2020年10月28日水曜日

脇目をきちんとふる

ムスカがシータに「流行りの服はおきらいですか」と問いかけるとき、あーなるほど、ムスカくんもこれまでいろいろな人間と付き合ってきたなかで、流行に追われて常に新しいデザインばかり買い求める人にも出会ったし、あるいはその逆に、「流行っている服なんてつまらないでしょう」とばかりに逆方向にすすんでいく人にも出会っていて、きっといろいろな人間に振り回されてきたんだろうなあ、そうじゃないとそのセリフ出ないよなあと、なんだかかわいさを感じてしまうのである。


”「流行りの服がおきらいな」人ってへんくつだよね。自分の好みが他人の好みよりも優れているという「好みマウント」が、言葉のはしばしから出てくるタイプに多いじゃん。ぼくそういうの苦手だ。”


ムスカもきっと、場末の居酒屋の小上がりで、焼酎をウーロンで割って飲みながら、サークルの後輩相手にそうやって恋愛観を語ってうっとうしがられた過去があったんじゃないかと思う。ほら思い出話がはじまるぞ。シータは逃げてほしい。でもそんなあぶない逃げ方はしないほうがいい。






脇目をふる。脇に目をやる。自分から見て、脇。


自分が世の中心にいるわけではない。脇目こそが本道に近いかもしれない。というか、脇目をふるとき、左右のどちらかはおそらく世の中心である。自分の向かう前が中心ということはまずない。


そして世に中心はない。分散型ネットワークには中心点がないのだ。地球の表面において「中心」がどこにもないのといっしょだ。3次元を2次元の地図に展開して、真ん中を日本にするから、ぼくらは日本が真ん中だと思い込んでしまうし、太平洋とか日本海を「右」「左」などと呼ぶんだけれど、本来の地球の表面には「中心」なんてない。そこには球を網羅するネットワークがあるだけだ。右も左も前も後ろも区別がつかなくなるのが、分散型ネットワークの特徴である。宇宙空間に出てしばらくすると、「高さ」と「遠さ」の概念が区別できなくなるように。球面上を歩いていると、どっちが「脇」でどっちが「前」なのかわからなくなっていく。そういう迷い方をする。


脇目をどんどんふる。脇目をきちんとふる。ネットワークの中で何度か同じパルスが通っただけのけもの道を「本道」などと呼ぶことをせず、自分が歩いている道を「本道」だと思い込むこともせず。脇目をふりつづけるなかで、なお、自分の首が自然に戻る部分は、「本道」ではないかもしれないが、自分がなんとなく進んでいきたい方向なんだろう。座頭市のように。ベッケンバウアーのように。草食動物のように。脇目をふりつつ、「前」に向かう。

2020年10月27日火曜日

病理の話(468) 未来の病理診断が今ここに

「Scientific reports」という学術雑誌はなかなか特殊な、いかにも今風の雑誌である。


論文掲載には「査読」といって、複数の人間の審査を経なければいけない。ただし、掲載が決まるまでの時間は早いほうだと思う。すべての論文が「オープンアクセス」といって、誰でもウェブで無料で閲覧できる。


ぼくの勝手なイメージだが、「けっこうよさげな結果を、急いで世に出したい」ときに重宝されているような印象がある。


さてそこにこういう論文が出た。


https://www.nature.com/articles/s41598-020-71737-w


"3D histopathology of human tumours by fast clearing and ultramicroscopy"


”3D histopathology of human tumours...

(訳:3次元組織学 オブ 人間の腫瘍……)


...by fast clearing and ultramicroscopy."

(訳:……迅速組織透明化技術と、ウルトラ顕微鏡によって。)




すごそうな言葉ばかりが並んでいて、そのじつ何が起こっているのかよくわからないと思われるので、ちゃんと解説する。


ふつう、病理医が細胞を評価するときには顕微鏡を使うわけだが、この顕微鏡、虫メガネと違って、そのものにただ近寄っていけば細胞が見えるというわけではない。拡大を上げ続けていくと2つの障害にぶつかる。


1.「拡大をあげればあげるほど、視野が暗くなる。」


小さな面積を拡大していくので、周囲をいくら強く照らしても、構造がよくみえなくなっていくのだ。このことは非常に大きい。


2.「拡大をあげても、細胞の外側ばかり見えてしまい、中身が見えない。」


きわめつけはこれ。細胞というのはゆで卵みたいなものだ。周囲にカラがあり(細胞膜という)、なかに白身と黄身があって、黄身の部分を「核」と呼ぶ。こいつを外からにじりよって観察したところで、見えてくるのはカラばかり。内部を見るのはなかなか大変だということが想像つくだろう。



そこで、これらの問題を一気に解決する手段として、人間はほんとうにかしこいことを考え付いた。


輪切りにするのだ!


タマゴを輪切りにする!


しかも、そのスライスをペラッペラに薄くして、下から強い光をあてる!


こうすると「1」と「2」が一気に解決できる。下から強い光を当てることについてはまあ上から当てても実は一緒やんけと思わなくもないのだが、「スライスする」ことで断面にすれば、カラの内部の構造だって一目瞭然だろう。


そこで「薄切」という技術を使って、組織をペラッペラにする。カンナのおばけみたいなものを使う。


ところがここでひとつ問題が生じた。ペラッペラの組織というのはほとんど透明だったのですよ。だいこんのかつらむきすると向こうが透けて見えるでしょう?


下から光をあてても、薄すぎてなんだかよくわからん、という事態がおとずれた。あちらを立てればこちらが立たず。


で、人間、さらに工夫して、いろいろと細胞を染める技術をためして、最終的に、のび太さんのエッチイー染色というのを考え付いた。正確にはHematoxylin and Eosin (HE)染色という。のび太さんと覚えていい。しずかちゃんだけど。


これを使うと、タマゴの黄身の部分をきっちり染めることができて、なんならカラの部分も繊細に染めることができる。ペラッペラのスライスであってもだ!


というわけで、「薄くペラペラにする」+「色を付ける」+「下から光をあてる」の三位一体攻撃で、わたしたちは普段、細胞をまるはだかにしているのである。エッチイー。





ところが今回のScientific reportsの記事……というか実はそのずいぶん前から、そうだな、10年以上前から、人間達はまったく別の技術開発にとりくんでいたのだ。そこにはあるモンダイ意識があった。いわく……


「薄く切ったら立体構造が見えないじゃん。」


や、ま、そうなんだけどさ! でもそれはもうしかたなくない?


みんながそう思ってたんだけど、いろいろな業界のひとたちが、「組織をまっぷたつにせずに、そのまま透明にして、そこに色をつけて、なんかすごい顕微鏡で見るワザってねぇの?」という開発をはじめたのである。


いやいやそれってすごいぜ。だってまず「組織を切らずに透明にする」ってことだろう。そうしないと光が奥まで届かない。タマゴの中が見えない。


でもこの技術、まじでずーっと開発され続けていた。ぼくが知る限りでも10年弱前にはすでに日本病理学会で発表があったと思う。


そしてこのたび、「めちゃくちゃかんたんに、しかもすばやく組織を透明にできる試薬の組合わせ」がわかったというのだ。それが上記の論文である。


おまけにその透明になったスケスケ組織に、今までのようなHE染色であるとか、各種の免疫染色をそのままやることができるという。さすがにその発想はなかった。


するとどうなるか? 特殊な顕微鏡(ここにも血と汗と涙の歴史がある)をもちいることで、組織をペラッペラのかつらむきにせずとも……まあ実際には完全に切らないというわけにもいかなくて、ブタの角煮の厚さくらいにはしたほうがいいんだけど……組織の構造をみることができるようになった、というのだ!


ぎょえーすごい。3次元構造がみえる! という論文である。この技術をまず発表しておかないと特許とられちゃうだろうから、論文作成者は発表を急いだんだろうな。Scientific reportsに投稿するのもまあわかる。




ただまあ実際に論文を見てみると、これ、「核の中身」まではなかなかみえないね。やっぱり精度はさほどではない。けど、実際の人間の「がん」が、どのように3次元的に進展しているのかをきちんと表現することができている。


これ、たぶんAIと組み合わせると、人間の診断能力を超えると思うよ。それくらい情報が多い。


よーしぼくもこれからは3次元病理医だ。人間の欲望ってのは果てしないな。病理医のエッチイーである。

2020年10月26日月曜日

体幹を鍛えよう

仕事で首や肩周りが重くなるのはまあわかるのだが、最近、家でマンガを読んでいてもあちこちがだるくなる。つまりは体を黙って支えていることがしんどいということだ。


一番らくなのはふらふらしていることである。所在なく歩き回ったり、意味も無くたたずんでいたり、寝っ転がるにしてもキングサイズベッドくらいのソファがあれば便利なんだけどなーと思いながら床の日が当たるところでずっとごろごろ回転している。定常状態でいると必ずどこかの筋肉に負担がかかる、だからいつも加重のかけかたをずらして、ひとつのところに留まらないようにするしかない。


多彩なくらしをすることで、「人生の床ずれ」を起こらなくする。まあかっこよく(?)言うとそういうことになるだろう。しかし、冷静に考えて、これらの面倒な気配りは、「体幹や四肢近位の筋肉をきちんと鍛えておけば必要なくなる」のである。


腹筋と背筋を。体の横側の筋肉を。ふとももや腕を。ムッキムキにしなくてもいい、人並みに鍛えておけばいいのだ。維持できるだけの体力があればいいのだ。そうしたら、また、何時間でも本が読めるし、何も考えずに一日日向に座っていることもできるだろう。


のんびりするためには運動がいる。心を無にするためにも筋肉がいる。




テレビに「20年前、スポーツチャンバラで世界一になった人」が出てきて、ウレタン製のチャンバラ刀を振り回していたのだが、駄々っ子のそれと変わらないように見えた。


ぼくも剣道をしなくなって18年ほど経つ。つまりはああなっている。もはや、していなかったのと同じ状態、いや、「俺も本気を出せばあの頃に戻れる」と感じているぶんだけタチが悪いようにも思う。とりあえず昨日、鬼滅の刃を1巻から読むときに、V字腹筋を足してみた。

2020年10月23日金曜日

病理の話(467) がん細胞を更正できるものなのか

がん細胞は、正常の細胞の性質をある程度兼ね備えたまま、その挙動がおかしくなっている。


たとえば白血病というがんは、「白血球」というだれもがもつ細胞の性質を持っているのだけれど、ちゃんと白血球としては働いてくれず、どこかしら異常になっていて、必要以上に増えたり(増殖異常)、本来の仕事をしなかったり(分化異常)、不死化していたりする。


で、このことを何度かブログに書いているうちに、ある感想をいただいた。


「それぞれの細胞の性質を持っているならガン細胞の記憶をなくして普通の細胞として更正してほしいみたいな気持ちになりました」


まったくそのとおりである。ぼくはよく、がん細胞をチンピラとかヤクザ、マフィアに例えるのだが、彼らを真人間に戻す方法は無いのだろうか?


この発想をおおまじめにすすめて、がん治療に活用できないだろうかと考えている研究者は実際に世界中にいる。ただ、あらゆるがんに「更正」が有効ではないようだ。というかそもそも多くのがんは「更正するには悪事をおかしすぎてしまっている」のである。映画の終盤、更正した悪人が結局死んでしまうシーンを思い出して涙する。レオン一度しか見てないのに覚えてるな。


がんが「悪事をおかしまくっている」というのはどういうことか。これをもうちょっと科学的に書くと、「がんの持っているDNAは異常だらけ」となる。よく、DNAの変異によってがんになる、という言葉があるのだけれど、がん細胞というのはDNAが1,2個変異したようなナマッチョロイものではない。


がん細胞には、少なくても20箇所、多ければ100箇所以上のDNA異常、すなわち「目に見えてやばいプログラムエラー」が存在する。ちいさなミスを入れれば限りない。


一度カンチョーをした小学生を不良とは呼ばないだろう、先生ときちんと話し合えば十分真人間に戻れる。しかし、リーゼントモヒカンにチェーンのついた財布と短ランボンタン、タバコ3本を同時に加えて両手にサバイバルナイフをぶらさげ、マリファナとコカインとハッピーターンを同時に吸引しながら書店で万引きをする高校生がいたらこいつはさすがに更正不可能ではないかと考える。もちろんこれが1名だけだったら児童相談所に連れて行くなり鑑別所に行くなりして一人の人間としての人生をもういちど考えてみようぜと説得するところだが、150万人いたらどうか? おそらくトランプ大統領ではなくても空爆を考えると思う。


そう、がん細胞というのは、異常を数多くもち、徒党を組んでいる。だから薬や放射線などをうまく用いて更正するというのが非常に難しいのである。


ただ研究者というのはあきらめがわるい。完全にマフィア化したがんについては、更正という手段はほとんどあきらめムードなのだけれども、「まだがんになる前の細胞」の、「悪事を起こす予兆」みたいなものだったらなんとか更正できないだろうか? と考えている人はいる。


それはたとえばDNAの異常そのものではなく、その異常を引き起こしがちな「DNAのメチル化」と呼ばれる、DNAの周辺にある異常を人為的に元に戻せないか、みたいな研究だ。まどろっこしいね。言ってみれば、高校生の男のコは多感な時期だけどまだまともなカッコウをしている、しかしその家ではしょっちゅうテレビでVシネマがかかっていて、毎日暴力・淫靡・R-150指定くらいのヤバヤバ動画が放送されている、となるとこれはいずれ高校生もぐれるかもしれないだろう。そういうときに、「テレビ消しましょうねー」と指導を入れる、みたいなイメージだ。


えっこれ難しいんじゃない? と思っていただきたい。その直感は重要である。なにせ、この高校生の周りの家にも多くの住人がいて、彼らもまたテレビを見るのだ。ただしみんなが見ているのはイッテQだったり復活した徳井だったり、あるいはテレビではなくYouTubeやネトフリであったりするのだけれど、町内放送で「お前ら全員テレビ消せ」とやるわけにはいかないだろう。そう、がん細胞の周りには通常の細胞がいるので、これらをまとめて調整しようとするとなかなか大変なのである。


ただそれでも、マフィア化したアホどもを真人間に戻すよりは可能性がある。このため今の日本では、「エピジェネティクス」とよばれる、DNAそのものの異常ではなくてその前段階、あるいは周辺にある情報の異常についての解析がとても進んでいるのである。

2020年10月22日木曜日

じりじりと溜めている

先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたことなのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものをあらかじめ決めておくそうだ。そうしないと途中で話がうまく転がらなくなる、とのこと。

それに対して、ぼくはとにかく一行目を置き、そこに連結させて書くタイプの書き方をする。

たとえばこのブログは完全にそうだ。具体的に言うと、今日の記事もそうだ。頭の中に何も無い状態から、先ほどたまたま「じりじりと溜めている」という文章がポンと出てきて、同時に、言語になっていないモヤモヤとしたものの手触りが浮かんだ。こういうことが一日の中に何度かある。で、そのとき偶然PCの前にいれば、ああこれはブログでいけるやつだな、とわかるので、浮かんだ10文字程度の謎フレーズ+モヤモヤの感触から「連想」される文字を、何も書かれていないブログ記事入力欄にキータッチする。今日はそれがたまたま

「先日先輩といんよう!で話していたこと」

だった。

この書き出しは、さきほどの「じりじりと溜めている」や「モヤモヤ」とは一見つながらないように思われるかもしれないが、ぼくの脳内ではシナプスの連携のふんいきが近い。たぶん似た場所で駆動している。もう人には説明しづらいんだけれど、ぼくの中ではなんとなくわかる。だってぼくの脳だから。

フッと連想されたフレーズに、カギカッコをつけてカッコをつけて、文章的な体裁を整えているうちに、あ、やっぱ書けそうだな、という気持ちになって、次の文章を連想ゲーム的につなげる作業に入る。

「先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたこと なのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものを」

このあたりで実は思考がスパークしており、モヤモヤが目の前で無数に凝集して、集まった点が全部光って言葉やフレーズになって具現化して、地面にポトポトとおちる。モヤが雲になってあられが降って地面に積もっていくかんじ。霧のつぶひとつひとつがエピソードや単語になったら、思考のピントをそのつぶつぶに順番に合わせていく。手に取れそうなものをゆっくり組み立てていくと文章になるし、モヤモヤ全体をぼんやり見通すと文章のオチもなんとなくわかる。今日の場合、「じりじりと溜めている」というフレーズと「先日先輩と」が先に結晶したあられであり、これらを見て、ああそうか、ぼくは今日、文章の書き方についての話を言語化するのだな、と俯瞰して納得する。この時点で今日の記事を作る部品の一覧はだいたい思い浮かんでいる。ただし、構成はまだ思い浮かばない。

構成が思い浮かぶということは目次が思い浮かぶということだ。商業的な文章を書くときは、とりあえず一行目を書いて、イメージが具現化してあられが降り出したら、その時点でいったん文章を作る手を止めて、目次を作る。

あるいは、この段階で編集者に目次を与えてもらうこともある。というか最近書いた本は基本的にそうやって作っている。ぼくの中でひそかにモヤモヤがあられになった時点で編集者と本の雰囲気を相談し、目次をもらって、あられの中から使えそうなものを拾って組み立てると一冊の本になる。そうやって作った本はもはやぼくの単独作品ではないが、多くの人に読まれることを意識してきたプロの編集者が作った目次は必ずいい本に結実する。



本格的に書く前に目次を作るってのは、「あらかじめ何を書くかを決めてから書き始める」ことと同じじゃないの、と思われるかもしれない。

けれどもぼくの中では微妙に違う。とにかく最初の一行やワンフレーズが唐突に出てこないと、そこからつなげていくという感覚がないと、ぼくは本能的に……というか嗜好性として自分の書いた物に飽きてしまうのだ。

執筆中に思考の衝突がない文章を書きたくない。あらかじめ文章の展開を完全に考えてしまうと、それはもう書かなくてはいいではないか、と思う。だってぼくの中では結論して解決してしまったのだから。プロットが練られすぎたものを書こうと思ったことが何度かある、たとえばそれはSNS医療のカタチのnoteなどで一度やろうと思った。しかし、執筆のモチベーションが急激に低下して途中で消してしまった。「展開が完全には決まっていない文章」じゃないと、楽しく書けない。楽しく書けないものは続かない。もちろんあくまでこれはぼくの場合ではある。世の中にはぼくじゃない人のほうが多い。

むかし、「ミシシッピー殺人事件」というゲームがあって、非常に難易度が高く理不尽なクソゲーだったのだけれど、あのゲームでは登場人物に話を聞いた後、なんかよくわからなかったなーと思ってもう一度尋ねると「さっきはなしましたよ」「もういいました」とにべもなく断られ、重要な情報が二度と手に入らない。なんてひどいゲームなんだ、と笑ってしまうわけだが、実際ぼくの脳というのはしょっちゅう「さっきはなしましたよ」「もういいました」「けつろんはでました」「それはもうすんだはなしです」と言う。ヘンな話だが自分の思考相手に自分の脳がそう語る。先が見えた話をそれ以上深掘りしているひまがあったら、まだ見ぬモヤモヤを言語化するほうに脳のリソースを使いたい。究極的には本能のレベルの話をしており、ここはおそらくなかなか変えようがない。

おそらくぼくの文章というのは、エッセイはおろか教科書や論文を含むあらゆる学術的な文章もすべて、誰よりも自分のモヤモヤを解決するため、自分のために書いているごく私的な日記の延長に過ぎない。だから仮に今の病理医という仕事をやめてしまうと、文章だけでは食っていけないだろう。「誰かがよろこんで読むために」「誰かがくるしんで読むために」「誰かがにやりとしながら読むために」「誰かがぐっと考え込むために」書く文章には、もっと丁寧で重厚な計算と下準備、やさしさ、ふんばる力があったほうがいい。プロットをきちんと汲んで、「こうお膳立てをすればあなたにはこの豊潤な世界がすべて伝わるのではないか」と考える作家の仕事を、ぼくは心から尊敬している。「ああ、そうやってあなたのすばらしい脳内風景をぼくに見せてくれたんですね」と、おかざき真里先生とか恵三朗先生とか、ああマンガ家ってみんなそうなんだよな、きりがない、作家もエッセイストも哲学者もみんなほんとうに字の一画一画にまで魂が籠もっていて感動してしまう、一方のぼくはやはり作家ではない。仕事として文章を書いているかどうかとは関係なく、性根の部分がどうしても、「自分のモヤモヤのためにだけ文章を書いている」。



田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」という名著があり、自分もまったくこれをやるべきだなと感心した。しかし、ぼくの場合はさらにもう少しひねくれてしまっている。自分が書きあげたものは、すでに自分の中のモヤモヤが文章になっている、文章化することに成功したプロダクトなので、できあがった瞬間からもはや読みたくない。ぼくは自分の書いたものをあとから見直すのが好きじゃない。執筆中は、「こんなことが書いてあったらぼくなら読みたくなるだろうな」と思って書いている、それは確かなのだ、その意味では「読みたいことを、書けばいい。」の精神をがんばって突き詰めているのだけれど、「心の中にあって読み解きたいけれど読めない状態のものを、読める状態にするために書く」こと自体が目的だったため、書き終わったら別にもう読まなくていいやと思う。だってそのはなしは、「もういいました」。





頭の中で言語化されていないモヤモヤを溜めている。じりじりと溜めている。言語化された順番にぼくに飽きられていく。だからとにかくモヤモヤを溜めておく。ときおりそこからポンと生まれてくるフレーズがあり、そのフレーズに手を出せば芋づる式に、「先日先輩と」みたいな単語がボロボロボロボロ具現化して、それらをつなぎあわせていくと文章になり、書き終わって、飽きて、次のモヤモヤを探す。じりじりと溜めているから、まだ書ける。じりじりと溜めている。能動的に? いや、中動態的に。じりじりと溜めらさっている。一行目を書くとスッと出て行く。便秘に浣腸みたいなもんだ、と、後藤隊長は言った。なんだこれ浣腸か。

2020年10月21日水曜日

病理の話(466) 教えてもらわないとわからない

ベテランの小児科医が、大量の論文を持ってデスクにやってきた。人間は察する動物である。何も言われなくてもまずは論文の束を受け取って頭を下げる。


「ありがとうございます! 読みます!」


説明を受けながら、年代順に並べ替える。ぼくはある領域の論文をまとまった量読むとき、発行された時系列順に読むことが多い。まあ、時と場合によるけれど。


8本ほどあった論文を並べ替えている間、小児科医は次のように言った。


「この患者さん、この患者さん、あとこの患者さんの病理所見を、この論文に書いてあるポイントを見ながら、もういちど見直してほしいんです」


○年前、△年前、1○年前。むかしの患者さんたちの病理番号が次々とリストアップされている。


ぼくは答える。「わかりました! 勉強して見直します」


「どうもすみません、お忙しいところ……よろしくお願いします」





病理医は患者から採取された小さな組織を元に「診断」をする。このとき、細胞をどのような見方でチェックして結論を下すか? それは個々人の裁量による……わけではなく、多くの先行研究者たちが「たぶんこの項目を見ておくとよいよ」と調べてくれた意見を元に行う。主観バリバリで評価してはいけない。もっとも、完全な客観というものはこの世の中には存在しないのだが。


先達がすでに開発したチェック項目を見る。臓器ごとに異なる。病気ごとに異なる。膨大で、それぞれに細かく決まっている。「だから」、病理診断医という専門職が存在する。


さて、このチェック項目、時代とともに変わる。増えていく。

「これまではみんながあまり着目していなかった、細胞のこのような変化や、出現している細胞の種類、量などを、もうちょっと違う観点でみたほうがいいよ。」

このような論文が、今この瞬間にも出続けている。

科学というのは基本的に後退しない。あとになればなるほど診断が鋭く、かつ細かくなる傾向にある。


すなわち、細胞をみる病理医は、もちろん、全身のありとあらゆる臓器について、細胞の見方を時代とともにアップデートしていかなければいけない!


建前はそうなんだけどぶっちゃけそんなの無理だ。全身にどれだけ細胞があると思っているのだ。頭皮から目、鼻、耳、口、くちびる、口の中、舌、舌のうらにある唾液腺、歯茎、のどちんこ、扁桃、のどの粘膜、うー本当はこうやって全身のあらゆる臓器の話をしようと思ったけれど、まだ口の段階ですでに飽きてしまった。そもそも目だって鼻だってもっと細かく分けられるし……。


では病理医はどうするか? ある時点で自分が勉強した項目に満足して、そこからは時代がどう動こうが、自分の信じた診断方法で延々と細胞を見続けるのか?


平成15年の基準で病気を診断しても、99.9%くらいは病気の本質に迫れる。しかし、令和2年の基準で病気を診断することで、99.99%くらいまで確度が上がる。平成15年の知識でいつまでも診断していることは、0.09%分、患者の不利益になる……。


微々たるもんじゃん、と言ってはいけない。


ときには、平成15年の基準で行う診断が、40%くらいしか病気の本質をえぐっていないこともある。こういう難しい病気は、令和2年の基準を用いても、43%くらいまでしかパワーアップできていないものだ。しかし、この3%を積み重ねていくこと、解像度をいつまでも上げ続けていくことで、昨日は治らなかった患者に対して、明日もう少しましな治療ができるようになるかもしれない。


すなわち病理医はアップデートを怠ってはいけない。しかしこのアップデート、膨大である。ウィンドウズアップデートよりも項目が多い。じゃあどうしたらよいか?



一緒に仕事をしている臨床医たちに手伝ってもらう。もうこれしかない。自分の努力でがんばれる度合いには限界がある。ほんとうに専門的な、マニアックな、高度で難しい部分については、あらかじめ臨床医に


「何か進展があったらいつでも教えてください、その領域の最新の論文をぼくに教えてください」


と言っておく。これしかない!!


先ほど小児科医がもってきた論文はいずれも、病理学の論文ではない。小児科系の雑誌のうち、ある特定の病気の、さらに込み入った病態について述べられた、小児科医向けの論文ばかりだ。さすがにそういうところまでぼくは普段カバーしていない。


だからありがたい。これを小児科医がぼくに持ってきたということは、「この領域の最新の診療をするために、病理医はここまで知っておいたほうがいい」ということだからだ。






8本の論文を読んでいく。難しい。知らないことが書いてある。それを知るために別のものを読む。難しい。病理のこともちゃんと書いてある。ここは見覚えがある。聞いたことのないチェック項目がある。えっ、そんなとこまで見たほうがいいのか。いやまてよ。論文の著者たちも、あまり言い切っている雰囲気でもない……つまり、これは、「試しにやってみました」ということか。


一年に一度診断するかしないか、くらいの頻度のマニアックな診断について、100年分くらいのボリュームを一気に勉強する。少し目が変わった気もする。さあ、この目を用いて、もう一度、過去に診断した標本を見直そう。



……うーん……この論文、ほんとうなのかなあ……。あまりそうは見えないなあ……。


あっ、この所見は、大事かも知れない。本当だ! でもこれって意味がある所見なのかなあ……。





一週間後に小児科医と話す。おもしろい論文だった、実際に顕微鏡も見てみた、あまりそのまま受け取れるような内容ではないのだが、この項目とこの項目については引きつづき検討する価値があると思う、ただし過去の診断をひっくり返せるほど力のある論文ではないようにも思う……。


小児科医が頭を下げる。ぼくはそれより低く頭を下げて論文を持ってきてくれたことへのお礼を述べる。最後は土下座合戦になる。

2020年10月20日火曜日

ほめられが発生

書いたっけ?


書いたかもしれない。


まあいいか。ほめられた。それも、声を。


ある企画で、ぼくはナレーションを担当することになった。オープニングとエンディング部分で少ししゃべる。その収録を先日やったのだが、どれもこれも一発OKであった。よかった。


で、ほめられた。


「いやーいいですね、すばらしいですよ」


そこで反射的に謙遜しそうになり、そこからハンドルを切って、このように答えた。


「いやーそれほどでもな、……


……


はい、これでみなさんのお役に立てれば何よりです」






これはたぶん成長だと思う。これまでのぼくは誰かといっしょに仕事をするときに謙遜ばかりしていた。


謙遜しないのは本職の病理診断と画像・病理対比のとき。ここでは自分の仕事に自信があることを前に出さないと診断自体の価値が下がるから、「ぼくの診断は100%(の責任を負う覚悟で発言しているもの)です。」とはっきり言わないといけない。


しかしそれ以外の、物を書くとか、人前でしゃべるとか、絵を描くとか、なんでもいいんだけど、もろもろに対しては謙遜で何重にもくるんでいた。


それをやめた。今回、瞬間的に思ってやめた。これからはやめる。




お金をもらっていないから。


本来の仕事じゃないから。


訓練をしたことがないから。


自分に自信がないから。


そういうのとは関係なく、ほめられたら、「ありがとうございます」と返す。そこからはじめたほうが、中年のぼくの周りはどうやらうまく回るのだ、ということをばくぜんと考えた。



ただそれだけのことにたどり着くにも膨大な試行錯誤が必要だった。振り返って、あそこで気づいていれば、と思うことが、なくもない。


でも無理なのだ。ぼくはほかにも「ぶつかって、気づいて、変えること」をいっぱい通り過ぎてきた。すべては順番だったのだと思う。ほかに変えるものを次々変えている中で、今回たまたま、「謙遜の使い方」を少しアレンジした。まあ、ようやくだなあ、というところである。