2019年11月21日木曜日

小説は2回読まない

先日、「いんよう!( https://inntoyoh.blogspot.com/ )」の第65回収録で、ぼくが小説を2回読まないという話をしたら、先輩もリスナー(?)もけっこう驚いていた。

エッセイだと2回読むんだけど小説は読む気がしない。

どんな名作であっても。自分がどれだけ感動していてもだ。



小説のストーリーがわかってしまうと、基本的にもう読む気がしない……という気持ちに中学生くらいのときになってしまった。それっきり、小説は読み返すものではないと思っている。だらだら理屈を書いてもいいがこれはもう刷り込みみたいなものだ。

創作物全般を2回見ないと決めているわけではない。そもそもマンガは何度も読み返すし、一部の映画も(特にアニメであれば)何度か見てもちっとも苦にならない。

小説だけを2回読まない理由はよくわからない。先輩にも、「描写とか設定とか伏線とかを楽しもうと思ったら展開がわかった上で2回読まないとわかんないんじゃないの?」とつっこまれた。



収録が終わり、音声を聞き、自分の本心みたいなものを探って精神の中に潜り込んでいくと、ぼくにとって小説を2回読まないのは結局、自分が「文字による表現の深さ」に対してあまり興味を持てなかったからなのではないか、という結論に達する。

マンガを何度も読み返すときには、かっこいいシーンの構図や描写を何度でもみかえす。ドラゴンボールの13巻で悟空がピッコロ大魔王の腹を突き破るシーン、あそこを何度も読み返さなかったマンガ少年なんていただろうか?

紅の豚を何度も見た。セリフはほぼ覚えているけれど、見ることはちっとも苦にならなかった。小粋な音楽と美麗な映像にいつものようにひたることをよしとした。

でも、小説では、一切そういうことをしなかった。

今になって少し後悔している。




世にいる数多くの本読みは、あの本のあのフレーズがよかったよねというけれど、もちろんぼくは小説のフレーズなど全く覚えていない。

たとえば京極夏彦には、作品が変わっても登場人物が変わらないシリーズがある。そういうものは、シリーズを順番に読み進めていくうちに、お決まりのセリフとか表現が、自然と頭に入ってくる。

京極夏彦が好きだと言っておいてあれだが、結局はきっかり一度ずつしか読んでいないのだよ関口くん。

――りん、

風鈴が鳴った。

とかこういう表現は当然覚えている。

けれども細部は全く覚えていない。誰かと京極夏彦の思い出について語り合おうと思ったらこっそりスマホで感想サイトなどを探してフレーズを拾ってこないと、語れない。

ただ、おもしろい場所に連れて行ってもらったという記憶だけが残っている。





なんなんだろう。

これはもう理屈じゃない。そうやって進んできた結果、小説の技巧とか表現の妙味、もっといえば作文技術とか構成技術みたいなものが、大雑把にしか身につかなかった。




自分が昔書いた小説は、今にして思えばすべて、登場人物の「心情をどこに連れて行くか」ということしか考えずに書いた。

常に表現は雑で一直線だった。まるで学術論文のようだと言われたこともある。それが味だと言ってくれる人もいたが、ホネにだって味があるのといっしょで、つまりは肉の付いていない骨付き肉だった。

そもそも4000字以上のものはどうしても書けなかった。それは、よく使っていた投稿サイトが4000字以内というしばりをもうけた超短編小説会だったからかもしれないが、単に情景を盛り込んで文章を肉付けしていく作業に全く興味がなく、だから文章が長くならなかったからに過ぎない。





生まれてこの方小説を一度も読み返したことがない、と先輩には言った。

でもはるか昔の記憶を探っていくと、きっと小学生のころだろう、何度か読んだ本の記憶がある。

タイトルは「魔法のつえ」だ。

うろおぼえの記憶をたよりに、「魔法の杖 まほうのつえ 海外小説」などで検索をしてようやくたどり着いた。ジョン・バッカンという人が作者らしい。全く覚えていない。

たしかステッキの根元のところをひねるのだ。そうするとどこかへ行ける。

それを使って少年はどこへ行ったのだったか……。

検索してみると、あらすじ的なものとともに、藤子不二雄(A?F?)が子どものころに愛読していた本であるという情報が出てきた。ドラえもんなどのモデルになったのではないか、などとも書かれている。本当だろうか?

ぼくはこの「魔法のつえ」や、「果てしない物語」や、「ドラえもん」を、何度も読み返していた時期が確かにある。部屋に何冊か転がっていた本のうち、これらだけをときおり開いていた。決して本をいっぱい読むタイプの子どもではなかった。





この記憶にたどり着くまでにだいぶ時間がかかったが、思い出すことができた。

しかしなぜだろう。蘇ってきたイメージが不穏だ。

「魔法のつえ」が、灰色と黒の中間くらいのもやの向こうにぼんやりと浮かんでおり、子どものころのぼくはそのもやの手前で暗いベンチに一人で座って泣きながら怯えている。なぜかこのような映像がセットで浮かんでくるのだ。

ぼくはこれらの本がとても好きだったと思う。

でも記憶のぼくはなぜか怯えている。

どうもぼくはこの部分をあまり掘り返す気がない。



過去の体験を元に現在の行動を語ることを好む精神学者と、好まない精神学者がいる。フロイトとアドラーで例えればわかる、という人もいるだろう。

最近のぼくは、今の自分を過去の行動と結びつけるやりかたをしない。これは別にアンチフロイトだとかアドラー賛美でやっているわけではなくて、昔の自分は記憶の奥底に隠れてしまっているのが当たり前で、そこまでわざわざ戻る方法がよくわからないからだ。フロイトがぼくを過去に戻らせてくれるなら一度くらい戻ってみてもいい。けどそこまでしないしフロイトは死んでしまった。

そんなぼくがたわむれに、子どものころのぼくを記憶から無理矢理引っ張り出してしまったから、彼は怯えて泣いているのか。

かわいそうだ。自分の頭をなでる。




「魔法のつえ」をKindleで買うべきかどうか、ずっと悩んでいる。この本をもう一度読んだら、ぼくは今まで読んだありとあらゆる本を再読しなければ出られない時空の狭間に閉じ込められてしまうかもしれない。見返すのはマンガや映画だけでいい。

ぼくはたぶんこれからも、小説を2度読むことはないと思う。

2019年11月20日水曜日

病理の話(386) プレパラートを見て患者の年齢が当たるか

タイトルどおりの質問がきたのでここで答えます。

「プレパラートで患者の細胞をみるだけで、患者の年齢などを当てられるか?」



ぼくの場合は……2割くらいのケースでは「けっこう当たる」。

2割くらいのケース、というのは主に臓器によるものです。

胃だったらかなり当たる。

リンパ節は部位によるけどときどき当たる。

子宮は当たるのが前提。

肝臓は……自分が勤務してる病院だったら当たる。

乳腺はそこそこ当たる。

前立腺とか大腸は……自信がないな。




えっけっこう当たるじゃん、って感じかもしれないが、病理医はほかにも多くの臓器をみる。膵臓や胆管、胆嚢の場合は(生検だと)まず当たらない。食道は難しい。通算すると2割のジャンルに絞れば8割当ててる、くらいのイメージ。

なぜそんなことができるのか?



組織は老化とともに構成が変わっていく。

ピロリ菌存在下の胃は加齢とともに萎縮を起こすので、逆にいえば萎縮の度合いをみればおよその年齢はわかる。どんな腺管がどのように萎縮しているかを丹念にみて、ついでに間質とよばれるスペースの変化も丁寧にみると、勘だけど、たいてい年齢は当たる。

乳腺や子宮はもっと簡単だ。これらはホルモンの影響を受けてドラマチックに像がかわるので、ホルモンの影響がどれくらい加わっているのかをみれば、閉経しているかしていないか、閉経前だとしたらどれくらい前か、はなんとなくわかる。

ほかにも、さまざまな臓器で、「細胞が何度か入れ替わっているか、それともまだフレッシュか」を見分けることは十分可能だ。まあ、年齢当てっこゲームをしてもしょうがないんだけれど(だって依頼書に全部書いてあるし)。



もっとも、この「年齢当て」は、遊びでやってるわけじゃない。副次的な産物がある。

たとえば依頼書をみて、「60歳の女性」と書いてあることを確認して子宮内膜を観察したときに、内膜が「まるで60代にはみえない」ことがある。

異常にみずみずしくて、30代くらいではないか、と思ってぎょっとする。

この「不一致」から、ただちに直感を働かせるのが病理医だ。

「年齢に不相応な若々しい内膜。女性ホルモンの分泌が低下しているはずの60代にはとても見えない。ということは、女性ホルモンを異常に産生する腫瘍がどこかにあるのではないか?」

ただちに、CTなどの画像が撮られているかどうかを確認し、主治医に問い合わせる。これにより、別部位にある(今回の検査とは直接関係ないはずの)卵巣に腫瘍を見つけることができた――――

なんてことも実際に起こりうるのだ(もちろん今のはぼくが適当に作り上げたフィクションであるが)。だから、単なる年齢当てゲームではない。

胃の上のほうから採取してきた検体が「異常に老化」しているとする。この場合、ピロリ菌による変化であるとは考えづらい。これは自己免疫性胃炎と呼ばれる特殊な病態ではないか? みたいなことは日常的に行われているのだ。



ただ、この「年齢当て」、普段自分が務めている病院以外のプレパラートをみると、けっこう外れる(あくまでぼくの経験であるけれど)。

これはなぜなんだろうなあと考えていた。そしてある仮説にたどりついた。

たぶんぼくは、自分の病院の主治医が「どういうときに病理検査を提出するか」が身に染みついている。

「このような異常をもつ患者をみたら、こうやって病理検査をオーダーしよう」みたいな流れは、主治医や、その病院のスタイル、さらには病院に集まってくる患者の事情などさまざまな理由によって偏っている。

だからぼくは、自分の病院のプレパラートについては、HE染色の情報をみた瞬間に、多くのマスクされた情報を自動的に連想している。紐付け情報をあらかじめ脳内で統計解析しているのだろう。

したがって、普段働いていない別の病院のプレパラートをみると、背景に存在する条件が一気にかわってしまい、予測が当たらなくなる……。




ちょっと難しいことを言った。ひとつ思い出話をしよう。

かつて、ある南の島に行ったときの話。

現地の人が「ここでは天気はあちらの空から変わっていくよ」と言った。その方向は西ではなく、東南のほうだった。ぼくは不思議に思って聞いたのだ。

「天気って西から変わっていくんじゃないんですか?」

すると現地の人は応えた。

「そういえば本州からきた漁師が、昔、この島では天気の予測がつかねぇって言ってたなあ。たぶん雲の動き方が本州とここでは違うんだよ」




他院のプレパラートをみるといろいろ予測がはずれる、というのも、なんだかこれに近いような気がする。年齢当てゲームはほどほどに。もちろん、診断に役に立つ脳の訓練は、怠ってはいけないのだけれど。



これで答えになったかな? 質問者の方。ちなみにぼくは十二指腸もそこそこ年齢は当てられる。元ネタはフラジャイルでしょ? 知ってる。

2019年11月19日火曜日

レセプター理論

職場に歯ブラシを置くことで、午後、口の中がすっきりした状態で仕事ができる。

たった一行で言い表せるのに、長年やってこなかった。生活をいい方向に一歩進めることができる、魔法の一行だった。

こういう一行がいっぱいあるんだろうなと思ってツイッターをやっていた。けれどもすぐに気づいた。

「魔法の一行」は、一行しかないので、読み飛ばしてしまうことが多い。



冬のデスクは寒い。だからひざかけがあると快適だ。

たったこれだけのことに気づくのに何年もかかった。だって自分の脳に「ひざかけ」に対する受容体がなかったのだ。「ひざかけ」という言葉を見てもまったく心が動かなかった。意味はわかるのに。どういう役割を果たすかも知っているのに。

一行しかないライフハックは、そう簡単には心に刺さらない。心の方が欲しないと、受け止めることができないのである。




という話を、仏教の「慈悲」とか、医療の「問診」みたいな場面を念頭において、近頃はよく考えている。

受け手の側に準備がない情報を伝えるにはどうしたらいいのか。

それは「伝える」という行為で行うべきものなのか。

そういったところを洗い出す作業は哲学に近い。

だからよく哲学書を読むようになった。こんな何千行もある本、昔は全く読める気がしなかったのだが……。まあ……。心が欲しているのだろうな。

2019年11月18日月曜日

病理の話(385) すみません病理の写真がないんです

東海地方「スクリーニングCTC研究会」に出席するため、名古屋市内のホテルにいる。あと30分くらいしたらチェックアウトしなければいけない。

今回の研究会は、名古屋市内で朝から夕方までみっちり開催される。このプログラムだと、札幌に住むぼくは日帰りでは参加できない。なので久々の前泊である。

最近は福岡とか大阪の出張であっても日帰りだった(それもどうかと思うが)。

一泊できると、これだけラクなんだなと今さら感動している。ブログだって書けちゃうぜ。




研究会前日の夜、懇親会に参加することになった。10人ほどが集まる場所で飲み食いをしていたら、翌日に症例を提示する人が、圧強めに謝罪してきたので驚いた。彼いわく、

「先生すみません! 明日、症例検討で提示する病理の写真が、しょぼいんです……」

ぼく「しょぼい、とはどういうことでしょう? 解像度が甘いということでしょうか?」

人「いえ……臓器の肉眼写真はあるんですが……顕微鏡写真が足りないかも知れなくて……」

ぼく「えっ肉眼写真があるんですか? ならそれでほとんど大丈夫ですよ!」

人「あっ、そうなんですか? 顕微鏡写真いらないんですか?」




いらないわけじゃないけど、どっちかというと、臓器を直接カメラで撮影したマクロ写真(肉眼写真)のほうが大事だ。

これはけっこう勘違いされるのだけれど、CT、超音波、バリウム、内視鏡など、あらゆる画像検査をまじめに考える上で、病理の写真で顕微鏡像を重要視する必要はない。

細胞の核がどうしたとか、細胞質にどのような模様がみえるのかという情報は、あまりにミクロすぎて、現場の医者や放射線技師などが使うにはマニアックすぎるのである。核がでかいからCTで白く染まるというものでもない。

つまりは見ているもののスケール感の問題だ。CTや超音波で見えるものならば、それと同じ画角で撮影した肉眼像(マクロ像)を横に並べた方が理解が進む。





だったら病理医が顕微鏡で細胞をみる意味はなんなんだよ、と言われたりもする。細胞をみることは、臨床の画像とあわせるためではなく、よりスケールの小さい場所にひそんでいる情報をクローズアップするためなのだ。よりスケールの小さい場所というのはどこかというと、DNAであり、遺伝情報である。そう、生命科学に肉薄するためには細胞をどんどん拡大していくのがいい。CTや超音波で直接DNAを見ようというのは、それこそスケール感を無視した言い草なのだ。だから、遺伝情報まで探りたければ、サイズ的により近い、細胞の強拡大情報を集めるのがいい。


ひとつの病変をみる上で、各人が異なるスケール感で仕事をすると役に立つ。病理医はたまたま、マクロからミクロまで仕事があるので、マクロに仕事をしている放射線技師たちと、ミクロに仕事をしている生命科学者たちの間に立っている、ということなのである。



というわけで翌日の研究会はうまくいった。けっこうきれいなマクロ写真を提出していただいたので、よいディスカッションができたと思う。いつもこうだといいなあ。

2019年11月15日金曜日

ハイウェイトリプルエックスリビジッテド

大学時代に所属していた剣道部には、「剣吉」という名前の部誌があった。一年に一回、原稿を書くように言われ、なにかを書かなければいけない。

四つ上の代のキャプテンは、服がおしゃれでDJのバイトをしており話がとてもうまくて頭が激烈によく卒業後は脳外科医になった。あらためてこう書くと、自分がつらくなるほどにスペックの高い先輩であるが、部誌に投稿する記事までおもしろかった。とんでもない先輩だ。

20年以上昔だから詳しい内容は忘れたけれど、確かそれは「友人の話」みたいなしょうもないタイトルで、しかし今でも一部を覚えている。「友人はよく、小さないい間違いをする。自分で撒いた種、と言おうとして、自分で炊いた豆、ときれいに意味の通じるいい間違いをしていた。」みたいな、とるに足らない、しかしその経験をしたらまず多くの人が「ねえねえこんなことあったよ」と周りに言いたくなるような絶妙の小ネタが書かれていた。

もちろんぼくも剣吉に何かを書いた。しかし何を書いたかはまったく覚えていない。

うまく書けなかったのかもしれない。だからこそ余計に、先輩の書いたものが心に残っているのだろう。そんなとこだろうと思う。

いずれ自分でもなにかこうして自由にちょろい文章を書けるようになるものだろうか、ぼくは確かそこで少し成長したいと思ったのだ。確か。

ちょうどそのころ、ホームページを作った。世に自作のホームページが流行りだしていたころだった。「魔法のiらんど」のようなレンタル型の無料ウェブサービスをちらほら目にしたが、へたなりに自分で絵を描いてトップ画像を作り、ニフティのサーバーを借りてホームページビルダーというソフトを使って自分のホームページを作るほうがいいと思った。

自分の書くものは雑文と呼ぶべきだろうなと思った。随筆とか随想という言葉を使うには自分の文章に随意性は感じられなかった。自意識は羞恥心の殻の内部にパンパンに閉じ込められていた。しかし、「これはいつか世に届く」と言えるほど自分の文章が世にとって価値があるものだとは思えなかった。「ひとつの文章は常に15分以内で書く、だから多少稚拙でも仕方ない、これは即興芸なのだから」と、誰に対して用意したのかわからない言い訳を掲げて、毎日のように何かを書いていた。

大学を出て、大学院を出て、社会人になってもまだぼくはホームページに何かを書いていた。少しずつ頻度は減っていた。ツイッターを始めたときに、ツイッターはブログやmixi、Facebookと連動させようと思って一気に媒体を増やしたが、パソコンを買い換えていくうちにどこかのタイミングでホームページビルダーをインストールし忘れ、そのまま更新しないでいた。

あるとき、うっかり、インターネットのプロバイダーを変更するときに、ホームページのサーバーの契約ごと解除してしまった。一年以上経ってアッと気づいたときにはすべてのデータがなくなっていた。ホームページを作っていたときのノートパソコンもどこにあるかわからず、データのサルベージもやっていない。

日記帳を紛失するように、ぼくは自分のホームページをいつの間にか失っていた。ウェブアーカイブスを使えば一部の痕跡くらいは見つけることができるが、ま、いいかな、と思いそれっきりにしている。

思えばあの稚拙な日々は、文章講義を受けるわけでもなく、名著にどっぷりひたったわけでもなく、ただ竹刀を振ったり居酒屋で眠ったり、およそ研鑽と呼ぶには半端な、振り返ってみればなるほどモラトリアムとしか呼べない雑な積み重ねであった。それが今のぼくを形作っているのだからぼくは自分を笑って肯定する気にはなれないが、当時のぼくにひとつ言いたいことがあるとしたら、「どうせ無理だ」と思いながら毎日キータッチしていたそれは確かに文章力をつける上では役に立たなかったけれど、なぜかツイッターで全リプする根気となって今に残っているよ、ありがとう、みたいな感じである。あと結構本が出るよ。よかったなお前。



2019年11月14日木曜日

病理の話(384) 説明と同意は何も患者に対してだけ行うものではない

インフォームド・コンセントという言葉は頻用されすぎて、もはや人々の注意を集めることも少なくなった。そりゃそうだ、という話だからだ。

「患者に対して、今の状態や今後の治療選択についてきちんと説明をし、理解してもらい、その上で同意してもらって、二人三脚で診療を進めていこう。」

これがインフォームド・コンセントの概念である。何をいまさら、当たり前ではないか、と、誰もが思っていてほしい。



……昔は違った。



医者は治す人。患者は治る人。そこには主従というか能動と受動の関係があって、患者は全てを知る必要などないし、知ろうと思ったって素人だからどうせわからない。だから説明なんてなくていい、圧倒的なカリスマ性で引っ張っていってくれよ、先生! 

これが昔の医療だ。今これをやったらだいぶ寒いと思う。



これは別に理念とか倫理の話をしているわけじゃない。単純に、西洋医学は、患者がきちんと「当事者」であったほうがいい。自分の体に今起こっている状況をきちんと理解することは、天気予報をみて傘を持つかどうか、カーディガンやストールをバッグにしのばせていくかどうか、厚手の靴下にするか薄手の靴下にするかと悩んでその日のコーディネートを決めることと変わりがない。知らずに飛び込んでいけば変な汗をかいたりふるえたりして困る。薬をなぜ飲まなければいけないか、飲むとしたらどういうタイミングで飲むべきか、いつまで飲んでいつ飲み終わっていいのか、そういったことを理解しないで投薬だけ受けても病気は治らない。

すなわち、インフォームド・コンセント(説明と同意)というのは、患者と医療者が視点を共有すること、みなが当事者となるために必要なことなのである。決して裁判対策などではない(実際には裁判対策だから、皮肉で書いている)。



そして最近思うのだが、インフォームド・コンセントは何も主治医から患者にだけ向けて行われるものではない。たとえば、病理医から主治医に対しても行われるものである。病理診断というのは非常にマニアックで高度に専門化された知識なので、主治医たちは病理医に病理診断を依頼すると、あとはのんびり結果が出るのを待ち、レポートに書かれた文章を機械的に読んで行動指針とする。しかし本当はそれではだめなのだ。病理医がなぜこのように診断したのか、この診断が何の意味を持つのかを、主治医が「きちんと説明を受けて、納得していること」が、その後の診療において大きな意味を持つ。



つまり病理医もまたインフォームド・コンセントの達人でなければいけない。しかしこのことはしょっちゅう忘れられているように思う。何も医者同士仲良くしろって言ってるんじゃない、言葉をつくしてお互いに当事者であろうとしているか? ということだ。

2019年11月13日水曜日

思考がとろけるとき宇宙はどうなっているか

持続可能なかたちで社会をいい方に変えていこうと思ったとき、参考になるのは、単細胞生物がどうやって進化したかという過程を丹念に追いかけていくことである。


……うそだ、それはさすがにこじつけだ。


でもまあ思う。

人間社会の変化と、生命の進化とはわりと似ているはずだよなあ、と。

根底にあるエネルギー法則とかエントロピー法則とか複雑系の原理とかはそうそう変わらないはずなのだ。サイズ感は違うにしても。情報伝達の過程で社会が変容していく姿は、哺乳類がサルを経由して(?)人間が現れるまでの間に脳がどう変わっていったかを見るのとそんなに違わない、かもしれません(弱め)。



細胞同士が、最初は相互にくっつきあって、一部の栄養などを共有したりした。たぶんした。

そのうち、液体の中に情報を混ぜこんで共有することがはじまった。一部のタンパク質とか、あるいはmiRNA(マイクロRNA)みたいなものは、細胞間で情報をやりとりするのに用いられたんだと思う。

多細胞生物のやりとりにおいては、物理刺激(細胞骨格などを介して隣の細胞と直接やりとりする)、パラクライン(近くの細胞に対して何かを分泌して連絡するシステム)などだけでは情報の拡散ができない。そこに化学波の伝搬をもちいたやや広めの液相情報伝達が取り入れられ、さらに、血管と血液の導入によってホルモンという「最強の飛脚」が手に入った。

そしてこの前後でじわじわ登場したのが神経だ。

神経伝達物質というのは神経と神経の間にあるタンパクだけれども、神経の何がすごいかって、「神経内においては基本的に電位を用いて情報をやりとりする」ってことだ。詳しくは書かないけれど、電気のスピードでやりとりできるわけではない。しかし、カタチある物質でウニャウニャゆっくりやりとりするのに比べれば、神経内の伝達速度はだいぶ早い。




……以上の過程はきっとそのまま、社会にそっくりトレースすることができる。

手渡しでの情報のやりとりから、文字とかわら版を介した近所への伝達、そして道路と輸送システムによる遠方との連絡、そこに出てきた電気的な通信インフラの整備。



こうして並べて比べてみると、社会がインターネットを整備することで、世間に情報が爆発的に増えた、みたいな現象は、サルと人とで思考が爆発的に進化した、みたいなのとそっくりだなあと思う。

人間社会はようやく人の脳に追いついて、今まさに追い越そうとしているのだろう。




で、社会が脳化したら、次は地球外生命体と惑星間でのネットワークができて……となるだろうか? あるいは地球は、宇宙に対しての頭脳の役目を担う唯一の星なのだろうか?

ぼくらが知性だと思っている地球の社会は、実はトリケラトプスの腰のあたりにある「第2の脳」に過ぎず、ほんとうはどこかに宇宙の脳が別に存在するということはあるだろうか?

ぼくらがときおりブラックホールとか宇宙背景放射に興味を示すのは、ぼくらが自分の肌とか髪の毛に気を配るのと同じで、宇宙が自分の体をすみずみまで認識するために地球という脳を用意したからなのだろうか?




……これって病理の話として書いたほうがよかったかな? でも病理じゃなくて物理の話だな。