2022年12月9日金曜日

ぼくのためだけの現像

知人のベテラン医師が自費出版した本が届いた。ただし直接ぼくのデスクにやってきたわけではなく、当院の別部署に勤める男からの手渡しである。「先生は献本は受け取らないんじゃなかったでしたっけ?」と遠慮がちに男はやってきて、「渡してほしいとの伝言でしたので……」と、そこそこ分厚い本を差し出した。表紙に「写真集」とある、しかし、中をめくると写真と文章とが半分半分くらいだ。文フリに置いてそうだなと思う。


最近、Twitterでは写真のうまい人の写真ばかりを見かける。撮影したあとに「現像」(デジカメの画像をいじくって見栄えを調整すること)をしっかりやるのが大事なのだということもこないだはじめて知った。その上で、手元に届いた本の写真を見ると、いかにも「撮って出し」という感じで、全体的に画面はくすんでおりメリハリがない。「現像」がされていないのだろう。曇りの日は暗く、晴れている日であっても画面全体がこちらに主張してくるという色合いではない。つまりは普通に素人の写真である。ぼくは、「素人には素人の良さがあるよね」みたいなことを基本的に言わないタイプの人間だ。Twitterで素人がちょっとしたアドバイスで玄人はだしになっていくところを見ているので、「まだ素人のままなのか、それで出版までしてしまうのか」というところがチクリと気になってしまう。

ところが、ぱらぱらとページをめくっていくと、なんとなく心がざわついてくるので驚いた。写真は基本的に、知人(といってもぼくよりだいぶ年上の方だ)が暮らす函館近郊の風景ばかりである。雪の中を市電が進んでいくようす、見覚えのある坂道、生き物すべてを殺しそうな冬の寒い海、なんの変哲もない五稜郭の桜。とりたてて珍しい画角でもないしモチーフも平凡だ。なのに、どれを見ても、気管の奥に何かが詰まったかのような気分になる。微弱な苦しさが体内を這い回る。猛烈な勢いで自分の過去と目の前の写真が紐付けられていく。いったんページを閉じてしまう。そのまま、めったに読み返さない本を置くための本棚(職場にはそういう本棚がある)に移してしまおうかと思ったが、思いとどまって、まだデスクの手が届くところに置いてある。たぶんまた眺めることになる。


こうしてぼくは素人の写真に動揺し、ざわつかされてしまっている。


自分が作ったアルバムでもないのに。このとおりの記憶を持っているわけでもないのに。ぼくが小さいころから幾度となく目にした、母親の実家のある道南地方の「光量」、あれに近いものが、ぼくの心の中に張り巡らされた網をフックでひっかけてまるごと浮上させてくる。もし、これらの写真をプロのカメラマンが上手に「現像」して見栄えのよい写真にしていたら、きっとこの写真集はもっと一般に売れるものになったろうし、それでいてぼくの過去を次々引っ張り上げてくるような不思議な追加効果は出てこなかったのではないか。そんな気がする。東京や大阪などに住む人がこれを見たところで、ミトンで頭を押さえつけてくるような圧迫感をもたらす特有の「写真全体にかぶさった灰色み」に魅力を感じたり思い出を惹起されたりするとは思わない。しかしぼくはどうもこの写真集の魅力を受け取るレセプターを有していたようである。


同郷のよしみと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、無加工の写真が無防備にそこにある、ただそれだけのことでぼくは、田舎の家にあった黒電話とその横においてあった手製の電話帳(メモ帳に電話番号が書いてある)を思い出した。砂浜なんてどこにもない岩場の海岸で母親と弟といっしょにウニのカラを避けて歩いたことを思い出した。付き合っている女性が変わるたびにドライブでいつも同じルートを通って羊蹄山のほうへ向かいながら、こういうデートの何が楽しいんだろうと自分でよくわからず、だから相手も当然キョトンとしてしまっていた日々のことを思い出した。夏なのに冷えるかんじ、冬だからさらに冷えるかんじ、生きている動物に十全の幸せを与える気が無い北海道の厳しい暮らしを思い出した。




先日Twitterである有名な芸能人が、別の有名な作家をもちあげて、「本当にこういうの書かせたら天下一品ですね」みたいなことを言っていた。ぼくもその作家の文章がけっこう好きだったのだが、素人の写真集を読んで以来、「現像」の技術が高すぎるものになんだか少し食傷気味になってしまったようで、もちろん、多くの人の最大公約数的な感動をいっぺんに惹起するには絶対に「うまく現像」したほうがいいに決まっているのだけれど、なんというか、ぼく、たった一人ぼくのためだけに撮影したものでもないかぎり、ぼくはもう100%満足することはできないのかもしれないなと、ひどく贅沢なことを思った。

2022年12月8日木曜日

病理の話(724) ベテランドクターに話すように学生に話す

病理医をやっていると、とにかく、他科の医師と話す機会が多くなる。ふつうの医者は患者と話すが、ぼくら病理医は患者と会話をしないぶん、ドクターをはじめとする医療従事者とコミュニケーションをとる。

このコミュニケーションを、文章だけで終わらせることも可能だ。いまいち対人的なやりとりがしっくりこないタイプの人は、病理医になってしっかり文章を書けばいい。会話しなくても、文章だけでやりとりができるのが病理診断のよいところではある。患者だとそういうのはいやがるだろう。手紙だけで診断されるなんてとんでもない! でも医療従事者なら大丈夫だ。丹念に書けばいい。それがしっかりと仕事になる。すばらしいことだと思う。

……と書いておいてなんだが、ぼくはどちらかというと、話すほうの病理医だ。「ちょっとした疑問に秒で答えてほしい」という要求が、病院の中ではそこそこ発生する。別にそのようなお悩み相談室的な役割を病理医がすべて担う必要はないのだけれど、ぼくはなんとなく、よろず相談所的なものを病理検査室に掲げていたいタイプの病理医で、そういうときに手軽に電話してもらえる病理医でありたいと願っている。



ただし……日頃からいっぱい話しているというのと、話すのが上手であるということは、イコールではない。

40代も半ばになろうとしているけれど、ぼくのしゃべりはいつも飛躍が大きいし、親しい人からは「また言ってる」みたいなことを言われがちだし、友人の犬からはしゃべる方のコミュ障などと命名されて久しい。少なくともしゃべりの達人ではない。エンターテインメント的な話はあまり上手ではないけれど、でも、病理診断をめぐるお仕事トークならば、経験も手伝って、それなりのレベルに達しているはずである。

今日はそんなぼくから、医療現場で医療者としゃべるときのコツをひとつ、書いておく。




学生にタメ口で始動をするな。

研修医にタメ口で何かを指示するな。

直属の部下にタメ口で感情をぶつけるな。




ひとつと言いながら三行書いたけれどつまりは「タメ口」、これが病院の中では基本的に必要のない文化だということを言いたい。

ぼくがタメ口を使って仕事のコミュニケーションがうまくいくと思っている相手は唯一、「同級生」である。多少の年齢差はあっても同級生なみに仲が良いケースではタメ口でもかなり学術のトークを深めることができる。

でも、それ以外のケースで、相手が目上の場合はもちろん、あきらかに目下であったときも、タメ口を使った瞬間に、相手の脳から「ちょっとでもわかってやろう」という気合いが5%くらいスーッと漏れ出て消えてしまうのが見える。

タメ口は高次のコミュニケーションを阻害する(医療者同士の間では)。ぼくはそう思っている。



でも理由があまりわかっていない。なんでだろうなーこれ。相手がムカッとするからなのかな。タメ口っぽいしゃべりをした瞬間から、一回り以上も年下の人間があきらかにこちらのしゃべりに対する集中力を欠く。

でもそれだけじゃない気がする。



日頃からタメ口を使わないように気を付けていると、なんとなく、「学生相手なのに、まるでベテランドクターに話すかのように丁寧な口調」になる。これ、たぶん、ポジティブな追加効果をもたらしている気がする。口調を丁寧にしようと思うとき、脳になんらかの動力を外付けして、常に緊張のエンジンを回す感じになる。ぼくの場合は。すると、なぜだろうか、口調だけじゃなくて思考も一段丁寧になる。不思議なことに。丁寧に丁寧に話そうと思うと、それまでこうやって教えようと考えていたことが、あるとき、「さらに上手に」説明できることに気づいたりする。なんなんだ? 脳に適切な負荷をかけておいたほうが調子がよくなるってことなのかなあ。



言語化しきれないけど今日はこれくらいにしておく。ぼくはタメ口じゃないほうが技術的にいいことがあるということを言いたかったのです。

2022年12月7日水曜日

住むタイムラインが違う

ひとむかし前(20年くらい前)に比べると、あきらかに「まじめに病理医になりたい人」の数が増えている。近隣の病院に話を聞いても、ボクトツに修業を続ける優秀な病理医のタマゴたちが次々見つかる。所属先、学会、どこに行っても多数の病理医たちがよく循環し、臨床医に提供できる仕事のクオリティも平均的に高くなっていると思う。

おかげでTwitterで目にする「だめな病理医」や「うまくいっていない病理界隈」の話が、どこか他人事のように感じられる。現に、「病理界隈」と入力しようと思ってキータッチしたところ、「病理科祝い」と変換されてブラボー感が出た。

どこにいるんだろう、だめな病理医は。本当にいるのだろうか。「フィクション」ではないのか。

ツイッターはフィクションかもしれない。ほんとうはわりとしっかりとした病理医が、鬱屈を発散させるためにキャラを作り込んでいる可能性もある。




……などと、穏やかなところばかりを眺めながらのうのうと暮らしていると、ときに、「汚いところから目を背けるな」とか「自分だけ楽な場所にいて本質を見ようとしていない」などのおしかりをうけることも……

ない。

のうのうと暮らしていても、しかられることはない。まじめな人しか見なくていい。きちんとした人だけ見ていれば大丈夫だ。

なぜか? みんな優しくなったからか? いや、違うと思う。たぶん今は、それくらい分断が進んでいるということなのだ。

こちらが平和に暮らしているところにズカズカと入り込んできて怒声を浴びせる人、数年前はちらほら見かけたが、ここのところ本当に見かけなくなった。ケンカ慣れしている人たちどうしでケンカをするのに忙しくなっているのだろう。何か突っかかってこられても一切相手をしないぼくに関わっている時間が惜しいのではないか。






「ヤンキーマンガとラブコメとが同じ雑誌に載ってるのが普通の社会だよ」と言ったのは剣道部時代の先輩だったと思う。ジャンプはバトルと恋愛、マガジンはヤンキーと車、サンデーはエログロと青春、みたいな住み分けが(これもずいぶん雑なまとめかただが)あるのを知った大学時代のぼくが、「たしかにジャンプってジャンプらしさありますよね」と言ったとき、


「ジャンプばっかり読んでる人は、マガジンばかり読んでる人と同じ街に住んでて、なんなら隣のマンションに暮らしてて、同じコンビニで雑誌を買ってるのに、お互いに別世界だと思ってて、ぜんぜん生活が交わらない」


みたいなことをその先輩は言ったのだ。振り返って見るとそれは言い過ぎでは、と思わなくもないのだが、逆に令和の今にあてはめてみると、たしかにツイッターをやっている人はやっていない人と本当に交わらないなあと思うし、雑誌ごとに根付いたファン同士が交差することもあまりなくて、うん、先輩はたぶん20年後の今からタイムマシンで戻っていったんだな、と感じる。分断が進んだ世界にいやけがさして昔に戻ってジャンプとマガジンの分断を煽っていたということか? 人間が小っさ。




ツイッターで職業名で毎日検索をしていると、わけのわからないことを言って炎上を狙っている病理医あるいは病理医に興味を持つ人がちらほら見つかることがある。ぼくは彼らに突撃されたことがない。住む世界が違う……というか住むタイムラインが違う。もうこの先交わることはないのだろう。自分が今こうしておだやかな方にいられるのは単なる偶然だろうなあと、偶然すなわち幸運に感謝したりもするのだが、向こうにいる人たちは人たちで、ごく客観的に眺めているとあれはあれで幸せそうだなと思わなくもない。よかったじゃん、みんな幸せで。

2022年12月6日火曜日

病理の話(723) 病理診断が与えるものは因果関係の証明ではなく仮説形成のための素材である

患者が病気に苦しんでいるときに、細胞を顕微鏡で観察して、そこに「原因」を探し出すのが病理診断の役目のひとつだ。

ただし、その「原因」がたしかに「原因」であるとさいしょに決めるのは、じつは病理診断ではない。

何かの病気の「原因」を決めるのは、病理診断も含めた広大な医学全体である。

ロケットを組み立てるのには、ものすごくたくさんの職種の人びとが関わる必要があるだろう。素材、エンジン、軌道計算、お金を集めてくる人、どれか一種類の仕事だけでロケットが完成することは絶対にない。それと似ている。病理診断だけで、「ある物体A」が「ある病気B」の原因であると言うような、ロケットにも似た「美しい証明」を達成することは残念ながらできない。

病理診断もまた医学という統合作業のいち担当部門でしかない。画像診断、血液診断などといっしょに病理診断が素材を提供し、それらが統計学者・疫学者たちの力を借りて「因果関係」にまで組み上げられていくまでには、けっこうな時間と手間がかかっている。

ひとたび、幅広い医学のトータルパワーによって「ある物体A」が「ある病気B」の原因だと言えたなら、その先、患者からある物体Aを見つけ出すにあたって病理診断がとても役に立つ。

ちょっと小難しいことを言っていてわかりにくいかもしれないけれど、「すでに原因とわかっているものをプレパラートの中から見つけ出す」のは病理医の得意技だ。ただし、何か新しいものを見つけて「あっこれが病気の原因だ!」と言い切ることは、病理医の仕事の範疇を超える。





ピロリ菌が胃炎の原因のひとつであるとわかったのは1984年ころのことだ。ぼくが6歳のときである。それが一般の人びとに知られるようになるにはさらに時間がかかった。おそらく、ぼくが19歳(大学生)になるころにも、まだ世の中には、

「ストレスがひどいと胃炎になる」

という話が広く語られていた。

それが完全に間違っていたわけではない。たしかに、いわゆるストレスも、胃炎を悪化させる「原因のひとつ」としては見逃せない。しかし、ストレス「だけ」で胃炎になることはかなり限られたケースだ。交通事故で全身の臓器をはげしく損傷するときのような、それってストレスっていうかもはや人体のクライシスだよね、くらいの状況だと、確かにピロリ菌なしでも胃炎が起こりうる。しかし、日常生活でどれだけ「胃が痛くなるような」暮らしをしていたとしても、実際にそれで胃炎が発症しているケースはめったにない。胃炎になるにはもっと具体的な「原因」が必要なのである。

(※ちょっと複雑なはなしをすると、胃炎ではないが胃のあたりが痛むということはある。ストレスで胃腸の動きが悪くなることは、胃炎とはまた違ったメカニズムで起こりうるのだ。これが世間一般に「胃炎」と称されることはあるのでややこしい。)

1984年にオーストラリアのウォーレン(病理医)とマーシャル(その部下)によって、胃の中にピロリ菌という菌が見出されたときも、「あっ菌がいる! だったらこの菌によって胃炎が起こるはずだ!」とすぐに証明できたわけではない。

ウォーレンはなんとなくピロリ菌が胃炎の原因ではないかと「疑って」はいた。しかし、そこに菌がいるから胃炎の原因に違いないというのは、とても乱暴な考え方である。

地震が起こったときにその地域でたまたま大相撲の巡業が行われていたとして、「あっお相撲さんが四股を踏んだから地震が起きたんだ!」とニコニコ言えるのは小学生までだろう。「たまたまいただけ」の可能性を考えないなんてありえない。

あるいは、火事が起こったとして、それを見物している人が必ず放火犯だろうか。放火犯は現場に戻る、みたいな、昭和のドラマの定型文みたいな考え方だけで捜査が終わったら警察はすごく楽だ。でも実際には、火事のような「派手な事件」が起こると、かならず見物人はあらわれる。「まず火事が起こって、それが目立つから周りに人がよってくる」という可能性を考えないなんて雑だと思う。

因果関係の証明というのは、「いるかいないか」だけでは語れない。

顕微鏡でそこに「あるかないか」を見るだけで、因果関係まで解き明かすことは絶対にできない。

(※どうもこれをわからないで、あるいは意図的に無視して、病理医が見たものは病気の原因そのものだとか、病理解剖をすれば病気の原因がわかるなどと安易に言いたがる人がいるのが最近気になっている。)

大事なのは「何かを見出してから、それをどのように考えて、いかなる仮説を立てて、その仮説をどのような科学的手法で証明していくか」という一連のプロセスなのである。




ウォーレンもまた病理医であった。彼は、ピロリ菌が胃炎の原因であることを突き止めるにあたって、「病理診断」以外の方法を丹念に用いている。病理診断以外の方法とは、基礎研究の手法や統計学の手法だ。

有名な話だが、ウォーレンの部下であるマーシャル(彼はまだ病理医ではなく、今で言うところの研修医や研究医のような若手だった)は、ウォーレンから託された「ピロリ菌の培養」という基礎研究手法に失敗し続けた。ピロリ菌は培養に時間がかかる菌であり、培養条件も他の菌とはいろいろ違うということが当時知られていなかったためだ。あるときマーシャルは培養をほっぽらかしてしっかりと休暇をとった(大事なことである)。休暇中、人に培養を頼むことなくシャーレを放置しておいたら(きっとそれまで何度も失敗してだんだん面倒になっていたのだろう)、休暇明けに捨てようと思ったシャーレの中にピロリ菌がわっさり増えていて、やったマジかよ、ピロリ菌増やせたじゃん! と喜んでそこから次の実験に入ることができた。若干のサイコパスみを感じるエピソードである。

そしてマーシャルはたぶんサイコパスなだけではなくちょっとアホだったのではなかろうか。次に、そのピロリ菌を自ら飲み込んで自分に胃炎を起こした。マーシャルの胃の組織を(おそらくウォーレンが)顕微鏡で見て、ああ胃炎になってるね、そしてピロリ菌もいるねえと判断して、「ほら! だからピロリ菌が胃炎の原因なんだよ!」と証明した……という有名なエピソードがある。やはりサイコパスである。

けれど、実際の彼らはもっと複雑なことをやっている。菌を飲んで病気の原因です、なんていかにもドラマチックだけど、それで因果が証明できるほど医学はぬるくない。

マーシャルがピロリ菌を飲み込んで胃炎が出たからと言って、即座にピロリ菌が胃炎の原因であると「確定」するなんて、とんでもないことだ。お相撲さんや火事の野次馬のことを思い出してほしい。マーシャルのエピソードは超有名で、たいていの医学生も知っているのだけれど、冷静に考えて欲しい、旅行に行ってシャーレを放置したりピロリ菌を自ら飲み込んだりするサイコパスが、ピロリ菌以外にもわけのわからないものを日常的に飲み食いしたり、生活様式が通常の人と比べてあきらかに破綻していたりする可能性だってある。彼はピロリ菌を飲んだ同じ日に、もしかしたら砂鉄を飲み込んで体の外から磁石をあてて遊んでいたかもしれないし、ホワイトスネイクを飲み込んで大道芸に精を出していたかもしれない。もっと言えば、マーシャルでは胃炎が起こったけれど、ウォーレンが同じ事をしても胃炎にならない可能性だって(その時点では)あった。

「たった1例」を見て因果関係をどうこう言うなんてそもそもナンセンスなのだ。何十例、何百例という検討をくり返して、「ピロリ菌がいると、いないときに比べて、たしかに胃炎になりやすいねえ」的な比較作業をいくつも行ってはじめて、ウォーレンとマーシャルは確かにピロリ菌が胃炎の「原因」であると納得し、世界もそれを認めた。



ひとたびピロリ菌が胃炎の「原因」だと明らかになってからは、病理医の仕事はむしろ増える。原因だと確定してそれで終わりではないからだ。毎日顕微鏡を見て、さまざまな患者の胃の検体の中にピロリ菌という「病原体」がいるかいないかを、延々とチェックし続ける作業が加わったからだ。わかっているものを探し出すことこそ病理医の得意分野である。「ウォーリーを探せ!」にも似ている。「ウォーリー」がわかっているからこそ探せるのだ。あの絵本を読んで「ある人を探してください、名前はウォーリーですが姿形はまだわかっていません。誰がウォーリーかも自分で考えてください」と言われたら子ども達はみんな発狂しただろう。ある意味、ウォーレンはまだしもマーシャルはとっくに発狂していたのかもしれない。そして発狂するくらいのことをやってはじめて医療における因果関係が明らかになってくる。ひとりひとりの患者から採取した細胞を顕微鏡で見ただけで「あっ因果関係が見えた!」などと言い出す病理医は基本的にヤブ医者である。そういうことじゃないのだ。そういうものではないのだ。

2022年12月5日月曜日

スン化論

ちかごろは、リアルタイムで何万人もが視聴するYouTubeライブを見て、それを楽しかったとツイートしたところで、同じ番組を見ていた人が至近距離に誰ひとりいないのがあたりまえになった。仲間はいつだってコメント欄にしかいない。

スマホゲーム、アイドル、Nintendo。どれもかなり強いコンテンツなのに、職場の誰かがこれらについて話しているのを聞いたことがない。

だからせめて、「ああその話題はツイッターで見たよ」と言う話でなんとか相手のことをわかろうとする。深くは語れないけれど、あなたのその趣味、ぼくもまったく知らないわけではないから、話くらいは聞けるかもしれないよ、ということだ。

ところが、実際に「ツイッターで見たよ」をぼくが現実世界で言うことは非常に少ない。

なぜなら、


(出た出た、ツイッター。この人こういうのほんと好きだよね)


という目で見られがちだからだ。


いつまでこの「抵抗」を感じ続けなければいけないのか。なぜこうまでも大衆にうさんくさい目で見られ続けているのだろうか。ツイッターというものは。



若い人は我々ほどツイッターに対する抵抗感がないとも言う。でも、若い人なんて周りにぜんぜんいないから、ぼくにとってそこは関係ない。ツイッターよりインスタとかTikTokだと言われてもそこは別にどうでもいい。摩擦が生じるのはとにかく中年との関係だ。令和にもなっていまだに「ツイッター!?」みたいな態度を続ける中年たち。本当に、何を考えているのか? そこはもうスッと、Suicaで改札を通るとかPayPayでペットボトルを買うとか、そういった感覚の延長として、インフラのひとつとして、ツイッターを受け入れていただけないのはなぜか? いつまで「PCオタクキモい」みたいな平成初期の観念を延長させてツイッターとぼくをじろじろ見下すのか?



ワールドカップで世間がドカドカもりあがっている。「昨日見た?」「見た見た!」「めちゃくちゃ良かったよね!」「良かったー」「試合後のインタビューまで見ちゃった」「見た見た! ぜんぶ見た」「長友うけたよね」「うけたうけた」「ブラァボー!」「ブラアァボオゥ!」「ツイッターでもあの部分の動画だけ回ってきたよ」(スンッ ……は? ツイッター?)←なんでここでいきなりスンってなるの? 



医学的な相談を受けることもある。「ねぇねぇワクチンってさあ」「うん」「あれ何回打ったらいいの?」「そうねえ、何回っていうか、だんだん効果がとぼしくなってくるから、おすすめって言われるたびに打っといたほうがいいよ」「あーそれネットでも見たわ」「そうでしょう」「副反応がどうとか……」「まあじっくり調べるなら厚生労働省だよ」「そうなんだろうねえ、めんどくさいけど」「わかるわかる」「でも打ったほうがいいんだね」「そうだね、おすすめだよ」「わかったありがとう」「ツイッターで忽那先生とかをフォローするのもいいかもね」(スンッ ……え? ツイッター?)←なんでここまで普通に聞いてたのに最後だけスンってなるの?




かつて「病理医ヤンデル」というアカウント名でツイッターをはじめたときに、(ここはとにかく世間一般にはスンッってされる場所なんだよな、それに気をつけなきゃな)と、自分に対して言い聞かせるようなことを何度もやっていた。自分の心に対して、くりかえし、ここはスンッってされるんだからな、気を付けないとだめなんだぞ、という注意喚起を行った。でもきっとそのうち当たり前のインフラになるだろうと思い続けて10年以上。なってねぇし。どういうことなんだよ。もうずっとこうなのかよ。それにしても人が話した話題が自分に合わないときにすぐに「スンッ」を選ぶ人って、人口の半分くらいいると思うんだけど、そういう半分とはもう一生話が合わない気がする。なんでそうなんだよ。それが進化の結果なのかよ。

2022年12月2日金曜日

病理の話(722) メテオを使わないキングベヒーモスを診断できるか

病名を決め、病気の進行の度合いをおしはかる行為が「診断」だ。FFシリーズに「ライブラ」という魔法があり、モンスターにかけると名前や属性、HPなどの各種ステータス、弱点をあきらかにすることができる。あれがつまり「診断」であると考えてよいだろう。


診断はスキルを要する。診断の初心者は、「こう見えたらこう診断する」のようなパターン認識と呼ばれる作業で行うことが多い。知識と経験を積むごとに、なかなかそう一筋縄ではいかないということがわかってくるが、レベル上げの序盤から中盤、再びFFでたとえるとサンダラを覚えるくらいまでは、世にあるさまざまな病気のパターンを身につけるだけで毎日が飛ぶように過ぎ去っていく。


パターン認識による診断をFFでたとえるならば、たとえばこんなかんじだ。


「次元の狭間でエンカウントし、巨大なウシのような体つきをしており、頭には長くて太いツノが2本生えていて、戦闘中にメテオを放ってくるので、こいつはキングベヒーモスであり、HPは18000くらいあって、水属性に弱い。」


モンスターがどのような場面で登場するのかを考え、体つきが「人間に似ているのか、なんらかの動物や植物に似ているのか」を判断し、目に留まりやすい特徴であるツノなどをチェックして、その行動様式(例:どんな魔法を使うか)を考えることで、モンスターの名前をひとつに決めて、その体力や属性をさらに細かく判断していく。どんなパターンだからどれ、と考えていくのである。


病理診断もだいたいこのように行う。どの臓器に出てくる病気で、見た目がどのような細胞に似ているかを考え、細胞自体に何かわかりやすい特徴がないかを探し、周囲の環境にどのように影響しているかを考えれば、だいたいの病名は付くし、その性質などもわかってくる。


では、どういう診断が「難しい」とされるか?


まずはエンカウントする確率が異常に少ないモンスター……病気の診断が難しい。いわゆるレアなキャラということだ。あまり遭遇したことがなければそれだけ診断者の経験も低いので見極めが遅れる。あるいは知らないと見極められない。


ただ、「レアではあっても有名」ということはけっこうある。FFでたとえると、「しんりゅう」や「オメガ」はごく限られたシーンでしかエンカウントしないが、両者の存在を知らないFFVプレイヤーはおそらくいないだろう。出現する場面も有名だし、初見だとまず全滅するという凶悪さもあいまって、おそらく多くのプレイヤーの脳裏に焼き付いているはずである。二度目に遭遇するときにはまず忘れていないし、なんなら、「ここの宝箱を開けるとしんりゅうが出てくるから開けちゃだめ!」くらいの知識は何十年経っても残っているものである。


それよりも一段難しいのは、むしろ、「よく出るモンスターなんだけど、微妙にいつものやつと違う」場合だ。パターン認識で診断をしていると、パターンを外れるタイプ、例外、にだまされてしまう。


次元の狭間ではない場所、たとえば大森林あたりで、キングベヒーモスにそっくりなやつがいきなり出てきたらプレイヤーはとまどう。

メテオも使ってこないからてっきりキングベヒーモスとは違うんだろうな、あれ、これ普通のベヒーモスかな? と思って戦い始めると、殴っても殴っても倒すことができない。おかしいぞ、やけに体力がある、普通のベヒーモスならそろそろ倒せるはずなのに……と、最初出し惜しみした火力をそろそろ全開にしないとだめかなと思った次の瞬間に遅すぎるメテオが来て全滅。

「なんで大森林にキングベヒーモスが出るんだよ! ゲームバランス崩壊じゃないか」



FFだったらそういうことはない。モンスターの出る場所はきちんとプログラムされているからだ。しかし、現実に遭遇する病気はゲームとは違う。キングベヒーモスが大森林どころか風の神殿に出ることもあるし、アルテマウェポンの隣にゴブリンが立っていることもあるのだ。そういうことは「めったにない」のだが、「まったくないわけではない」ので油断ができない。


「レアな病気」というのにもさまざまな出方がありえる。パターン認識だけではいつか必ず痛い目に遭う。現実にもライブラがあれば……と思わないことはない。しかし、現実の病理診断は、ライブラ以上に評価する項目が多いので、あの程度じゃ役に立たないかもなあ、と思わなくもない。

2022年12月1日木曜日

会津地方の相づち法

どんどん延長し続ける会議を見ている。Zoomに自分の顔が映っている。今日はうっかり、カメラをオンにした状態で参加してしまった。まあ、発言の機会があるので、顔を出すことになるのはしょうがないのだけれど、自分の発言が終わったあとにカメラオフにしそびれた。そういうこともある。おかげで視線をそらしづらい。ウェブ会議のおかげで、キータッチをしながら参加できるのはよいが、いつ名前が呼ばれるかわからないので結局あまり別の仕事はできない。

参加者はみな猛烈に忙しそうな人ばかりだ。したがっていろいろと麻痺しているのだろう。だいぶ時間が経っているのだけれどみんな最初のエネルギーをまだ保っている。それだけタフな人たちだからこそ、余計に忙しくなる。ぼくはもうへとへとだ。うんざりしている。職場で書かされる、メンタルヘルスチェックの用紙に「へとへとだ。」みたいな項目があるのを思い出す。こういうタイミングであの紙を渡されると躊躇なくチェックするだろうなと感じる。そして産業医に呼び出されてちょっと休みましょうと言われる。以上はあくまで想像である。さておき、忙しい忙しいという人はつまり体力があるのだ。HPが多いからその分働かされている。ぼくは彼らほど忙しくなれないだろうなという予感がある。会議にここまで真剣に出続けられない。能力が足りていないのだろう。

それにしても。会議の設定が2時間という時点で、誰か止めるべきなのではないか。それがさらに延長するのだからなお驚く。2時間で決着が付かない会議というのは、基本的に議題自体がまとまっていない。下準備があって、みんながあとはもう頷くだけでよいような資料が用意されていれば、1時間でなんとか会議は終わるはずだ。

でも、そうしないのは、みんな忙しくて準備がままならないからという理由と、あと、そもそも最初から紛糾することを前提として議題が設定されているから、だろう。

会議に参加する人の中に考え方がベースレベルで異なる人が含まれているとわかっているから、むしろ会議という場で定期的にちゃんと衝突しておこうと考えているのだろう。紛糾してしまった、のではなくて、紛糾するために会議をやっている。ならば2時間かかるのは当然だし、2時間以上かかっても納得できる。


納得できても腹オチするわけではない。




先日聞いたサッポロ黒ラベルのキャンペーンサイトのラジオ、「黒ラヂオ」の燃え殻×竹中直人回(第13回)がめちゃくちゃよかった。

https://c-kurolabel.jp/kuroradio/

話の内容自体もよいのだが、近年稀にみる良さとしては、竹中直人の相づちが百万点なのだ。こうやって人の話を聞くラジオ、まず耳にしたことがない。プロのアナウンサーでもこういう相づちはうたない。あの有名番組も、あの人気DJもここまで上手な聞き方はしていなかった。なんてラジオ向きなトークなのだろう。

なによりすごいなと思ったこと、相づちを打っているあいだは、そこに主張は含まれないはずではないか。こんなに聞き上手な竹中直人は、しかし、25分間で、濃厚なエピソードをいくつも出してくるのである。燃え殻さんという稀有の聞き手・書き手の引きだし方というか竹中さんとの相性がまた絶品なのだろうが、「あんなにふんふん聞いている人のトークをこんなに聞けるなんて!」という、どういうトリックなのかといぶかしむくらいの満足感があるのだ。25分しか放送していないなんて思えない。


25分だぞ。


3時間会議やった内容を何一つ覚えていないというのに。


竹中直人さぁの相づちは、こでらんにぃなあ。