいねを付けていないけれど、心に残ったもの」というのが死ぬほどある。






サッカーのワールドカップ予選、あるいはM-1のテレビ放送、鬼滅、ジブリ、新海誠など、世間を確実に賑わせるテレビ番組が放送されるとき、タイムラインに無数のツイートがあふれかえる。


「堂安すげぇー」


「マジラブあれ漫才なのかよww」


「チッキショー(森七菜の真似)」


こういったツイートは番組に呼応し、世間で同時多発的に、狭い時間帯にドッとあふれてくる。ぼくはトレンドの濁流の、中州の部分に立って、左右を見回し、流れていくものをぼうっと見る。


ひとつひとつにいいねなんてつけない。


「ああ、世間は今こうやって盛り上がっているなあ、の場」に、だまってたたずむ。


そうするのがいちばん楽しい、というか、自然とそうしてしまっている。


黙っているのに飽きたら、ときおりいいねやRTをつけて、「口を開く」ことはある。


でも、ほとんどは、口を閉じている。SNSを使っている時間の8割方、「何もしゃべっていないし、いいねもつけていない」。





トレンドを感じるために、誰かとやりとりする必要はない。


誰かの思いに共感を表明しなくたっていい。


日本代表をみんなが応援している感覚、松本人志の採点にぎょっとする感覚、「今から晴れるよ」をハモりたい感覚、そういったものを、傍観者として眺めていたいだけ。


空気を感じていたいだけ。






それまでの自分と大きく違う意見を見てびっくりしたとき、それを吸収したいと思う人は「いいね」をつける。感動した、泣いた、笑った、あるいは逆に、怒った、あきれた、そういったときに、「いいね」や「引用RT」などで思わず反応する。――そういう使い方ばかりがもてはやされる。


なぜなら、企業は、宣伝をしたい人は、成り上がりたい人は、「いいねが付けば付くほど価値がある世界」で話を進めたいからだ。ぼくらはみな、「いいねを付けたほうがいいよ」「RTで広めてあげてくださいね」という文脈の中に、腰まで浸かっている。


でも、ほんとうは、いいねやRTよりもはるかに、ぼくの心にダイレクトに作用するタイプの「Twitterの使い方」がある。地味で、日ごろはあまり気にしないのだけれど。


それが、「黙ってぼうっと見ている」というスタイルだ。


世界と自分が一瞬でも同期しているなと感じるときの独特の安心感は、いいねを介する必要がない。


「ああ、あちこちでみんながつぶやいているなあ」の気持ちがぼくを安心させることがある。


雰囲気。空気。


そういったものに、SNSの特殊な「伝達能力」がひそんでいる。






「強い言葉」は、いいねやRTを呼ぶための技術だ。


いいねをつけ、RTで拡散をして、……その結果、多くの人に届くよと、誰もが錯覚している。


いいねの数も、RTの数も、「ある情報が距離をまたいだ」ことの証明にはなるが、「人の心に、空気としてしみこんだ」ことを表してはいない。


強い言葉は心を貫通していく。傷を付け、痕を残す。


ただそれだけのことだ。




SNSでは「強い言葉を使う」と、だいたい届く……いや、届いたようにみえる。なぜなら、いいねがいっぱいつくからだ。


でも本当は届いていない。


そのことをわかっておく必要がある。


Twitterでぼくらが……いや、ぼくが、本当に受け取っているのは、ぼんやりとした時代の空気のほうだ。


「どの言葉が記憶に残ったか、と言われると、いや、具体的にはぜんぜん思い付かないんだけど、なんとなく、なんとなくだよ、あのあたりをフォローしておくと、いいんじゃないかなーとは、じわっと感じている」


誰かにとっての、そういう存在を目指すために、「強い言葉」は害にしかならない。





詩集を編むような気持ちこそが、必要なのかもな、と思う。