2021年6月25日金曜日

病理の話(549) チールニールゼンとの戦い

超絶マニアックな話ですので肩の力を抜いて2,3回ジャンプして体をほぐしてから読んでください。



「肺がんの疑い」がある患者の話をする(架空の患者だ。しかし、今日の話に似た経過をたどる人はそれなりの頻度で存在する)。

肺に影があることがわかった。レントゲンだとわかりづらいが、CTだとはっきり見える。せいぜい、1 cmと言ったところか。小さい。

その影は、内部が空洞化している。穴のへりの部分に、何やら「できもの」が取り巻いているように見える。まるで小さなドーナツだ。

※実際にはドーナツの形ではなく、中が空洞になったピロシキやポットパイのような形状である。しかし、CTは輪切りにして断面を見る検査なので、ドーナツのように見える。

「ドーナツ」の周囲は毛羽立っており、なんらかの細胞が、周りの肺に向かって染み込んでいるところを想像させる。


もしかするとこの病変はがんではないかと考える。がんがマリモのように育ちながら周りに染み込んでいく過程で、マリモの中心部が荒廃して脱落し、内部がポットパイ的に空洞化することがある。


しかし、がん以外にも、このような形をとる病気はいくつかある。その代表が結核だ。

結核というと、咳をして、血を吐いて、沖田総司、みたいなイメージがある。しかし実際にはさまざまなスタイルをとる。必ずしもゲホゲホ咳き込んでいる人ばかりが結核なわけではない。無症状の結核というのも近年じわじわと増えてきている。


この小さな1 cmの病変が、がんなのか、結核なのか。

まるで治療法が違う。

1 cm程度のがんならば、肺をそれなりに大きく切り取り、肺の近くにあるリンパ節まで切り取る「手術治療」を選ぶことが多い(特に今回の、空洞をつくるようながんならば)。

しかし、結核だったとしたら、肺を切り取っても根治しない。抗生物質を投与しなければいけない。

大きな手術をするか? 抗生物質中心の治療をするか? がんか結核かでぜんぜん違う。じゃあ、どうやってこの二つを見極めるのか。


じつは、体に傷をつけないで行う検査では、この2つを厳密に見分けられないことがある。血液検査をしようとも、CTを丹念に見ようとも、「がんっぽい」「結核かも」まではたどり着くのだが、確定診断まではいかないのだ。


そこで……まず、手術をする。


ただし、激しく大きな手術をするのではない。1 cmのポットパイが含まれたところだけを、小さく切り取る。


そして、病理医にわたす。手術の真っ最中に。


病理医は小さく切り取られた肺を、ビニール袋で包んだまま、袋の口から手だけ入れて、ナイフでそっと切って、病変を目で見る。


空洞の中からとろりと、何かがとけて出た。そして……空洞の中に残る、ぼそぼその、チーズのような物質。


「あっ……結核の可能性が高いな」と判断する。結核の病変には乾酪壊死(かんらくえし)と呼ばれる、独特の変化が出るからだ。


手術室にそのことを伝える。外科医は病理医の見立てを信じて、この病変が「おそらく結核であろうと判断」し、それ以上傷をひろげることなく、肺の一部を切り取っただけで手術を終了とする。


もし、病理医の見立てが「がん」だったなら、外科医は手術をそのまま続行して、残りの肺をだいぶ大きく切除し、リンパ節もとった。


でも、病理医が「結核っぽい」と言ったから、肺を切る作業はそこまでにして、手術を終えた。





切り取ってきた肺の一部は、ホルマリンに漬けられる。しばらく置いておけば、結核菌の感染性はなくなり、安心して標本作製作業に入れる。


病理医は、プレパラートになった病気を、顕微鏡で、じっくり見る。まずは対物レンズを2倍にあわせ、4倍に拡大し、10倍、20倍、40倍、60倍まで観察。これとは別に、接眼レンズでも10倍の拡大がなされるから、最終的には60×10=600倍の視野での観察となる。


そこまで細かく観察して、いったい、何を見るのか? なんと、「結核菌」そのものだ。チール・ニールゼン染色という特殊な染色を使うと、結核菌は目で見られるようになる。


病理医がチール・ニールゼン染色で赤く染まる結核菌を見つけることができれば、手術中の見立ては正しかったということだ。ここまで、CTで空洞をみつけ、手術中に中を直接見て、チーズのような乾酪壊死まで確認したけれど、これらはいずれも、「犯人が引き起こした犯罪の痕」でしかない。犯人そのもの=菌体を直接観察したわけではない。


だから、病理医は最後に、結核菌を直接目で見て逮捕しなければいけない。




この作業は、相当しんどい。


目で見て明らかに病変がある1 cm大のカタマリ(内部は空洞化)。たった1 cmだが、600倍という高い倍率で観察すると、100視野か、200視野か、とにかく相当じっくり見ないと、全貌を見られない。


おまけに、この1 cmの範囲に、目でわかるような結核菌は……せいぜい、1個か2個、くらいしか見つからないのがザラだ。


体感でいうと、ウォーリーを探せの一番難しいやつでウォーリーを探し出すよりもちょっと難しいくらいの作業になる。しかも菌体はドチャクソに小さい。病理医になって10年未満の人だとほとんど見つけられないこともある。コツと根気と経験が必要な作業である。




病理医は、手術中に、「これは結核菌のしわざだ」と見抜いて、外科医に手術をそれ以上勧めなくていいよと進言している。だからその責任をとって、しっかりと犯人捜しをする。この作業はけっこうしんどい。ぼくはチール・ニールゼン染色を見る時間帯は午前中と決めている。疲労が溜まってきた夕方にチールを見るのは相当しんどくて、見逃すリスクが上がると考えているからだ。心を落ち着けて、体に元気がみなぎっていないと、結核菌探しははかどらない。そうやって、自分の判断に、責任をのっけてケリをつけるのである。

2021年6月24日木曜日

まちカドかがく

『まちカドかがく』を読んでいたら普通におもしろくて笑ってしまった。文庫の体裁で作ってもらって、いわゆる「普通の本」の顔をして本棚に収まっている。


編集者の介入がなく、それぞれの著者がそれぞれに書いたことがそのまま載っているだけ。文フリで出した同人誌のままである(ただし校正は入れていただいた。また、浅生鴨さんの前書きと後書き、対談を新たに載せてもらったので完全にイコールではない)。本としての完成度が低くなる部分があるとしたらそれは「編集の不在」によるものだよなと内心気を揉んでいたが、できあがったものを読んでみても違和は感じない。物語には物語の、論考には論考の、味わいと奥深さがきちんとそこにある。硬くなっていた肩をもみほぐす。


ぼくの書いた文章はボリュームでいうと10分の1くらいしかない。一番稚拙なぼくの小説が全体のクオリティを下げずに済んだ、と結論してもよい。ただ、ぼくは自分の書いたものを読みながら、いや、これは人に勧めても大丈夫だ、と途中から少し胸を張った。小説としてとりわけ優れた技巧があるわけでなく、市場との摺り合わせも一切行っていないが、ここには確かにぼくの精神世界が存在している。そんなものを自分が短くも書けたことに、なんというか、満足感というか達成感があるし、ぼくが普段使っている脳をそのままドライブさせて生まれた文章を世に出すことは、ツイートをしたり仕事相手と議論したりするのと同じように、これがぼくの回路だと世に話しかけるコミュニケーションの一環である。自分の回路、それはおそらくブラックボックスで中は見えない迷路なのだが、ここに何を流し込んだらどういうものが出力されるのかをさまざまな方法で見ることがひとつながりの人生になるのだと思う。


https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784991061462 (まちカドかがく 版元ドットコム)


版元ドットコムを貼っておいてあれだがKindle unlimitedに入っているとなんとこれ無料で読める。どういう仕組みなんだ。すごいな。




ぼくの書いた小説『FFPE』は、病理検査室で用いる専門用語であるFFPE (formalin fixed, paraffin embedded)、すなわち「ホルマリン固定+パラフィン包埋」に対する言葉遊びである。ホルマリンをフィクションに、パラフィンをプロットに入れ替えて、Fiction fixed, plot embedded。

ぼくらは日ごろ、外界からやってきた現象を五感で受け止めて脳に運び、各人が育てた虚構(フィクション)の中に浸漬して変性させて固定する。物理世界のそのものずばりを認識しているわけではなく、必ずお手持ちの物語をブレンドして変化させてから認識しているということだ。このことは、クオリアでもイデアでも物自体でも何でもいいが、科学と哲学がくり返し指摘してきた。

外部の刺激は変性させられるだけでなく、都合のいいように並べ替えられる。すり減るほどに日常遣いしている各人固有のプロットに沿って、ストーリーとして組み上げられる。アニメの絵コンテの順序を入れ替えるようなことが誰の脳でも起こっている。「もともとの配置」とは多少なりとも異なった物語が人それぞれに脳の中で完成する。矛盾など自覚できるはずもない。「言った言わないの議論」が進化の過程で解決できなかったのはなぜだろうと昔から不思議に思っていたが、なんとなく最近その理由がわかった気がする。一度理解したことがあるプロットに埋め込むことで、ぼくらは生(き)のストーリーにナレーション narrationを付けて読むことができる。それをナラティブ narrativeと言う。

Fiction fixed, plot embedded. 病理診断ではFFPEを遂行してしまえば検体の時は止まる。文字通り固定され、永久標本と呼ばれ、病院の倉庫で何年でも保管可能となる。では精神のFFPEを行わない、行えない人間がいたら、その人はいったい精神の倉庫をどのように整頓するだろう。じっさい、書いてみて、ははあぼくはこんなことを考えたかったのか、なるほどそういう回路を持っているよなあ、と我ながら感心したものである。『まちカドかがく』のFFPEでぼくは芥川賞を狙ったが、残念ながらノミネートには漏れた。一世一代の作品であり、せめて多くの人に読んでほしいなと願っている。



http://www.hanmoto.com/nekonosuf (まちカドかがく ネコノスの書店FAX用紙)

2021年6月23日水曜日

病理の話(548) モノクローナルジャスコ

体の中では、さまざまな細胞が複雑に入り乱れ、フクザツに活動している。この様子をイオンモールに例える。


イオンモールの中には服飾、雑貨、アウトドア、飲食など多彩なお店が揃っている。ただしこれらは完全にランダムに配置されているわけではなく、2階のあっち側には服の店が多いとか、3階のこっち側にはフードコートがあって飲食店ばかりだといったように、場所ごとに店の種類がある程度偏っていて、きちんと傾向がある。シャツを買いに来た人は、近い範囲で違う店をたくさん回れるから便利だし、お腹がすいたらフードコートを見回せば選択肢が多くて選びやすい。

ただし、「同じような店がある」とは言っても、「同じ店がある」わけではない。ユニクロが2階にも3階にも両方あるなんてことはないし、丸亀製麺が5店舗横並びということはない。それだとお互いに足を引っ張り合って売上げが落ちるだろう。


体の中でもこれと似たようなことが起こっている。たとえば胃粘膜においては、粘膜の表層で胃を保護する腺窩上皮という「防御型」の細胞と、胃酸の主成分である塩酸を作り出す壁細胞という「攻撃型」の細胞、ペプシノーゲン(胃内でペプシンという消化酵素に変化する)を作り出す主細胞という「攻撃型2」の細胞などがいりまじっている。これらはそれぞれ、同じ胃という臓器の機能を担っている以上、「同じジャンルの店」であるが、売っている商品は異なっている。アズールとコムサイズムとイッカはいずれもファッションの店だが雰囲気はすべて違うだろう。一方で、胃には呼吸上皮は存在しないし肝細胞も存在しない。まるで違う仕事をする細胞は存在しないのである。フードコートにモンベルやニコアンド・・・があっては不便だ、それと一緒。


また、胃の中で、腺窩上皮だけがごっそり集まるということは起こらない。防御をしつつ胃酸もペプシンも分泌するからこその胃であって、防御ばかりを固めても役に立たない。ヴィレッジヴァンガードが15店舗横並びになったフロアがあれば、(Twitterに写真をあげればバズるかもしれないが)少なくとも売上げ的には厳しいはずである。


では、現実に胃を眺めていて、「ある一箇所に似たような細胞ばかりがどんどん増えている」という状態があるか。正常である限りそういうことは起こらない。逆に言えば、病気だとそういうことは起こる。誰もが知っている病気である「がん」がまさにそういう状態だ。


がんでは、ある一つの細胞が遺伝子の異常によって際限なく細胞分裂をする。ふつう、体内にある細胞は一定の寿命を持っており、細胞分裂するタイミングも回数もきちんとコントロールされているから、無尽蔵に増えまくって徒党を組むことはない。しかし、がんは「無尽蔵に増える」。元はたった一つの異常な細胞なのだけれど、とにかく増えまくる。その様子はあたかも、イオンの中でGLOBAL WORKばかりが妙に元気になってフロア全体を埋め尽くすようなものだ。ライトオンは滅びる。ジーユーも生きていけない。フードコートのペッパーランチもマックも撤退せざるを得ない。なんならトイレもなくなるし駐車場も破壊される。


GLOBAL WORKという単一起源のお店だけが増える状態を、「モノクローナルな増殖」と呼ぶ。モノ=単一(モノラルとかモノアイのモノ)、クローナル←クローン(同じような遺伝情報を持つ細胞のこと)。ほんとうは手分けして必要な数だけそこにあるはずの細胞が妙にカタマリを作って増えてしまう。顕微鏡でその雰囲気を早期に見出すことができれば、イオンの統括マネージャーはGLOBAL WORKがフロアを埋め尽くす前に店を潰してかわりに靴下屋か何かに変えてしまうことができる。こうしてイオンは守られる。ただし場末のイオンにおいてはフロアの反対側でジャスコモールがモノクローナルに増えていることを見逃してはならない……。

2021年6月22日火曜日

鑑別診断の技術

楽天ファッションアプーリ ラララ 楽天 ファッション アプーリ と歌って踊っているCMがあるのだが、あれずっと浜辺美波だと思っていた。ん? と思って検索したら清野菜名だった。くらべてみたら別に似ていなかった。「若い女優さんがみんな同じに見える現象」がついにぼくにもやってきたのだ。つまりは違う世界で暮らす違う種になっている。


ぼくはハムスターの顔の差がわからない。みんな同じハムに見える。ハムスターはヒトの顔をどれだけ見分けているだろうか。チンパンジーくらい賢ければヒトを見分けるのだろうか。でもぼくはチンパンジーも見分けが付かない。象もカブトムシも、犬ネコであっても、誰が誰やら区別できない。それはつまりぼくが「違う種」だからなのだろう。ヒトであるぼくはヒトしか見分けられない。訓練しない限り。


しかしぼくは今、女優さんの見分けが付かなくなっている。住む世界が違うということか。食べるものも暮らしぶりも違うといえば違う。言葉も通じない可能性もある。意思疎通できるかどうか怪しい。目で見て区別が付かないことに種としての断絶を感じる。



昔は見分けていた物がだんだん見分けられなくなる、という現象を感じることもある。スマホゲームがどれも一緒に見える。走る車もだいたい同じに見えている。道行く青少年たちの見極めもあやしいものだ。心的なストレスによって認知がおぼつかなくなる現象もあるとは聞くのだけれど、ぼくの場合、現時点でツイッターのアイコンは瞬時に峻別できるし細胞診断にも問題がない。40代半ばくらいの人間は滋味をもって見分けが付く。科学読み物の文体、オルタナティブロックのベース音。脳が「ここだけちゃんと見ておきなさい」と専門化していると考えた方がしっくりくる。昔はそうじゃなかったのだから脳は可塑的だということだ。ぼくはここしか分けなくてよくなった。ぼくはここだけ分けて毎日を暮らしている。ぼくはここを分ければいいのだと、脳が心を言いくるめにかかる。

2021年6月21日月曜日

病理の話(547) 親水せんのかーい

体の中からとってきた細胞を、光学顕微鏡で観察するうえでは、「うすーく切って色をつけて、下から光を当てて見る」のが最強である。最強? なにが? と聞かれると困るのだが、ほどよい倍率をすばらしい解像度で見るためにはこのパターンがもっとも優れている。


この、

・薄く切る

が非常に難しい。カンナのおばけのようなミクロトームという刃物で、シャッと切った厚さはじつに4 μm(マイクロメートル)だ。完全に向こうが透ける薄さである。石川五ェ門もびっくり、技師さんの技術はすごい。


ただ、いくら技師さんの技術がすごくても、体内からとってきた組織がフニャフニャだったり、逆にゴツゴツしていたり、あるいはいびつに歪んでいたりすると、そう簡単には薄く切れない。

例え話をする。ここに、栗の実、カマボコ、ほうれん草、ナルトといった具材がある。これらを、「いつも同じテンションでカタンカタンと包丁を上下に動かしているペッパー君的ロボット」に、きれいに切りなさいと言ってもまず間違いなく失敗するだろう。栗はふっとび、ほうれん草はしなっと包丁を受け止めてうまく切れない。

そこでどうするか? すべての具材を茶碗蒸しにして固めてしまうのだ。煮こごりでもよい。

「基材」に埋没させてしまえばいいのである。そうすればペッパー君のカタンカタン包丁でもまとめてうまく切れるだろう。


ということで、体内からとってきた細胞も、茶碗蒸しならぬパラフィンという物質に埋没させる。パラフィンは溶ける温度が60度くらいで、常温では固体になるので便利なのだ。溶かして流して固めればすぐに「細胞茶碗蒸し」が完成する。


ただしここで……注意点がある。体内からとってきた組織をそのままロウで包むとうまくなじまない。なぜなら、パラフィンは「非親水性」だからだ。水をはじく。

ロウソクのロウをスキー板の裏に塗るとよくすべるようになる(北海道民にはおなじみ)。これといっしょで、簡単にいうと、ただパラフィンで組織を包んでもなんかはじかれてスキマができてしまう。


だからパラフィンの中に組織を埋没させる前に、まず脱水を行う。といっても細胞をしぼって水を出せば組織はかんたんに壊れてしまうので、ここでなかなか手の込んだことをする。エタノールに浸すのだ。それも何度も何度も。そうやってだんだん水分を取り除く。最終的にはエタノールをさらにキシレンやトルエンなどの有機溶剤に置き換えることで、完全に水分がいなくなったら、ようやくそこでパラフィンを流し込む。すると組織の中には(外だけではなく内部にも)しっかりとパラフィンが流れ込むのである。



こうして、組織は慎重に脱水されながらパラフィンで埋められて茶碗蒸しになる。これをようやく技師さんがスライスする。透明な膜のような顕微鏡標本ができあがる。でもこれはペラペラに薄くて、そのままでは顕微鏡で見てもなんだかよくわからない。


だから次は色を付ける。細胞の形状がわかりやすくなるような染色を行うのだ。しかしここで次の問題が出てくる。じつは、染色は「水彩画」なのである。水を含む染色液を使うのだが、パラフィンが含まれた検体は水をはじいてしまう。アァー今度はパラフィンが邪魔やんけ。


ということで今度は脱パラフィン(脱パラ)と呼ばれる作業を加える。ペラペラの組織をキシレンにひたしてパラフィンを流しとり、次はエタノールにひたして、そう、さっきと逆の行程を踏んで、だんだんと組織が水になじむ環境に返していく。最終的にエタノールの濃度を下げていくことで水溶性の染色液で染めることが可能になるのだ。



というわけで、細胞からは水を奪ったりまた戻したり、反復が行われて、ようやく細胞には色が付く。


最終的にこれを顕微鏡でみるのだけれど、多彩な行程を通った4 μmのスライスは、そのままだと表面がわずかに毛羽立っている。この些細な毛羽立ちは、顕微鏡で観察するとこれがまあ見事に邪魔で、光が乱反射して、なんだか陰影が強調されてしまってうまく見られない。そこで、検体の表面からオイル的なものをたらしてカバーガラスをかける(スライドガラスの上にカバーガラスをかけたことがある人は多いだろう)。このオイル的なものを封入剤と言うのだが……なんと……いやむしろ予想通り……封入剤はオイルというだけあって(たいていは)非親水なのである。


またかよ! 染色しおわった組織は水になじんでいるから、そのままだとオイル的なものをはじく。だから、再び細胞から水をのぞくためにエタノールをぶっかけて、キシレンで置換して……とやってようやくプレパラートが完成するのである。


親水→疎水→親水→疎水。ドリルすんのかいせんのかい的反復のすえに、ぼくらはとてもきれいなプレパラートを使って、ようやく細胞に何が起こっているのかを見定めにいく。

2021年6月18日金曜日

怒らないことだ

たとえばあなたが、「いわゆるニセ科学を信じている人」を見たとする。


そこで、

「ニセ科学は論理的に破綻しているのだから、ていねいに、やさしく、しっかりした論理の科学を語り続ければ、いつかそのアヤシサに気づいて、ニセ科学を捨ててくれるはずだ」

と考えること自体は、いいと思う。

でも、そのやりかたはたぶん、あまり通用しない。

そもそも、「丁寧に論理を追いかけていくやりかた」でニセ科学を捨てられるような人は、そもそも最初から、ニセ科学に自分の身を委ねない。


「論理が破綻していようがいまいが関係ない。ニセ科学のほうが自分に安心を与えてくれる」

という考え方は現実に存在するし、

「正しいほうの科学が別にあることなんて、とっくにわかっている。でも、正しさはこれまで自分を傷つけてきたから、正しさを基準にしてもいいことはない」

という考え方もある。





科学が人を救うとき、そのありがたみは、小さいころから「論理を積み重ねることで得をした経験」がある人ほど強く感じられるように思う。


「なるほど、理路整然としているとこんなに美しいんだ」

「そうか、論理が通っているとこんなにモヤモヤしないんだ」

「へえ、適切な科学によってぼくはこれだけいい気分になれるんだ」

「知らなかった、科学によってぼくはこんなに得をしているんだ」


でも、このようなうれしい体験がなかった人はいっぱいいる。

論理の正しさが自分にとって今やなんの意味ももたらしていないと発言する人たちがいる。





先日。あるウェブイベントを見た。

そこでは登壇者たちが、マスクをせず、近距離で、長時間にわたって、アルコールを摂取しながら自然とおしゃべりをしていた。

ひとりがこのように発言した。

「いつまでこの厳しい世の中が続くんでしょうねえ」

するとひとりがこのように返した。

「緊急事態宣言は伸びちゃったからねえ。宣言が終わればまた日常が帰ってくるんだけど」


科学的にぼくはつっこみたくなった。緊急事態宣言の有無が問題なのではない。宣言が終了したからといって、ワクチン接種が進むまでの間は、「かつての日常」を取り返してはだめなのだ。というか、そこで油断してかつての日常を取り戻してしまう人が多いから、リバウンドがやってきて、次の波が襲いかかってくる。

しかし、このつっこみは、脳の外に出ることはなかった。

登壇者はみな、いわゆる高学歴であった。整然とした理路を持ち合わせてもいた。少なくとも、「科学」を疑うようなタイプの人びとではなかった。

でも、今の彼らにとって、「論理的に正しい日常生活」には何の魅力もなく、対話とアルコールを前に「感染症理論」が何かの救いになることもない。

「ただ、緊急事態宣言でお店が閉まることがつらい」のであって、宣言が開けたらそれは酒を飲んでいいということなのだから、ウイルスがいようがいまいが飲み食いをする。これは彼らの中では筋が通っていることであり、限りなくニセ科学に相似した素敵な拠り所なのであった。






非科学的なことを目にして怒りをためこむ自分を俯瞰する。ぼくは何に怒っているのか。何をはがゆく感じているのか。

科学をはずれた人が結果的になんらかの損をすることを惜しむならば、心に湧き上がる感情は怒りではなく悲しみのはずだ。ぼくが怒っているのはなぜなのだろうか。

それは、「科学」という、自分が拠り所にしているものを、他人が踏みにじっていると感じたからなのではないか。

ぼくは価値観の相違に耐えきれずに、自分の過去を肯定するために怒りという感情を召喚しているだけなのではないか。

何を言えば科学の子は役割を果たせるのだろう。

少なくともこの怒りはあまり役に立たないのではないかと感じた。メタな視点から見た自分の体温がスッと下がっていくのを確認した。

ていねいに、科学を語ることは、これから情緒を積み上げていく子ども達のためにも必要だ。大人だって現在進行形で経験を上乗せしていくのだから、科学を語ることは続けていいだろう。

でも、「科学に寄っかかれなくなっている人たち」にそのアプローチはどうやら通用しない。

……スマホが一時の癒やしをくれたことに、いちいち感謝する人は少ないように、科学の恩恵は心の中で摩耗し、偉大な医療の歴史は偶発的な日常にかき消されて忘却される。




怒らないことだ。敵対しないことだ。拠り所になるために。

それしかないのだと思う。自分が怒りそうなとき、そこには、「論理の破綻」がある。

2021年6月17日木曜日

病理の話(546) 時間のために生きている

時間の流れなんてものが、あるとは思っていなかった。

赤ちゃんの頃はみんなそうだったと思う。




赤ん坊はお腹がすいたら泣きわめき、すぐに食べ物が与えられる。今の欲望に、今の行動、そして今の報酬が、すべてつながっている。欲望がうまれてから達成されるまでのタイムラグがない。

「いつかこの先、母乳が手に入る」という概念は、赤ん坊にはない。

しかし、人は少し育つと、「お腹がすいた→まだご飯じゃないからもう少しがまんして」を経験する。

「今」の欲動に、あとで行動する必要が出てくる。

だんだんと、「まだもう少し先」とか、「まだだいぶ先」といった概念を知る。

こうして、時間の概念が立ち上がってくる。





テレビのバラエティ番組で、犬が飼い主(子ども)に、「待て」を命じられていた。

犬の目の前には高級A5ビーフが置いてある。犬にとってA5がどれだけ意味を持つのかはわからないが、飼い主にとっては「守るべき宝」に見える。

「ぼくがしっかりと『待て!』をできれば、犬はいつまでもこの高級肉を食い荒らさない」

30分「待て」ができたら飼い主の勝利だ。

しかし、たいていの犬は、子どもの「待て」ではがまんができない。すぐにA5肉にかぶりついてしまう。日ごろから散歩に連れて行き、数々の芸を仕込んだはずの子どもは泣き崩れたり、むくれたりする。親はそれを苦笑しながら見ている。

犬は目の前にある肉を「待つ」ことの意味がわからない。もちろん、強い上下関係のもとに、訓練して従わせれば「待つ」ことはできるが、子ども程度では抑えきれない。

「目の前(鼻の先)にある刺激に、リアクションせずにいることが難しい」。

犬は現在に生きている。未来という概念はぼんやりしている。



人間だけが時間の概念を持つ、とまで言い切るつもりはない。たぶん犬にもぼんやりとした過去はあるだろう。

ただ、過去、現在、未来という分け方がこれほどはっきりしている生命は、ヒトのほかには思い付かない。

ヒトの脳は外界を「時間軸込み」で仮想構築する。タテヨコナナメを的確に見分けることに加え、時間軸の中も自由に移動。「四次元仮想空間」を用いて、自分がどう振る舞うべきかを計算し、牙が無くとも、爪が無くとも、この星でわりと自由に生きている。

「今は待って、身を潜めて、危険が去ってから獲物を取りに行こう」を鋭く実行し続けたからこそ、目の前にある果物に気を取られて肉食獣や猛禽類、毒蛇や蚊の群れにやられることなく、ヒトはここまで命をつないでこられたのだろう。

このように、「すぐにリアクションしないで、未来に行動を留保するように、脳を進化させること」によって副産物的に産まれたのが時間の概念ではないかと思う。……副産物にしてはずいぶんと豪華な概念だ。むしろ我々は今や、時間のために生きているフシもある。