2019年5月23日木曜日

病理の話(325) 遠隔診断という概念が我々からまだ遠く隔たりがある

実際に患者のそばで行わなければいけない「医術」というものは、どんどん少なくなっている。

たとえば、放射線科の用いる画像診断は、遠隔で行うことが可能だ。直接患者のそばにいなくても、画像だけをネットで飛ばせばいいからだ。

北米では、20年くらい前からすでに、CT, MRI画像を「地球の裏側にいる放射線科医」に読影してもらう遠隔放射線診断システムが本稼働している。

遠隔で放射線画像診断をする医者が登録する会社があるのだ。病院は会社と契約して、撮った画像の評価を「外注する」。

記憶によればナイトホークという名前の会社があった。地球の裏側にいる放射線科医だから、読影はいつも(北米時間の)夜中に行われる。なかなかキマった名前だなと感じた。

むかし、スーパーファミコンという古典的なハードにF-ZEROというレースゲームがあった。その中には「ナイトオウル」という名前のコースがあった。

ぼくはナイトホークという名前を聞いたときにまずこの「ナイトオウル」が頭の中で混線してしまった。それ以来、遠隔画像診断の話をするときには、頭の中に、F-ZEROのメタリックな画面とイカしたBGMが思い浮かぶようになった。脳が軽くバグって接続がイカれたのだ。

F-ZEROというゲームはレースゲームなのだが、本編に生きている人間が出てこない。その意味では、遠隔診断のイメージとも完全に離れているわけではない。まあ、その後、スマブラでキャプテンファルコンが信じられないようなパンチを打つようになり、イメージはゆがんでしまったのだが……。




話を変えよう、ダヴィンチという手術システムをご存じだろうか。

https://www.mitsuihosp.or.jp/davinci/

知る人ぞ知る、というにはもうずいぶん普及したシステムだ。

いわゆる「マニピュレーション・システム」である。ロボット手術というと正確ではない。ロボットが自動で手術をしてくれるわけではないからだ。

このシステムには執刀医が必須である。人の役割は失われていない。

執刀医の手の動きに応じて、「千手観音の手のようなロボットっぽくみえる機械」が患者のお腹の中を切って縫ってくれる。




ただ、人の役割は失われていないが、人のいるべき場所については微妙に変化している、ということに気づく。

冷静に考えると、ダヴィンチを使って手術をするならば、執刀医が患者の側にいる意味はないのである。





こういうと絶対に怒られる。

「何かあったときにすぐ対処しなければいけないだろ! 外科手術は放射線画像の読影とは違う! 執刀医は患者の横にいないとだめに決まってる!」

けれども頭を柔らかくして考えれば、「執刀する人」と、「そばにいて対処する人」をイコールで結ぶ必要はないのだ。

そばにいて対処する人は、執刀医とは違ったシフトで、違った給料体系で、より最適化した状態で待機すればいい。経営者であればそこからいくつかの「給料を抑えるためのヒント」を見いだすだろう。

(経営視点のない医者は、めぐりめぐって医療の効果を下げる。)





ちょっと想像するとほかにもいいことがある。

ブラック・ジャックのような「神の手をもつ外科医」というのは最近聞かなくなったが、レアな手術を、すでに何例か経験したことのある外科医がもっぱら担当する、いうことは、今でもよくある。神の手までは必要ないにしても、世の中のほとんどの医者が経験していない手術を先駆的に行う人はやはり神様扱いされる。

この場合、神様を遠方から呼んでくるよりも、遠隔でダヴィンチ的にやってもらうほうが圧倒的にラクだろう。交通費かかんないし。

まあ実際にダヴィンチがそのように用いられているケースはたぶんまだほとんどないと思う(いろいろ倫理とか制度的な障壁があるし、ダヴィンチを使えるケースもまだまだ限られている)。けれど、将来的に、ダヴィンチの適応がもっと広がれば、「遠隔の外科医に介入してもらう」という話も出てきそうだな、とは思う。

何度もいうが外科医は「それはむり!」と言う。

けれども経営者が「それ魅力!」と言ったとき、外科医は反論できるのだろうか?

少なくともぼくは反論できない。






さて病理診断だ。病理診断こそは患者のそばにいる意味が無い。

だからもうどんどん遠隔化していいと思う。

こういうと「切り出し(臓器を直接目でみて、どこをプレパラートにするか決める技術)は、遠隔ではできないだろう。直接臓器を手で触れなければ!」と反論される。

一流病理医ほど、そう言う。

けれども外科医の反論といっしょだ。

「切り出しをする人と、組織診断を遠隔でする人を、分けて考えてシステム構築してみたら、何かいいことが起こらないかな?」

この柔軟な発想こそが医療現場では大切なのではないか、と思う。





今までの医療を担ってきた人たちは、自分たちが理想的な医療環境を作ったと自負しているだろう。

ぼくは今が一番いいと思う。医療は確かに、どんどんよくなっている。

よくぞここまでのシステムを作ってくれた、と、尊敬を払う。

その上でなお、人間のやれることには限界があることも十分承知だ。

都会と地方とで医者は偏在し、患者と医療者の言いたいことは微妙にすれ違い続け、8割の満足はあるけれども、決して10割の満足には達しない。





ぼくはあらゆる医療を遠隔システムを用いて再構築すべきだと思う。

「医療者は患者に寄り添わなければだめだ」という誰もが認めるヒューマニズムを残したまま、一部の「遠隔向きの医療」をどんどん遠隔システムに切り替える。

そうして、浮いた分のコスト……金銭もそうだが、特に、頭脳労働をさまたげる手間の部分を、医療に還元しないと、医療はこれ以上に上がっていかない。





誰かが患者のそばで、患者に寄り添い続けるために、誰かは患者のそばを離れて頭脳労働に特化した方がいいのではないか。

病理医は頭がいい。すぐに気づいてくれるだろう。

ぼくらは知恵の側にこそいるべきだ。

2019年5月22日水曜日

食べる前に飲むように読む前に買う

猛烈な頻度で届く本を(読まずに)眺めていた。どさっ、どさっとデスクに積み上がった。

この中に、書店で選んだものが、半分。

残りはネットで買った。

あからさまに書店で選んだ本のほうに愛着がある。

Amazonは積ん読を増やす装置なのではないか? ぼくはため息をつきながら、そうつぶやいた。




”そうつぶやいた”というフレーズを目にすると、まるでツイートしたように思えてしまなあ。




本来、”つぶやいた”という言葉は、やさしく聴覚に訴えかけるはたらきがあったように思う。

目で読んでも、耳に入り込むようなフレーズだ。

耳の中にある謎の触覚点を通じて、ノドがざわざわと刺激されるような。すこしだけ複雑な、大人の言葉だったはずだ。

けれども、今は、ツイッターのせいで。

すっかり、「目で読んで、視覚が理解するだけの言葉」になりさがってしまった。

まったく残念だ。




たとえば、読書を「視覚的な体験である」と言い切ることはできないように思う。

文字を目で追い、視覚野に記号的な入力を行うことと、その情報が導火線に次々火を付けて、ぼくの脳が同時多発的に燃え上がって、なんらかの情のシルエットがゆらめくことの間には、飛躍としかいいようのない、不思議な変換があるように思える。

読書は、目だけで楽しむ趣味ではない。

ああ、うん、朗読する声が聞こえてくることもある。けれども、聴覚だけ加えたら完成するというものでもない。

五感全てに訴えかけるもの。

かつ、五感だけではたどり着けない、脳の隘路の先にある何かに触れるもの。





ぼくがかつて持っていたあらゆる趣味は、在庫消尽とともに脳内マスタから削除された。

残ったのは本だけだ。

ネットすらツールになってしまった。

残ったのは本だけだ。





強いて言うならば、ぼくであることだけが、本に対抗しうる。

なぜならばぼくを読むことができる読者はぼくしかいないからだ。

もっとも、「ぼくが一番、ぼくのことをよくわからない」という幸福なリミテーションについて、ぼくが自説を曲げることはないのだけれど。

2019年5月21日火曜日

病理の話(324) AIを擬人化するとこうなるだろうなという話

メドメイン( https://medmain.net/ )という会社と協力することになった。

この会社はなかなか有名なのでご存じの方もいるだろう。

かんたんにいうと病理診断を支援するAIを作っている企業だ。CEOは九州大学の学生である。すでに多くのスタッフを抱えて働いている。プログラマーには優秀な外国人が並ぶ。

ぼくは彼らの一員にはならない。相変わらず、札幌の農協の病院に勤め続けて、JAから給料をもらう。顧問料とかもとらない。かわりに、「科学広報」に利用させてもらおうと思う。ふところにお金は入らないが、本気で科学のことを人々に伝えようと思ったら出て行くはずだった出費がだいぶ減る。その意味でぼくはとても大きく得をする。




病理AIは、将来的には今ある病理医の仕事を奪うだろう。しかしそうなれば病理医はまた違う仕事をすればいいだけの話だ。若い病理医は、積極的にAIのやることを手伝い、AIのために働いた方がいいと思う。これは、もしかすると、今までの病理医の働き方よりももっとおもしろいことになるかもしれない。





家事の苦手な人は、パートナーにこう怒られることがある。

「ちょっとは手伝ってよ。」

にがにがしい顔をして、こう答えよう。

「何を手伝っていいのかわかんないよ。料理も掃除も、そっちの方が得意だし、ぼくがやる前に、うれしそうに全部やっちゃうじゃないか。」

そしたらパートナーはさらに怒る。

「できることを見つけて働いてよ。」



今のたとえの、「家事の苦手な人」が、ニンゲン。

「家事全般を取り仕切るパートナー」が、AIだ。

さあ、ニンゲンが、AIと離婚せずにうまくやっていくにはどうしたらいいか?

(蛇足だけど、AIがいないところでがんばる、とか、AIなんて嫌いだからひとりで生きる、という選択肢は、たぶんもう我々には残されていない。AIと前向きな離婚はできない。離婚すれば破滅である

えっ? と思う人もいるかもしれないが、そもそもあなたはこの記事をスマホで読んでいるはずだ。パソコンかもしれない。これらはとっくにAIのカタマリだ。AIと離婚すれば文字通り路頭に迷うだろう。生きてはいける。楽しむこともできる。けれども、ふつうに、路頭で、迷うだろう。)




ニンゲンはAIよりもさまざまなことがヘタクソだ。

でも、ニンゲンはニンゲンなりに、できることを探し、はたらこうとする。

ニンゲンは、何かをして、役に立っていると思われたい。

理想的には、「そこにいるだけで」役に立っていると思われるのがいい。

「ただ、いる、だけ」で家庭の安心となれるような存在感を出せたら、最高かもしれない。そういう仕事も世の中にはいっぱいあるので、そういう仕事においては、AIはニンゲンには全くかなわない。

でも、「ただ、いる、だけ」は思ったより難しいので注意が必要である(名著「居るのはつらいよ」を参照)。

あと、AIと一緒に何かをしようと思ったら、「ただ、いる、だけ」では通用しない。

ちょっとは何かをしようじゃないか。そのほうが、AIだって悪い気はしないはずだ。




ぼくがメドメインでやることは、まさにこの、「AIと仲良くやっていくために、AIの役に立つ」ことだと思っている。

積極的にAIというグッドパートナーを手助けすることで、ぼくらニンゲンは、かえって良く生き残ることができるんじゃないか、と思っている。




手始めに、「病変の部分をマッピングしてAIに覚えさせる」という前時代の方法を改良しようと思う。

ディープラーニングによるスパーステクスチャ解析がようやく実臨床で使えそうな雰囲気がある。ぼくはこのことを感覚ではわかっていたが、観念がきちんと脳に入って、言語化できたのはついこの間のことだ。本当に優秀な人は世界のあちこちで「ディープテクスチャ」を解析している。ルイージが笑顔でこっちを見ている( https://luigi-pathology.com/ )。アーキテクチャを回転させながら、かりそめの機械学習をすすめて、ニンゲンを越えられない程度のAIを開発するのをやめさせなければいけない。日本中で行われている、「AIの足をひっぱるような家事」を、そっとたしなめていく。




AIというパートナーほど有能ではないけれど、AIと一緒にごはんを食べていたら、「やっぱりあなたがいないと、私はだめです///」と、AIがつぶやく日がくる。

ぼくはそういうニンゲンでいたい。ニンゲンはそういう存在であればいいなと願う。

これはあくまで病理の話だ。とてもまじめな、病理の話だ。

2019年5月20日月曜日

ともだちのゆくえ

嬉野さんと「友達」の話をした1日ほど前に、ぼくは自分の半分くらいの年齢の優秀な男と、友人になった。

こちらからお願いした。願いが叶って良かった。

彼はぼくに「報酬をどうすればよいでしょうか」と尋ねてきたのだ。

そこでぼくは少し考えて、

「報酬というか、そうですね、友達になってください。お仕事については、友達としていろいろアドバイスさせていただきます。それ以外の報酬は必要ないです」

と言った。

そして、すぐに、付け加えた。

「ぼくは病理学会の、社会への情報発信委員会に所属しています。
ですから、御社の技術が進歩して、優れた病理技術が生まれていく様子を、みなさんの迷惑にならない程度に発信させて頂ければ、それが公的な利益になります。
ぼくは公的な利益を追究することで役目が果たせます。
役目が果たせればそれが報酬になります」




新しい友人と別れてから、ぼくは、「報酬として友達になってくれ」と言った自分を、おもしろく感じていた。

その翌日、嬉野さんと全く違う話をしていたはずなのに、「友達」の話になって、なんだかつながっているなあ、と感じた。

なお嬉野さんのところの若い夫婦とも友達になった。

ぼくは出張している間に、複数の友達ができたのだ。





ぼくは友達を労働で買っている。

「言い方~」とつっこまれて、アハハと笑って終わりにする程度の話であるが。





藤やん・うれしーとの対談を見た犬は、「20代のヤンデルが成仏しているようだ」と言った。

「青春の蹉跌をこれほど見事に成仏させることはなかなかできない」と言った。

しかし、ぼくはそもそも、前日に成仏していたのだと思う。

あくまで、仏に成ってもゲラゲラ笑える、ということを証明したに過ぎない。

2019年5月17日金曜日

病理の話(323) 医者はマイナスをゼロに戻す仕事だと思われて久しい

体の具合が悪くなると、病院に行く。

普段はあまり行きたくない場所、それが病院。

ぼくらはたいてい、自分がいつも通りにしているときには、病院に行かない。行く必要がないし、行きたくもない。

何か、不都合が生じたときに、仕方なく病院に行く。

普段、100点満点で過ごしている、ぼくら。

あるいは、あなたの体感的には自分の体調を80点と採点するかもしれない。50点かもしれない。別に具体的な数字はどうでもいいのだ。

とりあえず今は、「平常を100点」として考えよう。

この100点が、90点とか、80点、さらにいえば40点とか30点になると、ぼくらは病院に行く。

普段よりもマイナス方向に偏ったときに、それをゼロに戻すのが、病院の仕事だからだ。





……クリエイティブな仕事をしている人は、「ゼロから何かを生み出す」などという。

だからぼくらはときどき、自重気味にいう。自嘲気味に、かな?

「ぼくらはマイナスをゼロに戻すだけの仕事だからさあ」





ただこのマイナスをゼロに持っていく仕事というのを、本気で考えていった場合に、実は思ったよりも奥が深いということに、ある程度中年になった医療者たちは気づいていく。





たとえば20点を100点に戻すのはとてもたいへんなので、できれば50点とか80点くらいのときに、早めに病院に来て欲しいな、みたいなことを言う。

これは「早期発見」というアイディアだ。





次に、100点が90点になり、80点になっても、本人が問題なく暮らしていけるやり方を探そう、みたいなアプローチもある。

これは「ケア」の一種である。介護やバリアフリーもそうだが、がんを抱えたまま生きることもそうだし、腰痛とどう付き合っていくか、みたいな話もこの視点で考えることになる。

無理に100点を目指さなくても満足度はあげられるのではないか、という考え方。






100点を120点にすることができるんじゃないか、というアイディアも、あるにはある。

人工知能の研究というのはここに含まれるような気がする。

AIというと、「人間の代わりになるか、ならないか」みたいな話ばかり取り沙汰されるけれど、局所的には人間の100点を超えていく可能性がある。これだって立派な医療なんだけれどな。






人間の行動・活動を点数に例えて、100点満点を定めておいて、そこを増減させるという考え方自体が、やや雑な例え話でしかないのかもしれない。

満点ってどういうことなんだろうな……と、意識変容を促すこともまた医療かな、と思う。

こういうことをじっくり、ゆっくり、考えていると、医療の根本には「自分のどういう状態をよしとするか」という、ほんとうの意味での

”自意識”

みたいなものがあるのではないかな、と思う。自分の体や人生を考えていく上で、何を健康ととらえ、何が起こったらどう対処するかと考えておくことは、立派な医療だ。

そこまで考えると、どうも医療というのは「マイナスをゼロに戻す仕事とは限らない」んだろうな、っていう結論が浮き上がってくる。じわりじわりと。

2019年5月16日木曜日

イングラム派なのでアルフォンスというともにょる

連休明けはちょっと集中して仕事をしすぎて、”封印が解かれた直後に猛烈な力を持て余して暴れる伝説の幻獣”みたいになってしまった。いっぱいカタが付いたので、その意味ではよかった。

……今、何に驚いたって、ぼくのATOKが「猛烈な力を持て余して暴れる伝説の幻獣」を一発で変換したことに驚いた。ふつうの成人のパソコンだったら、「げんじゅう」→「厳重」と変換するだろう。まったく、日頃、どういう入力をしているんだねキミは。

なお、今の一文にしても、「ふつうの成人」のところは「ふつうの星人」と変換された。まったく、いやになる。まあ、一貫性はある間違え方だけれど。



「肝生検」と入力しようと思ったら「管制圏」が出てきた、なんてのはよくある。

「非特異的所見」の序盤が「人喰い」と変換されるとアワワワってなる。

なーんてことを考えていて、ふと、思った。

キーボードを通じての「あるあるネタ」は、昭和の頃にはほとんど存在しなかったんだよなあ。

だってそのころ、変換ソフトがどうとかいう概念、いまほどはっきりしてなかったはずだよなあ。

じゃあ、今日の日記は、たかだか30年前には、絶対に書けなかった内容なんだろうなあ。

……書くほどの価値があるかどうかは、ともかく……。







今ぼくが当たり前のように動かしている神経や筋肉は、日常のさまざまな行動に対して、完全に最適化されてしまっている。

体のあちこちが、無意識下に連動している。

「機動警察パトレイバー」の中で、泉野明の操縦するイングラムが前方を指さすとき、腕を振り上げるのと同時に重心移動がなされているのをみて、シゲさんや遊馬が「動作が最適化されている」と感心する場所がある。

ロボットやレイバーがそれをやったら驚くわけだが、実際、人間はそういう「最適化」ばかりしている。

たとえば、ご飯を食べながら息を吸うことができるだろう。

しゃべりながらご飯を食べても舌を噛まないだろう(下品だけれど)。

誰かに呼ばれて後ろを振り向くときにどれだけ多くの筋肉がいっぺんに動いているか、ご存じか?

知らないというならば、どこでもいい、体のどこか一部分に、セロハンテープをはってみるといい。できれば、筋肉に沿って。

ただ後ろを振り向く、というだけの動作なのに、体中のどこにテープを貼っても、たいていそのテープが「つっぱったり、たるんだり」することに驚くはずだ。

人間は無数の機械の寄せ集めであり、それらは常に「連動」して、ひとつのものごとを成し遂げている。







ぼくのパソコンはぼくの入力スタイルに最適化している。

ぼくはパソコンを使って文字を打つ暮らしに最適化している。

ぼくは変換ミスをブログの記事に仕立て上げるくらいには最適化した生活を送っている。

ぼくは最適な暮らしをしている。健康であろうがなかろうが、文化的であろうがなかろうが、生きているだけで最適化している。

明石家さんまは次の娘に「いさい」と名付けるといい。ぼくらはもう最適なのだから。





最適でこれかよ。

やはり休日は、脳のリミッターを少しずらしてしまうようだ。

2019年5月15日水曜日

病理の話(322) 趣味や愛と一緒にされてもなあと怒られそうな話

自分が学生だったときもずっと考えていたし、自分が先輩になってからは後輩とその話題で盛り上がったりもした、いわゆる鉄板ネタというのがこの業界にはあって、それは何かというと、

「自分に向いているスキルは何か」

「自分が進むべき科はどこか」

「自分は何科の医者向きなのか」

というトークである。





医者といってもさまざまな仕事がある。

ぼくは医療者の仕事をおおきく3つにわけた。「診断」「治療」「維持」。医療の世界で働く人間は、このどれか、あるいは複数の性質をもつ仕事を日々行っている。

たとえば、循環器外科という場所で仕事をしている医者のもとには、「心臓の血管が詰まって明日には死んでしまうかもしれない患者」がやってくる。文字通り明日をも知れない命の人々だ。彼らに手術をほどこして、ケロリとなおすのが仕事である。

”救急車でやってきた患者が歩いて帰っていく。”

この「治療」に生きがいを見いだす人がいる。

ただ、医療者の仕事というのは必ずしも「治療」だけでは終わらない。

たとえば、ドラマ「ラジエーションハウス」に出てくる放射線技師たちのように、病気がどこに、どのような規模で存在するのかを見極めて、ほかの医療者達がこれからどう対処したらいいかの指針を打ち立てる「画像診断」という仕事。

彼らは人を治さないから医療者ではない、とは全く思わない。ただ仕事のスタイルは違う。地下鉄の運転手と路線図を書く人くらい違う。どちらがより医療っぽいか、という評価をくだすこともナンセンスだ。

さらには「維持」。これがかなり大事で、かつ、忘れられている。

たとえば開業医のもとに患者がやってきて、「いつもと同じ薬をくれ」という。血圧の薬でも、血糖を下げる薬でもいい。

このとき患者の「診断」はおおむねついている。高血圧ぎみだとか、糖尿病ぎみだとか。

「治療」方針もほとんど変わらない。前と同じ薬を出せばいいのだ。

では、「前と同じ薬を出すだけのこと」に、わざわざ医者が立ち会わなければいけないのは、なぜだろう?

日本の医療制度が、「機械から薬をもらっておしまい」にならないのは、なぜだろう?

そう考えてみる。

月に1度くらいのペースで、患者が医者のもとに通い、日々なにか変わったことはなかったか、最近気になることはないか、と会話をする。

会話にひそんだヒントを医者は探して、そこに、なんらかの「変調」を感じる。

どうも今の薬の効きが悪くなっている、みたいなこと。

あるいは、今かかっている病気とはまったく別に、違う病気が育っているかもしれない、ということ。

一病をもとにして、医者と関わりを持ち続けながら日々を過ごしていると、医者は患者の新たな変化に気づけるかもしれない。

患者が「維持」している日常生活に、それまでの暮らしを維持することが困難になるなにかが忍び寄っていないかどうかを、丹念に探っていく仕事。

この「維持管理」というのが、医療においては診断や治療と同じくらい……あるいはそれ以上に……大切だ。なお、看護師や介護士は維持管理のプロフェッショナルである(その点においては医者より詳しい)。






……さて、医療には「診断」「治療」「維持」という3つの側面があり、医学生や若い医者たちは、「このどれに自分は向いているだろうか」と考えるとよい……みたいなことを、ぼくは今まであちこちで語ってきた。

ただ、この、「向き・不向き」について、最近ちょっと思い直したことがある。

タイムラインを流れるツイートを見ていてふと思ったのだ。

学生の段階で、自分が向いている仕事、不向きなスキルなどを見極めることは本当に可能なのだろうか……と。




なんとなく、なんだけど、少なくとも医療業界における向き・不向きというのは、生まれた時に決まっている(生まれ持った)指向などではなくて、医療界で暮らしていくうちに

”育まれていく”

ものなのではないかな、という気がしてきたのだ。





卑近な話をする。ぼくは立場上、よく聞かれる質問がある。それはこうだ。

「どういう人が病理医に向いているんでしょうか?」

向き・不向きである。これに対してはぼくは近頃こう答えることにしている。

「20代のぼくは向いていなかったけど40代のぼくはめちゃくちゃ向いているんですよ。これって、病理医としてストレスなくやっていくスキルがぼくのなかで育まれたからだと思うんですよね。15年もやればね、そりゃね、誰でもきっとそうなります」

すると尋ねた側はキョトンとして、ときにはこういう。

「いや、じゃ、聞き方を変えます、15年スキルを育めるほど、病理にのめりこむことができるのはどういう人ですか?」

ぼくは少し考えてこう答える。

「正直、15年間ずっと病理に集中していたわけじゃないです。そもそも最初の数年はぼくは学者になりたかった。紆余曲折して、回り道をして、病理診断以外の方向にさんざん浮気してますけれど、それでもなんか育まれるんですよ」

すかさず尋ねた側は怒り出す。

「答えになってませんよ。それは結局、あなたが病理にたまたま向いていた、ってことでしょう」

ぼくはデンプシーロールの体勢に入る。

「向いていたか向いていなかったか、じゃなくて、時間をかけてそっちを向いたんだよ」

尋ねた側はデンプシーロールの弱点であるカウンターを放つ。

「でも時間をかけているうちに折れるかもしれないじゃないか」

ぼくは体に無理をかけるステップワークでデンプシーロールを進化させる。

「折れそうになったら逃げて戻ってきたってまだ余裕で人生は続くんだよ」

尋ねた側はフットワークでデンプシーロールを逆に追い詰める。

「人生の終盤のことなんかどうでもいいんだよ、俺は20代・30代で悔いの残らない選択をしたいっつってんだよ」

ぼくは追い詰められても結局デンプシーロールにこだわることにする。

「自分では能動的に選択していると信じて積み上げて、それがいつか『なんか気づいたらそこにいるな、俺』ってなるのが中年なんだよ。仕事の向き不向きなんて全部こうだよ」

カウンターが炸裂する。

「全部とか絶対って書いてある選択肢は間違いだって国家試験対策委員が言ってました」

ぼくはマットに横たわる。

「おっしゃるとおりです」