2020年4月3日金曜日

学びや気づきをニコニコブログに書く人たちへ

学びを重ねることにより自分の知性が「積みあがっていく」と考えていたのは20代までだ。30代になると、知識を得るために時間をかけて何かに没頭することで、代わりに同じ時間だけかけて何かを忘却したり、何かが混線したり、何かが脱線したり混濁したりすることがあるのだ、ということに気づいた。

それでもなお、学ぶことにより、少なくともある一面において知識は堆積していくものなのだと、まだ信じていた。

それが最近だいぶ変わってきた。少なくとも40代のぼくにとって、学ぶことは、何かを積んでかさをましていく行動とは限らないなあという実感が出てきた。

あるいは、主客転倒、「何かを積み上げてその高さを眺めて、ああ学んだなあと納得することができなくなった」という言い方もできる。




最近何かにつけて、繰り返しあちこちで書いているうちに、だんだん「自分のことば」として使えるようになってきた、他人のアイディア。こりずにまた書いておく。

どうやら知識というものは、純粋に自分の持ち合わせにプラスしていくような性質のものではないようだ。

知識は、ぼくがすでに持っているもの、抱いているなにものかを、ガシャガシャと揺るがせることがある。

そのまま何もしなければ、黙って積みあがっていたであろうジェンガの塔、あるいは崩し将棋の駒たちに、指をつっこんで何かを抜き出して、「動かさないように気を張りながら、結局のところは崩れてガシャンと壊れることを期待する」こと。

こういう知識が世の中にはある。




「新しいことを知りました、学びました」ということばを、RPGで新しい剣やクエスト用アイテムを手に入れたかのように語ることが難しい場面をしばしば経験する。

知らなかったことを知ることで、これまで無意識に「この程度だったら見通せる」と思っていた世界の辺縁に、あるいは中心部であっても標高がかなり高いところに、何か思ってもいなかった風景がガシャンと増える。

すると「一瞥」できなくなる。それまでの自分の能力で世界を「俯瞰」できなくなる。視野角度を超える。




井の中の蛙は学ぶことで井戸の外に出ることができる日がくる。

それはきっとある種の絶望を伴うと思うのだ。

水場の広さ。空の青さ。夜空の星の数すらも、限られた景色の中で見ていたときのほうが、まだかわいげがあったと気付く。

おまけに蛙はこのあと飛行機に乗って地平線の向こうを見に行くことも、ロケットに乗って違う銀河に飛び立つことも、過去や未来に自分を飛ばして違う空を見ることもできる。

それが学ぶということだ。「学び」をニコニコと語れなくなる日が必ずやってくる。




その上でなお学ぶかどうか、ということなのかもしれないがこれはもしかするとマッチョな思考かもしれない。

2020年4月2日木曜日

病理の話(430) ペラッペラの具体例

たとえばあなたがこれから、手元にある「みかん」を顕微鏡で見ようとおもったとき、みかんをそのまま手で掴んで顕微鏡に載せようと思っても、乗らない。

でかいからだ。


レンズの下には(レンズの種類にもよるが)スキマがあまりない。試しに測ってみたけど、2 cmに満たないくらいだ。

そこで、あなたはみかんをむくことにする。ちょっと減量させよう。

ひとふさとる。

これなら、対物レンズの下に入るだろう。あっ、でもまだちょっとでかいかな……。

そこで、みかんのひとふさの、薄皮をさらにむいて、中に詰まっている「涙のツブのような形をした、なんかちっちゃい実みたいなやつ(あれなんていうの?)」をひとつ取り出す。

これなら対物レンズの下に入るぜ!

ところがそれを置こうと思うと下に落っこちてしまうのだった。なんでや。


穴があるからや。

レンズの真下に穴がある。この穴の下からライトがあたる。

けっきょく、穴を橋渡しするような「ガラスプレパラート」の上に、みかんのつぶをのっけてみることになる。

よし、これで、みかんのツブをガラスにのっけて、あとは見るだけだ!

顕微鏡を覗く……。

すると、下から当たった光がツブにあたって……完全にシルエットになっている。

涙滴状のシルエットだ。ぴちょんくんクイズです。

これでは、なにがなにやらわからない。




病理診断で用いる顕微鏡は、「透過光型」である。下から光をあてて、上から覗き込む。

これだと観察する試料はふつうシルエットになってしまうのだ。中身がまるで観察できない。

上から光をあてて、反射光をみればいいじゃん、と思いがちである。しかし、新聞の文字や虫の羽をみるならばともかく、細胞を観察しようと思うと、反射光では光量が足りなくて、細かいところをうまく見られない。

下からの透過光で強くライトアップしないと見えない。

そこで……。




「みかんのツブ」ですらでかすぎる、というか、分厚すぎるのだ。もっとぺらっぺらに薄くすればいい。「向こうが透けて見えるくらいに」。

どれくらい薄くするかというと……。

4μmくらい。

髪の毛の細さがだいたい50~80 μmくらいとグーグルに書いてあった。

だから髪の毛よりもはるかにうすい。

細胞の大きさは、赤血球で6~8 μmくらい、皮膚の最表層付近にある有核扁平上皮がだいたい20 μmとかそんなもんかな(これらはググってないので多少ずれてるかもしれません)。

すなわち、レンズの下に置く試料を4 μmの厚さにするということは、ほとんどの細胞をまっぷたつにできるくらいうすくする、ということだ。

そこまでしてはじめて、「透過光で細胞の輪郭が観察できる」ということになる。



ちなみにこの「組織をペラッペラに切る」ことを薄切(はくせつ)という。

かんなのオバケみたいなミクロトームという機械を使い、訓練を受けた臨床検査技師が組織をペラペラに切る。実はぼくはこのミクロトームがうまく使えない。技師さんがいないとぼくは病理診断なんてできないのである。

かんなのオバケだぞ。すごいんだかんな(ギャグ)。

2020年4月1日水曜日

あるいはマツコデラックス

ペリスコープを2倍にするとペリペリスコスコープープなんだけど、ともあれ、ペリスコープをはじめて見たときにはけっこう微妙だなと思っていた。

でも、いざ使ってみると、動画をみながら同時にツイートするツールとしてはかなり優秀だ。アクセスも楽だし。

最近は、けっこういいツールだなと思っている。やるじゃん、ペリスコ。




近頃いろいろと興味があって、さまざまな動画配信ツール……というか……ライブ配信ツールをチェックしている。YouTubeも、今のぼくにとっては、ストックされた動画よりLIVEのほうがおもしろい。

金儲けの人たちは口々に、動画がきちんとストックされることで検索で引っかかり、再生回数が累積し、広告効果が出て収益に結びつきやすい……という。

けどぼくは金儲けの人じゃない。だからそこはどうでもいい。

いち視聴者として、ストックされた過去の動画を見るのがつらくなってきた。

「アーカイブを掘る楽しみ」はよくわかる。けれども、目の前にアーカイブリストがありすぎて、目移りしているうちに結局どれも再生しないケースが増えた。




効果音と字幕付きの編集されたYouTube動画は非常に見やすい。その点、いわゆるトップ・ユーチューバーとされる人々の動画は本当によく出来ている。

しかしいまやトップ・ユーチューバーたちは完全に物量作戦に入っている。

「見やすい動画が毎日積み上がっていくせいで、追いかけるにはハードルが高くなりつつある」

これは本末転倒な状態なのではないか……と邪推してしまう。

でもそれでいいらしいのだ、なぜなら、トップ・ユーチューバーたちの動画が毎日積み上がっていくことは、興味・関心の向かう先が少ない人にとってはメリットだからだ。

数個のチャンネルを追いかけていれば、毎日のように新しいコンテンツが注ぎ込まれ、おまけにそのクオリティが安定して高い。

……今思ったけど、これってつまりテレビだよね。




まあYouTubeがテレビ化してようがしてなかろうが、おもしろければいいじゃん、という考え方はわかる。時代にあわせて手法もアップデートされているわけだし。

でもぼくのようなタイプの人間は、接続するチャンネルの数が多い。これは自慢とかじゃなくて、そういうものだと思う、だって中年なんだもの。

いいと思ったものごとが、生きるたびに増えていく。

Twitter, YouTube, Facebook……。加えて、リアルの世界にも書籍があってテレビがあって映画があって。もちろん友人との会話があって。これらをチャンネルとして足し合わせたら、どれくらいになるだろう。スカパーの全チャンネル数? そんなもんじゃぜんぜん足りない。たぶん、1000とか2000というレベル。

現代に生きるぼくらは、桁違いのチャンネルに接続している。

YouTubeのチャンネルごとに、毎日、上手に字幕を付けてジャンプカットを多用してポヨンパインと効果音を付けた短くて見やすくて笑える動画が更新されていく。ぜんぜん追いかけきれない。選択肢がほとんど無限なんだ。

ぼくらはなんらかの方法で有限化しないと、遊興できない。

ポケモンをいくらもってても、サトシはいう、「君に決めた!」と。

チャンネル1000個の中から「君に決める」にはどうするか?




有限化のやり方は人それぞれだろう。

ぼくの場合は、増え続けるストックすべてに目を向けることをあきらめて、[LIVE]という価値が上乗せ(?)されたコンテンツを中心に見るようになった。

なぜ[LIVE]がいいのかはわからない。

編集されていない分、つっかかったり胃もたれしたりすることもある。

でも、これはたぶん理屈じゃない。ぼくは有限化する手段を[LIVE]にしたのだ。

そういえばTwitterも、かつては「あとからタイムラインを追う」ことをしていたけれど、フォロー数が10万を超えて、リスト内にも数百のアカウントがひしめいている今、過去ツイを追いかけることはほとんど不可能に近い。

もちろんこれはぼくが望んでそのような状態にしただけだ。

たとえば、お気に入りの俳優やバンドマンだけをフォローしている人、フォロー数が少ない人であれば、タイムラインをあとからさかのぼることはできるだろう。これは有名な話だが、Twitterは「今どうしてる?」のツールとは限らない。「さっきまで何してた?」というモチベーションで有名人のツイートを探しに行くことが可能だから。

けれども、ぼくは自分でも気づかないうちに、Twitterでも[LIVE]を重視しはじめていた。「今どうしてる?」どころか、「今ここにいるやつは何を言ってる?」という使い方に、どんどん偏っていく。





もちろんぼくだって、ラーメンズのお笑い動画や一流の落語、公式の音楽PVのように、何度も見て楽しめるコンテンツも、もちろん知っているし、たまに見ることはある。紅の豚のDVDを持っているし、水曜どうでしょうのDVDも持っているし、映像研には手を出すなのブルーレイも予約した。

一切ストック情報から足を洗ったわけではない。

けれども、脳のインデックスに溜まった「いい動画」を、だんだん覚えきれなくなりつつある。コンテンツが充実しすぎてかえって死蔵状態。





情報源に対する接続が過剰だと、結局どれも摂取できない状態になる。

HDDに大量にとりためた昔のお笑い番組の録画も、こないだすべて消してしまった。もう見ることもないだろうと思ったのだ。この先どうしても見たくなるほど優秀な作品は、いずれサブスク的にどこかにアップロードされるだろう。

「ばかだなあ、そうやって見られなくなった番組がどれだけあると思っているんだ」

そういうオタクの意見はとてもよくわかるけどさ、見られなくなった動画が無数にありすぎて、もはや覚えていられないんだよ。





「過去をみかえす」よりも、今この瞬間にどこかでやっているんだよと、[LIVE]の文字が躍る放送をみたほうが、なにか新鮮でうれしい気分になる。

世間を見渡してみれば、インスタライブなんてのはまさにそういうツールだ。

1日でデータが消えてしまう。ストックを一切考えない。

「たまたまヒマな人が同期して時間を共有する」。

「同期」がキモなのだと思う。




こういうことを考えるよりも少し前、ぼくが以上のことを言語化する前から、ぼくのツイート数は多くてさかのぼりにくいと文句を言われていた。

最近はそうでもないけれど。

「せっかくいいことを言っても、ほかのツイートが多すぎてさかのぼれないんですよ」なんてことを、よく言われた。

けれどもぼくがやりたいことはそういうことじゃなかったのだから仕方がない。

ぼくは[LIVE]の使い方をしてしまっている。




ああ、そうかそうか、じゃあ情報をどこかにストックするやり方もやらんとなあ、なんて思って、毎日ブログを書いてしまっている。複数のnoteを作ってしまっている。

……これじゃストック過剰なんだよな。あはは、結局、一番新しい情報しかアクセスされない。




ぼくはつくづく、ストックがマッチしないタイプなのだ。

となると情報発信で狙うべきは、毎日顔を見るけど、本人が大事な情報を放つわけではなく、しかし、その人が紹介したものがけっこう世の中に浸透するという、そういうタイプのポジションなのだと思う。





タモリか……。つまりテレビの覇者なんだな……。

2020年3月31日火曜日

病理の話(429) わずかな引っかかりに心を止めて診断するということ

顕微鏡をのぞく。

これは胃生検だ。胃カメラを用いて、胃の粘膜をつまんでとってきたものだ。

「なぜ、消化器内科の医者は、ここをつまもうとしたのか?」

まずこの違和感をきちんと抱えておく必要がある。何もない胃粘膜をつまむことは(「シドニー分類評価」や「潰瘍性大腸炎の上部消化管フォロー」などの特殊な目的を除いては)基本的にない。

理由なくつまんでくることはない。

だからぼくは、消化器内科の医者が病理医に向けて書いた依頼書の文章を読む。

「つまんだ理由」がいろいろ書いてあるからだ。

・そこだけ色が違った

・そこだけ盛り上がっていた

・そこだけわずかにへこんでいた

・そこを中心に引きつれていた

・そこを中心に引きつれていて、さらに引きつれの周りにぼんやりと色調の異なる領域がみえるように思えた

……どれもこれも似たようなことを書いているように思えるが、この文章をみた時点で、思い浮かべる「顕微鏡像」の種類が変わる。




たとえばこんなかんじだ。

・そこだけ色が違った
 →粘膜の中にはうっ血があるのではないか?
 →あるいは粘膜の中に炎症細胞が詰まっているのでは?
 →あるいは粘膜の中に炎症細胞以外のものも詰まっているかも?

・そこだけ盛り上がっていた
 →粘膜が分厚く変化しているはずだ
 →粘膜の中の何が分厚くなっているかはともかく

・そこだけわずかにへこんでいた
 →粘膜の成分のいずれかが失われているのだろう

・そこを中心に引きつれていた
 →粘膜や粘膜の下に、「線維」があればそこは硬く、厚くなり、引きつれてくる

・そこを中心に引きつれていて、さらに引きつれの周りにぼんやりと色調の異なる領域がみえるように思えた
 →まわりと比べてなにか違うものがそこにはあり、さらに「線維」もできているのではないか……?




このように、依頼書に書かれているものから、あらかじめ「どのような顕微鏡像が出てきうるか」を考えて、脳内に仮想顕微鏡風景みたいなものを浮かべておく。

そしてあらためて顕微鏡をみる。




そこで出てくる違和感こそがほんものだ。絶対に逃がしてはならない。






たとえば、依頼書は「へこんでいる」と書いてあるのにもかかわらず、顕微鏡をみると粘膜の中に何かが増えているように見える場合。

それが仮に、一見して、がんのような「やばいもの」ではなさそうに見えても、予想したものと現実に見えたものの間に違和感があれば、そこは必ず言語にして突き詰めておくべきなのである。



「粘膜のへこんだところを採ったのに、つまり、へこんでいるというからには成分が減っているはずなのに、なぜこの粘膜の中には、ある種の細胞が均質に増えているのだろう……?」

「ある種の細胞はぱっと見、リンパ球、すなわち炎症細胞だ。炎症があってへこむこと自体はあっていい。だって、炎症があれば粘膜は削れることがあるからね。でも……ぼくは今、この顕微鏡像をみて、いつもの炎症とは異なる印象を得た。なぜかわからないけれど、リンパ球がただあるンじゃなくて、すごく増えているような第一印象だった……。」



「なぜぼくは違和感をもったのか?」




「ああ、そうか、均質すぎるんだ。普通の炎症であれば、リンパ球はほかの炎症細胞、たとえば好中球とか好酸球などと一緒に出現しているはずなのに、ここにはリンパ球ばかりが見える。」

「しかも、粘膜のへこみから普段採取されるときのリンパ球の出方じゃなくて、なんとなく、周りの粘膜成分よりもあきらかにリンパ球の方が優勢な見え方をしている。これが普段だとあまり出てこない違和感の正体だ」




「よし、免疫染色を追加して、この違和感の正体を徹底的に探ってやろう。」






と、だいたいこのようなかんじで、病理診断は進んでいく。ちなみに今の例は、胃の悪性リンパ腫(なかでも消化器内科医がリンパ腫とは気づかないことがあるタイプ)を想定して書いたフィクションである。








さて本日の記事の中に、違和感をいれておいた。1箇所だけ、「ん」が「ン」になっている場所があった。気づいた人もいただろう。ぼくは普段、ブログではそういう書き方をしない。

病理医になってまだ日が浅い人は、顕微鏡で見つけた違和感を、「なんかここだけカタカナだなー、なんでか知らんけど」で流してしまいがちである。

病理医になっていろいろ経験していくと、「なぜここに突然カタカナのンが出てくるんだろう。何か理由があるのか?」と、周りに目を向けたり、日頃のぼくの書き方を思い出したりと、思考をさまよわせて、自分のつまづいた違和感を放置しないようになる。




思い込みで一心不乱に思考をするときほど、病理診断がうまくいかなくなる。

わずかな引っかかりに心を止めること。

違和感を言語化して、なぜ自分がそこに引っかかったのかを追い求めること。

これは病理医にとっての必須能力とすら言える。うそだと思うなら周りにいる病理医に尋ねてみるといい。






周りに病理医なんていねえよ、とつまづいた人はぜひ、思考をさまよわせてみたらいいと思うのだ。

2020年3月30日月曜日

おさつどきっ

病理学会はウェブ開催になった。4月の出張は(診断のための釧路出張を除き)すべてなくなった。

3月、4月とあらゆる出張がなくなったので、航空券のキャンセルや宿泊のキャンセルをした。自分でとったチケット分のお金は、ぼくの元にほぼ全額返ってきた。一方、ぼくの代わりに出張先が確保してくれたチケット分のお金はぼくの元には返ってこない(当たり前です)。

でも、せっかくだからそういうお金も一括でぼくの元に返してくれていいのになー、と思ったりした。事務的にそのほうがらくじゃん? どう?




経済にも誤差があったらいいのに。

税金とかうっかりぼくだけ取り忘れてくれていいのに。

なんとか交付金みたいなものがなぜか5000人分まちがって振り込まれていてもいいのに。

でもそういうことがあると、きっとその分、まちがってお金をもらい損ねる人が出てきてしまうのだろう。

日銀がまちがってお金を5兆円くらい余計に刷ったらいいのに。

そしてうっかりしたなーこれどうしようー経済が壊れちゃうよーって困り果てた人が、無意識にミスを隠蔽しようという逃避の情動によってうっかりパチョコンを誤操作してぼくの口座に5兆円を全額ふりこんでしまい、ぼくの口座がある銀行の側もそれに驚いてなんかたまたま担当者がめんどうな案件を4つくらい抱えている時期でいろいろと面倒だったから表面上はそういうのがなかったことにして処理して、でもせっかくなのでぼくが5兆円を少しずつ分割して引き出すぶんにはかまいませんよ、みたいな特例打ち出の小槌システムみたいなものをぼくだけに付与してくれれば、いいのに。




よくはないか……国家予算渡されると正義のために使いたくなっちゃってめんどうだ。

だったら1万円くらいでいい。





あーどっかに1万円札落ちてないかな! それにはふせんがついていて、「交番には届けないでください。」と書いてあるのだ。偶然だけれども。

2020年3月27日金曜日

病理の話(428) 病気の分類が時代と共にうつりかわっていくワケ

病理医向けの専門雑誌を見ていると、記事にはいくつかのパターンがあると気づく。

1.すでに知られている病気を診断する「お得テクニック」について
 (診断が難しい病気でも怖くない! こうすれば診断できる!)

2.知名度が低い病気の情報
 (これを知っておかないと見逃す! おぼえておこう!)

3.病気の新しい分類方法
 (今までAと呼んでいた病気の中には、実はA-1というタイプと、A-2というタイプがあって、これらは治療法が違うんです! これからはわけて考えようぜ)

4.新しい病気の概念・2
 (そもそも今まで名前がついていなかった病気があるんです! Bと名付けます!)

ほかにもいっぱいあるけど、これくらいにしておこう。



今あげた例のうち、1と2については、ぼくは受験勉強みたいな読み方をする。「こういう情報があるよ! 知ってた? 知らないと点がとれないよ!」ってことだから、ちゃんと覚えて仕事に活かす。

しかし、医者が読む雑誌というのは、「誰かがすでに知っていた情報」だけを扱うわけではない。

実は3とか4がすごく重要なのである。



たとえば大腸がんという病気がある。この病気のことを全く知らない、という人は少ないと思う。詳しいことはともかくだ。

そして、医療系の知識をよく集めている人だと、同じ大腸がんと言っても、ステージ(病期)によって、治療法はまるで違うし、体に与える悪影響の度合いも違う、ということをご存じだと思う。

ステージ0の大腸がんは大腸カメラで取り除けば、それだけで治癒することが多い。

しかしステージIIaの大腸がんは基本的に手術によって治療されるし、ステージIVの大腸がんでは抗がん剤を含めた多くの治療法を考慮することになる。

ステージによって大腸がんのふるまいが異なるからだ。ふるまいが異なれば対応も変えなければいけない




このような、「病名はざっくりと一緒だけれど、医療者と患者がそれに立ち向かう際に対応を変えていかなければいけないグループ分け」のことを、俗に病気の分類と呼ぶ。

病気の分類は、テナガザルとチンパンジーの顔は違うよねーみたいな、「違うから分ける」というものではない。そこは注意して欲しい。見た目が違っていても対処方法が一緒だったら、わざわざ分ける意味は少し減る。対処だけでなく、たどる経過(その後何日かけてどうなるか)までも一緒ならもはや分類する意義はかなり減る。

対処方法や、未来がどうなるかという予測の結果によって、細かい分類をするかしないかを決めるのだ。




そして……時代がすすむと、この、「対処方法」が増えていくのである。なぜかというと科学が進歩するからだ。ひとことで「抗がん剤」と言っても、15年前に使えた抗がん剤と今とでは、使える薬の種類がまるで違う。今の方が圧倒的に多い。科学の進歩ってすごい。

進歩した科学を存分に発揮するためには、「新しく使えるようになった薬が、効きやすい病気か、効きづらい病気か」を、どんどん分類していくべきなのである。

最近の大腸がんは、ステージだけではなく、たとえば「大腸のなかでも肛門に近いほうにできたがんか、あるいは小腸に近いほうにできたがんか」で分類する。

さらに、「ある遺伝子に異常が起こっているかどうか」でも分類する。

はたまた、「顕微鏡でみたときに、がんが正常ソシキにしみ込んでいく最前線で何が起こっているか」でも分類する。




分類は時間軸が進むにつれて永遠にフクザツになっていく!

だから病理医の読む雑誌の記事は決してなくならないのだ!





で、まあ、人間の知能には限界があるので、分類がフクザツになればなるほど覚えられなくなっていく。だからそこを工夫するための技術というのも次から次へと出てきて……。

「フクザツになりすぎてわけわからなくなった診断手法を、こうしたらもう少しカンタンになるよ!」

というテクニックが生まれ……

それもまた雑誌に載る(笑)。

2020年3月26日木曜日

誤字ひとつを膨らませる話

自分の誤字をまじまじと眺めている。


異なる出版社から2つの教科書をほぼ同時に出すにあたり、特別企画として「2版元連携POP」を作ることになった。ぼくの手元に小さな紙が届き、そこに手書きでぼくが何事かを書く。すると、デザイナーさんがPOPにアレンジしてくれる。そういう手はずだった。

「買いたくなる」を「いたくなる」と誤記していたことには、最後まで気づかなかった。

POPのデータを数案送ったら、笑いと共に返信が来て、「ここ間違ってます」と教えられた。ぼくも笑ってしまった。(しかもこの誤字バージョンがほぼそのままデザインされて店頭に並ぶことになった。手練れか)




このミスは、ぼくの脳が普段どうやって働いているんだろうと思いを馳せる絶好の素材でもある。



そもそも、「書く」という言葉に個人の願望をのっけた場合の正しい日本語は「書きたくなる」だ。「書いたくなる」という表現は存在しない。だからこの誤字はかなりやばい誤字に思える。

ナチュラルに誤字したときのぼくの頭の中は、あくまで「買いたくなる」という音と「買いたくなる」という意味で満ちあふれていた。「書」という言葉が書き記されてしまったのは単なる混線、完全に無意識だった。「買」と書いたつもりだった。それなのに、「書」という漢字自体は、画数、書き順ほかすべて正確に記されている。まずこのことがとても不思議だ。

バッターが高めのボール球に思わず反応してしまうときにもスイングは途中まで完全な軌道をとってしまう、的なものか?

ちょっと違うか……。でも途中から反射で書いているというセンはありそうだ。




「買」という文字と、「書」という文字は、横線が多いから似ているといえばそうかもしれないが、実際のところ、全然似ていない。

発音が同じ「か」だというだけ。

「かう」と「かく」。送り仮名からして違う。音読みに到っては「ばい」と「しょ」。ぜんぜんかぶってない。

となるとぼくは、この2つの文字を、無意識では「か、の箱の中」にまとめてあって、それらを「指先のあたりで」「反射的に」誤選択したということににある。

うーんぼくの脳内インデックスって音で分けてるのか!

あるいは……小学校2年生くらいのときに習う漢字という共通点もあるか……。





ぼくの無意識を、もっと意識的に探っていく。

いったいどういうメカニズムで「書」という漢字が出てきてしまったのか。



1.頭の中には「買いたくなる」というイメージが浮かんでいる。「買いたくなる」というフレーズを紙に書こうとして指先を起動させる。

2.「買」という漢字を書くために、脳内ストック「か」を検索してすかさず飛び付いた字、これが間違っていた。しかし頭の中はすでに「~いたくなる」以降のことを考えていて、POPにほかにどういう字を書き込もうかなということで思考が占められている。つまり「買」を書くことについては、あっという間にチェックがおざなりになる。

3.「書」の書き順や運指は指先にしみ込んでしまっている。だから、すでに意識がそこになくても無意識で書き終えることが可能。

4.「買いたくなる」と書いたつもりでいるので、間違いに気づかない。

5.そういえば、直後に「教科書」というフレーズがある。もしかしたらこの「書」に引っ張られたのかもしれない。買いたくなる教科書、というフレーズを書き始めたときにはすでに「教科書」くらいのところを脳内では書き終わっていた可能性もある。だから混線したのか?




アハハハ変だなあゲラゲラゲラ。

「書いたくなる」という言葉の違和感がすげぇなあ。味わいがあるなあ。

「見たことない言葉の浮ついたかんじ」に直面する魅力が出てきたなあ。

雑だけどこれって記号論でもあるなあ。





人はたまに、間違いの理由をうまく解析できないようなミスをおかす。

そのときの脳はおそらくいつもと同じようにぐちゃぐちゃ働いていて、たまたまいくつかの偶然が重なりつつも、ある程度「妥当なつながり」によって変な発火が連続して発生してミスが完成する。

今の書き間違いを105歳のぼくがやっていたら「ボケた?」と言われるかもしれない。

でもこれってボケなのかな? どうももうちょっとフクザツな……ていうとなんだか偉そうだな、でも、「複雑系の隠し子」みたいな現象なんじゃないかなあ。

ていうかそもそも、脳はなぜ普段はこういうミスをしないのか、というほうが魅力的な問いではある。うーむ誤字ひとつでここまで混迷するとは……。あ、誤字だから混迷するのは、あたりまえか。