2019年1月18日金曜日

魏の初代皇帝の父親が持つ力のことをなんというか

例え話だが、

「忙しくて髪を切りに行く時間がない」

という言葉をみると、つい、

「ほんの1時間くらいならどうにでもなるでしょう」

という反論をしたくなることがある。



けれども自分が実際に髪を切ろうと思うと、まず美容室を予約しなければならない。

そして美容室は自分の都合のいい日時に限って予約がとれないものだ。



すなわち、「髪を切りに行く」というのは、

1.土日の午前と日曜日の午後および夕方、さらに水曜日と金曜日の夕方くらいが空いている状態

で、

2.美容室がこれらのどれかであれば予約を受けてくれる状態

で、さらに、

3.以上を確定するために、日中に美容室に電話をかけられる状態

であって、はじめて生まれてくる。




ということはつまり、「髪を切りに行く時間」は1時間ではないのだ。

1時間だけ空き時間を作ることができても、美容室には行けないのである。

いや、まあ、ある一定の確率で、たまたまポンとその1時間が空いているかもしれないけれども、これはもう「運」とか「パーセント」の話になる。




髪を切りたいタイミングというのは自分で適当に決められるわけではない。

ぼくのような短髪の人間は、「そろそろ髪を切らなければまずいタイミング」というのが受動的にやってくる。

のびすぎるとむさくるしいからだ。

つまり髪を切りに行くという行為には「リミット」がある。

「向こう半年間のどこかで切ればいい」という類いの話ではない。

「今から2週間のどこかで、髪を切らなければいけない」という強迫観念と共に、この時間の捻出作業がやってくるのである。




以上を踏まえていれば、

「忙しくて髪を切りに行く時間がない」

というセリフに対し、

「いやあ、1時間くらいじゃないですか。ひねり出せばなんとかなるでしょう」

みたいなツッコミを入れるのはとてもヤボだということがじわじわとわかる。




何に付けても言えることだと思う。想像力なくツッコミを入れてはいけないのだ。

だからといって毎日想像ばかりしているわけにもいかない。なぜかというと、ぼくらはたいてい、忙しくて想像をする時間がないからだ。

2019年1月17日木曜日

病理の話(284)

体の中から手術でとってきた臓器。

あるいは、検査のために、体の中からとってきたわずかな細胞。

これらをみるのがぼくら病理医の役割である。さまざまな見方がある。

特に、「顕微鏡を使って細胞をみる」というのが有名だ。だから、世の中で病理のことを語ろうとする人は、たいていアイキャッチとかイメージ写真に「顕微鏡」を掲げる。ぼくも、講演などの際には、顕微鏡を象徴的に用いることがある。

けれども実をいうと、いきなり顕微鏡で細胞の姿だけをみても、病気の正体はイマイチよくわからないことが多い。

難しくて、実感がわかないのである。




たとえば、主治医とか患者は、「レントゲン」とか「CT」とか「胃カメラ」を用いて、臓器とか病気の姿かたち(輪郭や、模様など)を、ある程度把握している。

そこからとってきた「細胞」を病理医が観察して、主治医や患者に情報を伝えることになるのだが、これはつまり……。

「ドローンを飛ばして渋谷上空から交差点の写真をとって観察したあとに、その交差点にいた歩行者ひとりだけをピックアップしてインタビューをして、ドローン撮影者に情報を提供すること」

に似ている。

交差点でうごめく人々のダイナミズムと、歩いていたひとりのインタビューとを照らし合わせる行為にどこまで意味があるだろうか……?

や、あるんですよ。確かにあるんだ。けれども、ドローン映像のような「ロング」の画像と、個別インタビューのような「アップ」の画像をつなぐには、コツがいる。両者に関係があるかどうかを見極めるのには技術がいる。





たとえば、インタビューした相手があからさまなそり込みでイレズミをいれており、手に拳銃とドスを持っていたら、「アップ」の情報としては「ヤクザです」とわかる。加えて、ドローンでみた映像(「ロング」)で渋谷の交差点が銃撃戦になっていれば両者の関連はもうほとんど明らかであろう。

逆に、インタビューした相手が竹内涼真で、ドローン映像が女子中学生パニックであってもなんとなく意味はわかる。

しかし、ピックアップしてきた人が「幼い子ども」で、ロングの画像が「日常的な交差点の風景」だったらどうか?

渋谷の交差点の雑踏、うごめき、人々のダイナミズムは、その子どもひとりからどれだけ推し量ることができるか?

まあたぶんほとんど伝わらないと思う。





病理診断もこれに似ていて、「顕微鏡でアップして得られる情報」というのは、顕微鏡以外の技術で「ロング」を先にとらえておいたほうが、精度が高くなる。





だったらもう最初から「ロング」だけで判断すればいいのではないか、という話もある。ただ、「アップ」には「アップ」のよさがあるのだ。

アップでとらえたスーツにサングラスの男。

髪型はきちっとしているし、手には普通のカバンを持っている。一見ただのサラリーマンだ。

でも、よくよく目をこらして観察していると、ふところにプラスチック爆弾を抱え持っていることがわかる。

こいつ、一見おとなしそうに見えるけど、しばらく放っておくと交差点でテロを起こすかもしれない、ということがわかる。

その目でみると、交差点にいっぱいいる人のうち、なぜか「メン・イン・ブラック」みたいなかっこうをしたダークスーツの男が気になりはじめる。

「あれ? こんなにスーツでサングラスの男が渋谷の交差点にいるっておかしくないか?」

アップでピンときた人が、ドローンの撮影者に情報を与える。

ドローン担当者は最初は気づかない。「別に、平日の夕方だったら、サラリーマンがいっぱいいてもいいじゃねぇか」という気分で、でもまあ気になったと言われたからもう一度画像を見直す。

すると、スーツの男達のかっこうが「おそろい」であることに気づく。

……いくらスーツの男が多い時間帯だと言っても、この「おそろい」はやばくないか……?

すると「アップ」担当者からこのような情報がくる。

「そいつらみんな懐に爆弾もってるかもしれない」

「ロング」では爆弾の有無はわからない。しかし、似たような格好をした男ひとりが爆弾を持っているのならば、これだけ目に映っている男達もみな、同類なのではないか……?

そうやって、丁寧に、「ロング」の画像を見ていると……。

画面のはじのほうで、渋谷のスタバに、男達が数人入り込んで、店員に今まさに何かを話しかけようとしているではないか。

何かがおかしい。

警察を向かわせる。

次の瞬間、スタバの中で悲鳴が起こる。男達がスタバを破壊し始めたのだ。

でもすでに警察は向かっていたから、破壊行為がまだあまり及んでいない段階で、男達を逮捕することができた。

「ロング」のドローン担当が指令を飛ばす。

「そいつらと同じようなヤカラが、まだ交差点のあちこちにいるぞ!」

警察はあたりを封鎖する。それまで善良そうな顔をしていた男達は狼狽し始める……。





おいおいなんの話だよ、と思った人もいるかもしれないが。

今のは実をいうと、「早期がんを発見して治療するまでの流れ」を例え話にしたものである。

スーツの男は、がん細胞。

みんな似ているというのは、「モノクローナリティ」という性質を指す(まあ知らなくてもいいです)。

「ふところに爆弾を抱えている」というのは、遠目にはわかりにくい、細胞が持つ特有の以上を指すし、

「いずれ徒党を組んで街を破壊し始めるけれど、その前の段階がある」とか、

「一箇所で破壊が起きていたら、まだまだ周りには味方がいるかもしれない」とか、

「一度アップで悪い奴だとわかったら、ロングの検査の精度は高まる」とか、まあそのあたりすべて、例えてみた。





……蛇足だけどぼくはときおり「ヤクザの話が好きなおじさん」と呼ばれる。講演などでこの例えをよく使うからなのだが、そのためか、たまに、「ヤクザ研究」をしている方にツイッターでフォローされ、お互いにどうもどうもとおじぎをしたりする。

2019年1月16日水曜日

新潟も青森も大変だろうな

雪かきの話をこのブログでも何度か書いたかもしれない。

でもまた書く。冬だから。



積雪地帯での雪かきを一度体験してみるといいと思う。

ボランティアとかあるだろう。

首都圏の大学生などにはおすすめだ。

非常に汗をかく。

腕や腰がパンパンになる。足はそうでもない。しかし靴を間違うと足の指が凍傷になるので気を付けて欲しい。

暖かい格好をしていると20分を過ぎたくらいでほかほかになる。スキーウェアみたいな重装備で雪かきをしているとジャケットは脱ぐことになるだろう。サッカーのベンチコートみたいなものをはおっている場合はチャックを全快にすることになる。

コートの下をなるべく軽装にするのがコツだ。Tシャツ一枚でもいいくらいである。なあにすぐに温かくなる。

手袋はスキー用でないと無理だろう。特に、毛糸の手袋では30分で指が凍る。



いろいろな日に雪かきをしてみてほしい。

ふわっふわの、北国特有のパウダースノーは、ボリュームのわりに軽い。スノーダンプ(かつてママさんダンプと呼ばれていた)で運ぶと、軽くて、しかしふわふわとめんどうだ。雪深いところを長靴で踏みしめて歩くのは思ったよりも足腰に負担がかかる。

ちょっと気温が上がったあとに硬くなった雪。これは本当に最悪である。金属製のスコップがないとうまくくずせないし、金属製のスコップでは家のまわりの膨大な雪をどこにも運べない。

結局、スノーダンプの上にスコップで雪を落としてかためて、それをどこかに捨てに行くという賽の河原の石積みみたいな作業を繰り返すしかなくなる。

「雪を捨てる場所がない」というのは北国の痛切な悩みだ。

小学生の通学路では道の両脇にあまり高い山を作ってはいけない。

視界が悪くなり、事故も増える。

雪捨て場についてはマナーとモラル以前に「北国のプライド」が問われる。

捨ててもいい場所をきちんと把握しよう。

北国の一軒家では庭は雪捨てのためにある。



雪が降るのは昼夜を問わない。

出勤前に雪かきをしなければいけなくなると地獄だ。遅刻は確定。しかし放っておくと帰宅時に家に入れなくなるかもしれない。そもそも雪かきをしないと車が出せない場合もある。

天気がいいときに雪かきを終わらせておかないと、吹雪の中、あとからあとから降り積もる雪に視界も心も阻まれながら雪かきをするのもきついものがある。



何がつらいって、雪かきという行為は「春がくればすべて解けて無駄になるとわかっている」こと。しかし、「いずれ解けるからといって、解けるまで待っていると家から出られなくなるから、餓死 or 雪かき」であるということ。

これほど生産性のない労働をぼくはほかに知らない。



あと、ここはとても大事なポイントなので気を付けて読んで欲しいのだが、

「雪かきはとても重労働なのだけれど、なぜかは全くわからないが、お正月太りを雪かきだけで元に戻せることはない」

という世界の神秘がある。世の中には科学で解明できない謎がまだまだ残されているのだなあ、と感じる瞬間である。

2019年1月15日火曜日

病理の話(283)

この記事を読む大半のひとたちにはなんだかどうでもいいことだろうな、とは思うのだが、そういえば一度も書いたことがなかったので、今日は、

「病理専門医という資格をとる方法」

について書く。そんなの関係ねぇという人も、「ハムスターが車輪を回しているのを眺めていると落ち着く」、みたいな寛大な気持ちでこの記事を読んで欲しい。




大前提として、現在のところ、「病理専門医」という資格がなくても、顕微鏡を用いて細胞を観察し、病気の種類を探ったり程度をはかったりすることはできる。

「病理専門医という資格がないと絶対に病理医として働けない」ということはない。

ここは勘違いされがちである。法的な拘束力もほぼないのだ。

事実、現在も病理専門医をもたずに、市中病院で病理診断業務に勤しんでいる人はいる。実数は把握できないのだが(病理学会の登録外なので)、ぼくが個人的に観察する限りで、狭い業界内にそれなりに、非専門医なのに病理診断している人たちがいる。

ま、少数だけど。

すなわち絶対にとらなければいけない資格ではない。

けれども、今後はだんだんそういうアバウトな働き方が難しくなるように思う。

専門医資格がない人が病理医として就職できる病院も、減ってくるだろう。

病院側としては、どうせ病理医をとるなら、専門医に向けてきちんと努力し、人間関係を築いた人を採用したほうが安心だと考えるからだ。

あと、刑事責任は問えなくても、民事的には「非専門医の未熟な医者に病理診断をさせた」というのはたぶん悪印象になると思う。



まあそんなわけで、病理専門医という資格は「とっておいたほうが無難」である。

ではどのようにとるのか?

とりあえず医師免許は必要だ。

そして、現在は、医学部卒業後の2年間で、「初期研修」をしておく必要がある。

病理の研修はいわゆる「後期研修」扱いなので、初期研修が終わっていないとだめなのだ(抜け道もあるようだが)。

初期研修のときには別に病理診断を勉強しなくて良い。

さまざまな医者の仕事を学んでおくといいかもしれない。最初から病理漬けでもいいけれど、ま、このあたり、好き嫌いもあるし、様々な事情もある。詳しくは今日は書かない。



さて、後期研修からいよいよ、病理専門医への道がスタートするのだが、このとき、「努力」とともに、「人間関係や職場関係をきちんと構築する」ことが必要となる。

「のぞましい」ではなく、「必要」。注意してほしい。

病理医になるには人間関係が必須なのである。

なぜかというと、病理専門医の受験資格の中に、

・解剖を30回やる

というのが含まれているからだ。




解剖というのは基本的に、きちんとした病院で、多くの人々と連携しながらではないと経験することができない。初期研修をおえた医師たちがいきなり解剖をすることは許されない。

無資格の人間に解剖をさせるほど、日本の司法制度はポンコツではない。

独学で病理の勉強をすることは可能だけれども、未経験者がひとりで剖検をすることだけは、法的に不可能。

つまりは指導者が必要である。技師との連携も要る。



「司法」と「協力関係」とでガチガチに守られた解剖という極めてマニアックな行為を、病理専門医の試験を受けるまでの間に30回も重ねなければいけない。

となると、「絶対に病理専門医指導するマン」の元で研修しないと、話にならない。

だから病理専門医になるためには人間関係の構築が必要なのである。





なお、奇妙なことに、病理専門医という資格をとるにあたり、「解剖以外の実務経験」はほとんど問われない。

まあ制度上は、「組織診」という、普通に顕微鏡をみて診断を考えた経験が5000件以上必要だ。

また、「迅速診断」といって手術中に診断した回数が50件以上必要。

さらに「細胞診」という少しやり方の違う検査の経験も1000件以上必要ではある。

けれどもこれらを、専門医の受験時に事務局に確認させる方法がない。

5000件のレポートを添付するなんて不可能なのである(迅速診断50件くらいなら可能だけれど)。

だからこれらは自己申告である。5000件診断しました~と言い張ってしまえば受験は可能だ。



「ということは……組織診5000件みましたとうそをついて、試験を受けている病理医もいるってことですか?」

ご心配もごもっともだがそういうことはまずありえない。

なぜかというと、解剖を30体も経験させてもらった経験がある病理医のタマゴであれば、組織診はほぼ間違いなく10000件以上みているからである。

組織診5000件というしばりよりも、解剖30件のほうがはるかに「経験するのが難しい」。

だから解剖30件をこなしていれば、ほかの用件はたいてい満たせている。

つまり解剖以外の受験資格などというのは、あってないようなもの。

とにかく今の時代、解剖を30回経験する場所を探すことが一番大変だ。

組織診5000件というとぼくが1年に診断する量よりも少ない。

病理専門医の仕事の大半は、いまや、プレパラートをみて診断する「組織診」だ。解剖は主たる業務ではない。

それなのに、病理専門医の受験のためには、「今や主戦場ではなくなってしまった」解剖の件数ばかりが求められるのである。




解剖という業務の担い手が少なく、病理専門医の双肩には医療界の解剖の半分以上が乗っかっている。だから、病理専門医になるためには解剖のことをきちんとこなしておかなければいけない。

けれどもいざ、病理専門医になると、ほとんどの時間は「解剖以外の業務」で暮らしていくことになるのだけれど……。




さて、首尾良く解剖30件以上を達成し、まじめに顕微鏡の訓練をしていれば、いよいよ病理専門医を受験できる。

けれどもあとひとつ、受験資格のためにやっておかなければいけないことがある。

それは講習会の受講だ。

特に近年だと、遺伝子を扱う病理医になるための講座などを受けておかないといけない。講習会の受験を忘れていると、専門医になるためのテストを受けられない。

講習会だけはほんとうに気を付けて欲しい。

現在、病理専門医になっている人たちは、必ずしもこの講習会を受けていない。昔はそういうしばりがなかったからだ。

だから、かなり人のいい、熱心な指導医であっても、研修医に講習会を受けさせるのを忘れることがある。

申し訳ないがここは受験生の自己責任だ。指導医のせいにはできない。

受験生諸君は絶対に忘れないようにしてもらいたい。



で、最後に、病理専門医になるための筆記試験+面接があるわけだが……。

この試験、ここまでたどり着いている医師諸君であれば、それほど難しい試験ではない。合格率は何割くらいだろう? あまりよく知らない。7割くらいだろうか?

まあ合格率7割の試験なんて楽勝だろう。そもそも医学部の入試の合格率が2割くらいだったのだから。

それに比べれば楽勝だ。試験を通るために生まれてきたような頭脳を持っていれば、まず大丈夫。落ちない。

試験内容についても、過去問の一部は公開されていたり、先輩達から伝わってきたりする。まあ一部は公開されないのだけれど。

めちゃくちゃにまれな病気を答えさせられたり、架空の解剖症例の診断書を書かされたりする。

けれど病理の研修をきっちりやっていれば大丈夫だ。全く問題ないだろう。




……蛇足だが、たとえば病理以外の分野の人々が病理専門医の試験を受けるとする。

内科医。外科医。放射線科医。腫瘍内科医。誰でもいい。

他科の医師では、絶対に合格できないといわれている。仮に病理が趣味で、病理の本を100冊くらい通読していても、不可能だろうとされる。クイズ王も病理専門医だけにはなれないだろう。

病理診断というのはそれくらい、マニアックで、高度の知識を必要とする。けれども、適切な人間たちの中で、顕微鏡をきっちり3年間くらい見た、まじめな医師であれば、合格率は7割(たぶんそれくらい)。

まああんまり心配しないでほしい。ウェルカムトゥようこそ病理パーク。

2019年1月11日金曜日

舞台照明のすごさを思う

ある意見Aを発する人が「主演俳優」として舞台に立っているものとする。

あなたはそれと異なる意見Bを持っていて、舞台に殴り込んで「もう一人の主演俳優」となるべく立ち回る。

このとき、それぞれの俳優が

「相手を殴り倒すこと」

だけを考えていた場合、それはもはや舞台ではない。

「観客」のことを考えていないからだ。

自分の正義を押し通すことに夢中になるあまり、観客からどう見えるかが頭からすっとんでしまうと、舞台の完成度は著しく下がる。端的にいえば見苦しくなる。



観客の心に何が届くか、どう届かせるかということを考えると、俳優がもつ「論理」とか「正義」をただ振りかざせばよいというものでもないのだろうという気がする。

論理を届けようとするあまりに、なにか卑怯なことをしていないか。

相手の言葉をさえぎってばかりいないか。

自分ばかり正しいとアピールしすぎていないか。

そもそも、論理とか正義というものはひとつに決めることができるのだろうか。

「あきらかにおかしい」「あきらかに間違っている」というのは本当にあきらかなのだろうか。

あなたがそうやってとうとうと論理を語る姿は、観客にどう映るか。

あなたはきちんと考えているだろうか。

ぼくは、きちんと考えているだろうか。




論理を装備して舞台上の相手を殴る「演じ方」は本当に有効なのだろうか?




かといって、「語る姿が、観客にどう映っているか」ばかり考えすぎるのもうっとうしい。

言葉の正確性とか、論理の妥当性をないがしろにして、観客にうけのいい言葉ばかりを選ぼうとする俳優。

観客からみると、そういうことはそれなりに伝わってくる。

ああ、こいつのことばは、舞台上で見栄えよくするためだけに発せられているのだな、ということを、なんとなく察する。




観客がどう思うだろう、ということを意識しつつ、論理をきちんと保って「演じる」ということ。

これは本当に難しいと思う。

ぼくは今、自分から「観客性」が失われつつあると感じている。

「発信する立場の自分」が大きく肥大し始めている。

情報の受け手に回っているタイミングであっても、つい「自分だったらどう発信するか」に気を回している。

こうなってくるとまずいのかもな、という危機感がある。

どれだけ眺めて、いつどのように演じるのか、そのバランスが崩れ始めたとき、人はあわてて変なことを言い、つくろい、惑う。




ぼくは今、「患者」が主演俳優である舞台に、どう立とうとしているのか?

そもそもそこに立つことが正しいのか?

正しいかどうかという視点自体が適切なのか?

舞台に上がるとしたらそれは誰のために、何のために上がるのだろうか?

観客席にいるとしたら、ぼくはそこで何をするのだろうか?




答えがあることとないことがそれぞれある。

現段階でいえることは、

「敵を設定して演じる役者は、バトルものでしか活躍できない」

ということくらいで、あとはまだ、よくわからないことが多い。

2019年1月10日木曜日

病理の話(282)

このようなブログを書き続けているとあるときふっと気づくのだ。

書き手のほうは「順番に、あちこちを書いていく」のだけれども。

読み手がいつも記事を連続で頭から読んでいるわけではない。



何をあたりまえのことを……と思われるかもしれないが。



「病理のこと」とか、「病理医のこと」、「病理診断のこと」などというものは、世の中の99%の人がさほど興味もなく、触れ合うこともないニッチな話である。

だから、ブログで病理について何かを書くのならば、毎回、

 病理診断というのは、
 患者の体の中からとってきた臓器や、
 臓器の一部分……
 それは消しゴムのカスくらいの大きさかもしれない……
 とにかく、大きくても小さくても関係なしに、
 患者の体の中から何かをとってきたならば、
 必ず行われている作業です。
 患者から何かをとってきたら、
 それを「見まくる」必要があります。
 だって、体の中から何かをとってくるなんてのは、
 一大イベントですからね!
 とってすてておしまい、なんて、
 そんな、もったいない!
 十分に有効活用しなければいけません。
 じゃ、具体的に、何をみるかといいますと、
 とってきた理由にもよるのですが、
 「そこに含まれる病気の種類」であるとか、
 「そこに含まれる病気の度合い」などを、みます。
 どうやって「見まくる」かというと、
 顕微鏡でめちゃくちゃに拡大して細胞をそのまま見たり、
 科学の力で遺伝子とかDNAみたいなものを見たり、
 あるいは、ふつうに目でじっと見たりするんです。

なんてことを書くべきだ。

毎回、基本的なことを説明し続けていいのである。



お正月に箱根駅伝をみていると、「繰り上げスタート」であるとか、「たすきがつながらない」みたいなシステムがよくわからない。

だからググる。

そうか、2区と3区では、先頭のランナーから10分遅れてしまうと、もう次のランナーにはたすきをつなぐことはできないのか……。

でもこのことは毎年ググっている気がする。

去年も同じような解説ホームページをみた。

ぼくは駅伝の素人だから、何度説明されても、覚えられない。



病理の話だってきっとそうなのだ。

ほとんどの人にとっては、何度説明されても、

「どういうこと?」

「それが何の役に立つの?」

「なぜそれをしなければいけないの?」

みたいな疑問が常にある。



でも、同じことをずっと説明している医療者のほうは、一度説明したことを何度も説明すること自体に、抵抗感がある。

せっかくだから違うことを説明したいなあと思う。

毎回切り口を変えたいなあと思ってしまう。



すると「病理の話」に出てくる内容はだんだんマニアック化して、難しくなる。




世の「医療の説明」というのはすべてこれなのかもしれないなあ、と思うことがある。

外来で、患者に対し、毎日同じようなことを説明している医者は、だんだん説明がこなれてきて、そのかわり、だんだん初心者にはわかりづらくなってきたり、しているのだろうか……。




そして、たとえば、「どのように生きるか」「どのように死ぬか」みたいな話に対して、ぼくらがいつか「専門家のように」語れる日というのは本当に来るのだろうか。

もしかしたら、いつまでたってもぼくらは、「毎回ググる」以外の回答を持っていないのではなかろうか。

あるいは医療者はいつまでも、「ググって最初にたどり着くページのように」語ることを求められているのではないか……。

2019年1月9日水曜日

ダイエットするには太っていなければならない

ソニーのα6000というカメラを持っているのだが、はじめて買ったレンズではいまいちスマホとどう違うのかわからなかったのだけれども、いろいろと調べて、1年ほど使って、こないだ買い足した新しいレンズ(35 mm, F1.8)を装着して、家族の写真をとってみたらすごくいい色味で、とてもうれしかった。

「カメラは楽しい」「カメラは奥深い」というが、実際には、カメラとレンズと撮るシチュエーションと撮りたい画角などの組み合わせが楽しいのだな。

”組み合わせが楽しい”、というのは何にでも言えるように思う。

ファミコンが楽しいのではなくて、晩ご飯までの1時間10分の間にスーパーマリオをワープ込みでプレイすると、ほどよく8-1~8-2くらいで苦戦しつつ8-4まで行けたり行けなかったりして弟と四苦八苦する時間が楽しかったのだ。

剣道が楽しいのではなくて、国家試験までの5年半の間に先輩や後輩たちと切磋琢磨しながら団体戦で勝ち負けして東日本の大会を駆け上っていった日々が楽しかったのだ。

たぶん仕事とかもきっと、「単一の〇〇が楽しいのではなく、さまざまな組み合わせが楽しい」のだと思う。




”組み合わせが楽しい”については、「楽しい」の部分を入れ替えてもさまざまに応用が利く。

つらい、くるしい、もじもじする、どきどきする、はらがたつ、せつなくなるなど。




140文字制限のツイッターをやっていてときどき「あっ、違うな」と思うのは、少ない文字数に言いたいことをなんとか押し込めようとするあまりに、「組み合わせを構成している部品を一部省略してしゃべっている」ときだ。

組み合わせの中に喜怒哀楽を見出しているぼくらは、そう簡単にものごとを単純化できないようになっている。

「複雑系の中に暮らして何かを入力」した結果、「出力を単純に済ませる」というのはきわめて難しい。

しかしおもしろいことに、ぼくが何かに感動するときはたいてい、「短いワンフレーズ」なのだ。

組み合わせの妙というのは必ずしも「部品がいっぱいあるところ」からばかり生まれてくるわけではない。

わびさびとはそういうことなのだろう。

そぎ落としの妙とはそういうことに違いない。




そぎ落とすためには、いっぱい持っていないと、やせほそってしまうのだが……。