2022年1月21日金曜日

作業スペース

TwitterのSpaces機能を立ち上げたところである。タイトルは「ブログを書く音」にした。現在2021年1月21日(金)、朝の7時17分である。出勤後、いくつかメールの返事などをすませ、本日の予定を組み終えて手術検体の診断を1件終えたら少し時間が空いたので、今回の企画を思い付いた。


特に何もしゃべらず、無言で、ブログをいちから書き始めて書き終えるまでの間、キータッチの音をひたすら配信してみる。


似たようなことは、すでに多くの作家やマンガ家がやっている、という。先日Podcast「いんよう!」の中で触れた。その後、柞刈湯葉の有料noteだったと思うが、「執筆音配信のときには音がよく聞こえるように無駄にキータッチばかりしている」という記載を目にして、けっきょく何を配信しているのかわかったものではないなあと笑ってしまった。とりあえず今回ぼくの配信は、ほんとうにいちからブログを執筆してその音をただひたすら流している。今、視聴者数は……50人くらい。朝からおつかれさまです。




こういう「実験」をしょっちゅうやっている作家というと、まっさきに浅生鴨を思い付く。彼の実験は、絶妙に「聞いた人が眉をひそめる」塩梅で行われている。稚内で本を売るとか豪華革張りの本を受注生産するとか、そもそも、じぶんで出版社をやってしまうというのも実験ではあるだろう。あるいは遊びというか。

「どこまで本気なのかわからない」と他人に思われる・思わせるための行動。に、見える。


そういうのは少し距離を置いて見る。「わあ、すごいことやっていますねえ! 尊敬するなあ!」とすりよっていく感じではない。その実験、いったいどうなるんだろう、という科学者の気分をとても刺激されるのは事実だ。しかし、科学者は、他人の実験を目にする場合はもちろん、実験のシステムを自分で組み立てた場合も、実際に実験が行われるときには一歩離れて冷静に眺めなければいけない。感情を込めて「うまくいけ! がんばれ!」と念じてしまうとかえって失敗する、というか、実験に無駄な恣意が加わってしまう、肩入れしすぎてはだめなのだ、だから距離を置く。浅生鴨がやっている各種の実験も、「おもしろいなあ! どれどれ!」とにじりよると、実験そのものに影響を及ぼしてしまいそうで、ぼくはそれが怖い。だからなんか楽しそうなことをはじめたなあと思っても、近づき過ぎない程度に距離をとって、でも目を離さないようにしている。


そしていざこうして、自分でも「実験」のようなことをやってみて思うのは、自分が見世物になるときに刺激される神経を20%くらい、自分が未知の扉をこじあけるときに刺激される神経を20%くらい、自分がやけに冷たい気持ちになってひどく落ち着いて物事を俯瞰するときに刺激される神経を60%くらい刺激されるなあ、という体感の部分だ。「実験してみた」の渦中はこういう気持ちになるのだなあ、というのを心のホワイトボードに殴り書きしているところである。



「見られていると書けないタイプの文章」はおそらく存在する。Twitter Spacesだからキータッチの音を聴かれているだけなのだが、それでも、なぜか書きづらいフレーズみたいなものがあるようで、ぼくは普段よりも少し脳に圧を……選択圧をかけながら文章を考えていることがわかる。今、Twitter Spacesの配信をやめたら自由に書けるのかというと、たぶんそういうことでもなくて、「人の受け取り方を意識する部分の脳実質」が普段よりも少し強めに発火していることを、Twitter Spacesに作業音を垂れ流すことであらためて自覚しただけで、普段からおそらく、「誰かが読むこと」を意識してはいるのだろう。ろくに更新告知もしない程度のブログなのにな。



Twitter Spacesは最近、録音アーカイブが残せるようになった。せっかくなのでぼくも今回のアーカイブを録音しようかと思ったけれど、自分が打鍵した音をあとで聴き直すというのが超一級の狂気に思えてしまい、けっきょくアーカイブを残すのはやめた。そろそろTwitter Spacesを閉じて、この記事を公開する。

ユニクロには中間色の服ばかりがならぶ

息子が頭痛っぽいというので枕を送った。そういうところ、似たのだろう。ぼくも中学・高校時代は「ストレートネック由来の頭痛」に悩まされていたから、わかる。

自分の頭痛を「解釈」できるようになったのは大人になってからだ。当時は、勉強をすれば肩が凝り頭が痛くなるものだ、それは因果関係だ、と認識していた。けれども、当時よりもはるかに机に向かっている今、ほぼ頭痛も肩こりもないわけで、「座学=頭痛」というのは間違いだったのである。

「解剖学的な知識をふまえて、体のパーツを使いこなす」ことはじつに効果的だ……と、自分の専門分野で不特定多数にマウントをとることもできるが、じっさいには、「なんか使っているうちになじんだ」みたいな側面が大きい。

中年というのはすなわち、体が手になじむ年齢なのだろう。もっとも、だいぶガタが来ていることもまた事実である。


体だけではない、言葉もたぶんそうだ。昔は棘のある言葉を今より多く使っていた。前のめりに本を読むことで首を痛めるがごとく、前傾姿勢で言葉を発することでかえって自分を傷つけるようなこともあった。でも、今は、自然にしゃべったり書いたりしているときにいつの間にか自傷的・自罰的な気持ちにおちいることはほとんどない。言葉の性質をふまえて、母語を使いこなせるようになった……というよりもやっぱり、じっさいには、「なんかしゃべりかたがなじんだ」という感じである。

体がなじむように言葉もなじんでいく。一方で、ガタが来るのはどこか? ノドか。指か。脳か。



「馴染む」という字を見ているとふしぎな気持ちになる。馴致(じゅんち)という言葉はじゃじゃ馬グルーミン☆UPで知ったのだったか。染まるという字も含んでいる。「なじんだわあ」なんて言うといかにも中動態なのに、字面は馴らして染めてしまうのだ。強い意志を感じる。だからだろうか、漢字のふんいきを知らず知らずのうちに嫌って、ひらいて、「なじむ」とひらがなで書いていた。ネチネチと字面をながめると、ひらがなで書いたほうがより「なじむ」気がする。

これは理屈ではない。時間経過とともに、自分のフィーリングに乗るか、乗らないか、みたいな微調整の結果が、体にしても言葉にしても、日ごろなんとなく使っているやりかたの中に反映される。



では、若い頃の、自分にも周りにも傷を付けながら動き回っていたころの体の使い方や言葉の使い方、あれがまるでだめだったのかというと、まあだめだった部分もあるだろうがゼロイチ思考でばっさり切り捨ててしまうのもどうかと思う。触れたり叩いたり切ったりしながら自他の境界を確認していく上で、ストレートネックの首をもたげて何かをにらみつけるような動きがぼくの何かをひらいたり閉じたりしたこともきっとあったのだ。それは評価だけしていればいいものではないし、かといって総括して糾弾すればいいというものでもない。取り戻せないものにも、おそらく色のようなものはあった。染まる前の、染める前の、ネイチャーカラーみたいなものがきっとそこにはひそんでいた。息子の首は早くよくなってほしい。しかしその首の調整がしっくりくるにはおそらくあと10年くらいかかる。そしてその10年は息子にとっても体を微調整し言葉を選ぶ10年になるはずなのだ。

2022年1月20日木曜日

病理の話(618) 研究をはじめます

今年の正月は、少し気を抜いてゆっくりできた。年末にさまざまな仕事が一段落できたからである。

そして、年明けからは新しい「研究」をスタートさせた。


研究と言っても、マイクロピペットを持ってマイクロチューブの中に酵素を入れるような、いかにも「マッドサイエンティスト的」な実験は、ぼくはしない。

「答え」がはっきりわかっているような、クイズを解くのとも違う。

ある病気の、まだよくわかっていない部分に対し、「ぼく(病理医)がプレパラートを見てみることで、何か新しいことがわかったりしないかな……」という感じで取り組んでいく。

「この病気を病理医に見せたら、どんな意味を感じ取るだろうか?」という、臨床医のモチベーションに駆動された、「臨床研究」である。

研究と書いたが、イメージとしては開拓に近いかもしれない。

つまりぼくは未開の原野を開墾する屯田兵なのである。



比較的珍しい病気。年に数回くらいしか、診断の機会はない。これはぼくの勤める病院に限った話ではなくて、全国のどんな病理医も、これまでそれほど多く経験してきたわけではないはずだ。

有効な治療法があまりない。命にかかわるような病気ではないが、長年症状が続く。

この病気をさまざまな人が研究している。診断の精度をあげ、治療を開発し、治療の効果をどのように評価していけばいいかを検討する。

検討の過程で、とある臨床医が、ある「所見」に気がついた。この病気の患者にある検査をして、ある画像を取得すると、そこに特徴的な像が浮かび上がることがある。

病気がある「像」を結ぶとき、その像を形作っている要素を細かくひもといていけば、細胞に行き当たる。ミクロの世界のこまかな構造が、積もり積もって、マクロな「像」の形成に繋がっていくのだ。

そこで、臨床医は、ぼくに声をかける。


「こういう特徴的な病像を示すことがあるんですよ。この部位から細胞を取得しておきました。いかがでしょう、病理医から見ると、なにか、特別なものが見えますか?」




……もし、ぼくの目に「特殊な像」が見えれば、それは福音だ。今度から、この病気の患者さんに出会ったら、このような病像の部分から細胞を採取することで、病理医が何かを評価できる可能性がある。


一方で、もし、ぼくの目に「何も特殊な像が見えなくても」、それはひとつの結果なのである。この患者にとっては、細胞を採ってきて病理診断をしなくてもよい、という判断も大切なのだ。




さあ、どうだろうか。ぼくは、この珍しい病気の患者「2名」から採取された、複数のプレパラートを見て考えている。




……どうやら……今のところ……何も特殊な像はみえない。つまり病理医が役に立てる部分はないのかもしれない……。


しかしあるところで、ふと気づいた。あ、これは、H&E染色ではよくわからないけれど、あの「免疫染色」をする価値があるのではないか? ということに。


「免疫染色」という手段で、細胞を違うやり方で染めると、人の目に見えてくる情報がまるで変わる。この病気の患者から細胞を採取することで、ある興味深い結果を見出すことができるかもしれない。



こうして新しい臨床病理学的研究がはじまった。今年のうちに、学会報告を2回、論文での報告を1回できるのではないか、と考えている。さてそううまくいくものだろうか。がんばらなければならない。

2022年1月19日水曜日

科学はまだまだである

「文學界」の2022年2月号で、哲学者の千葉雅也さんが以下のようなことを言っていた。

”文学的という言葉を、今日の科学的趨勢に対して弱腰に使うのはよくないと思っています。むしろ文学的な心とか無意識は、より複雑な構造を持っているがゆえに現在の科学の分析力の低すぎる解像度ではとらえきれない、と考えるべきでしょう。だから、心や無意識はより進んだ科学でないとわからない。科学以上の科学が必要な領域なのであって、科学ではとらえられない、ぼんやりとしたものである、というぬるい話じゃない。もっと精緻なものであり、科学はそこに向かって邁進しなければいけないぐらいに考えてますよ。”

のけぞって感動した。すごいな。



科学の追いついていなさ。科学はこれからも継続的に発展していかないと「そもそも低解像度すぎて役にたたない」という感覚を、ぼくは最近忘れかけていた。現代の科学は行くところまで行っているなあ、あとは些事に対する微調整だけだなあ、くらいの感覚であった。科学がこれだけ育ち切った今、科学が担当できない部分についてはもはや、科学以外でなんとかするしかないよなあ、くらいのあきらめすらあった。

けれども、違うんだな。「科学はそこ(心や無意識の解明)に向かって邁進しなければいけない」という言葉は、なんというか、ぼくの暗闇だった部分に光を当てた。そうか、まだまだなんだ。

科学者の仕事は多いなあ。








最近、ぼくも家人もノドの調子がよくない。咳がとれない感じである。幸い、例の感染症ではない。冬の乾燥によるものだろう、そういえば毎年目にする症状だ。

日ごろ、窓が結露するのがいやで、冬期も寝ている間は暖房をとめて換気扇を回している。こうすると朝方になっても結露は抑えられる。しかし、厳冬期に結露が起こらないということはつまり極度に乾燥しているということだ。ノドには決してよくないだろう。

そこで、ここ数日は換気扇を回すのをやめた。するとノドにはだいぶいいのだが、窓にはテキメンである。毎朝、すべての部屋の窓に激しい結露が出る。結露なんてただ濡れるだけじゃん、というのは大間違いで、窓についた水滴はそのまま垂れ下がって窓のサッシを傷める。だから、毎朝窓の水滴を拭き取る。

これがもう、理屈では運用できない作業の最たるものだ。

いや、頭ではいろいろ考えるんだけど、結局、手を動かし続けるしかないので、理屈がだんだん溶けていく。

たとえばマイクロファイバーのようなタオルは意外と吸水性が悪い。拭いても細かな水滴が窓に残ってしまう。古いタオルのほうが吸いがよい。そういうのは少し考えれば、理屈でわかる。しかし、窓と水分の量が半端ないので、吸水性がよい悪いにかかわらず、普段使いしている雑巾系の布を、とにかく物量的に投入して次々拭いていかないと、出勤前の短い時間では窓拭きが終わらないのだ(いちいち絞っている場合ではない)。あちこちの窓を拭くのに数枚の雑巾・タオルを次々とりかえながら一気にやりとげる。理屈ではない。まず運用することだ。

窓を拭く動きにもコツのようなものがある。上から下に拭いてしまうと、上部の水滴が下部に落ちてくるので窓の下のほうがびしゃびしゃになるから、下から上に拭き上げるのがいい。しかし、こうやって言語化した動きばかりでなんとかなるわけでもない。体の角度、手の震幅の細かさなどは、拭いているうちに少しずつ「効率的な体勢」に更新されていく。朝一番の身体の動きよりも、拭き終わるときの動きのほうが毎日必ずいい感じになっている。

今朝も無心で窓を拭いていたのだが、一瞬だけ思考が復活した。「ああー現代の科学ってまだまだだなあー、窓の結露すら効率的になんとかできてないじゃん……」。しかしこの思考もまた終わりなき腕の反復運動に飲み込まれてとろけて消える。科学はまだまだである。科学は邁進しなければいけない。

2022年1月18日火曜日

病理の話(617) グリフォンを運用できるスタッフの腕を買う

病理医の仕事のひとつに、「病理診断」がある。


※いまインターネット上で病理医と名乗る人間の半分くらいは、「病理学の研究」をして給料をもらっており、必ずしも「病理診断」をしていない。したがって、病理医イコール病理診断をする人ではない。でも、残りの約半分くらいの病理医は、「病理診断」をすることで病院の中に仕事を得ている。


この病理診断だが、近い未来には、AI(人工知能)でかなり助けてもらえるようになるだろう。それはもう、間違いない。

このため、病理医以外の医者、内科医だとか外科医などは、AIがそこそこの結果を出してくれるならわざわざ人間の病理医を雇う必要なんてないよな、ということを、わりと本気で考えている。

でもぼくはそうではないと思う。どうも話を簡単に切り取りすぎているなあ、と感じる。


ひとつ極論をする。病院の中に、コンピュータではなくヒトの病理医が必要な理由は、「病理診断をしてほしいから」ではなく、「ほかの医者と異なる目線で、ほかの医者と違う理路で考える診断をできる人が病院内にいることで、いろいろ役に立つから」だ。


これを説明しようと思うとき、パトレイバーを例に挙げるのがわかりやすい。読んでいない人は読んでから出直してきて欲しい。できれば全巻読むといい。


機動警察パトレイバー(小学館/ゆうきまさみ)の中に、グリフォンという、「敵」が登場する。ワルモノが乗り込むロボット(作中ではレイバーと呼ぶ)だ。そのへんは、ま、読めばわかる。


パトレイバーの舞台はゴリゴリの日本だ。工事現場などで作業用のロボット(レイバー)がいっぱい運用されているほかは、現実とあまり変わらないので、近未来どころか、今となってはやや昭和的な過去が描かれている。技術が発達すれば当然、その技術を悪用した犯罪が起こる。ではレイバーがあるからと言っていきなり宇宙戦争が起こるかというと、そんなわけもなくて、酔っ払いが工事用のレイバーに乗って近隣の建物をこわして警察にしかられた、みたいな、良くも悪くも「俗っぽい」光景を楽しく(?)読むことができる。


そんな普通の日本に、ゴリゴリのワルモノレイバー「グリフォン」が出てきて、警察や自衛隊のレイバーをぶっ壊してしまうのだから、ああ、マンガだよなーと思いたくなるところだが、この作品のすごいところは、「なぜグリフォンなどというワルモノレイバーが、この日本に必要なのか」をきちんと説明しているところにある。


グリフォンという犯罪専用機には買い手がつかない。それでも、企業が多額の投資をしてグリフォンを作り、悪事を行う理由とは、「グリフォンというすごい技術を搭載したレイバーを作ってアピールすることで、そのグリフォンをメンテナンスできるほど優秀なスタッフを売り込むため」なのである。最新鋭の警察所有レイバーを軽々とあしらうほどのレイバー技術は、軍事産業をはじめとして多くの世界が注目する。そんなグリフォンをいちから作り出せるスタッフを雇用できれば……。


グリフォンそのものが重要なのではない。グリフォンを扱える技術者たちの腕が重要なのだ。


ぼくは、病理診断と病理医の関係も、これに似ているなあと感じることがある。「病理診断ほど複雑で、わからない人からみると突飛に思えて、発想がどんどん飛躍していくようなタイプの思考を必要とする診断」は、言ってみればグリフォンである。グリフォン的な超級レイバーをコントロールできる病理医の脳には価値がある。


病院では、「ちょっとこの症例難しいから、人を集めよう」というやり方をすることがある。医学部を出て医師免許をとって長年修業をした医師であっても、一人で人体の難しさと向き合うのはたいへんだから、複数の専門家を呼んで議論をする。このときに、「病理医」を呼んでくるといろいろいいことがある。なにせ、日ごろからあの「グリフォン」を扱っているのだ。きっとその思考技術が役に立つだろう……。


AIは病理診断の一部をやることができるかもしれないが、臨床医の話し相手にはならないし、論点に違う角度からスポットライトをあてるようなコシャクな議論もできない。A=A、B=Bと、正解がある問題に答え続けるだけなら病理医は人である必要はないし、病院に病理医は必要ない。でも、答えがわからないほど複雑な問題にみんなで立ち向かうにあたっては、AIでは足りない。コンピュータでは会話が進まない。


グリフォンそのものが大事なのではない、グリフォンを使えるスタッフが大事だ、それといっしょで、病理診断そのものをやればいいというだけではなく、病理診断を行える脳が大事なのである。

2022年1月17日月曜日

本能のレベル

「キズを見つけてふさごうとする本能」みたいなものがある。


「ふさごうとする」の部分ではなく、「キズを見つけて」の部分がより根源的に本能だ。


人間の脳は欠落を見つけるのが得意だと思う。


もっと言えば、ざっとまわりを見回して、何も「欠け」がない状況であったとしても、キズや穴のたぐいが見つかるまで探してしまう。


お正月明けのツイッターのタイムラ インで、「実家に帰ったら親が文句ばかり言っており、引いてしまった」のようなツイートを散見した。


親は人間である。人間なので、身の回りにある「欠け」を日々探している。すきあらば塞ごうとする。そして、塞げる穴ばかりではないのだ。だから結局は、「欠け」を指摘するに留まる。自分の周囲の欠けを指摘して不快をあらわすことを、一般的に「文句」と呼ぶ。


そして、子もまた人間である。「親が文句ばかり言っている」というキズを指摘してツイートしている。


いずれも塞げる欠落ではないのだ。しかし、それでも、本能だから、つい指 摘してしまう。





今の短い文章の中で、「タイムラ イン」と、「指 摘」の部分に、半角スペースをしのばせた。


注意深い人は気づいただろう。


そして、世の中の多くの人は、注意深いのだ。違和感に気づくところまでは脳が本能でやってくれることが多い。


ただしその欠落、気づいたところで、そうそう塞げるものではない。対処不可能な不安定さにも気づくくらいの「注意」を人間が備えているというのは、なんともおもしろいものだなあ、と感じる。



2022年1月14日金曜日

病理の話(616) 細胞の持っている道具にフォーカスする検査

顕微鏡で細胞を見ていて、こいつのこと、もう少し詳しく知りたいなと思ったときに、病理医が用いることができる「武器」がひとつある。


免疫染色、という。


正確には「免疫組織化学」と言う。ある化学反応を利用した技術で、いわゆる色素を振りかけることで色をつける「染色」ではないので、免疫染色という呼び方はどうやら誤用らしいのだけれど、多くの人が単に免疫染色と呼んでいる。別にだれも困らないのでぼくも免疫染色と呼ぶことが多い。


これはどういう技術かというと……細胞が持っているさまざまな道具の中からひとつを選んで、それに色を付けることができる。


たとえば、細胞が「HER2」というタンパク質を持っている場合、HER2の免疫染色をすると、細胞の表面にあるHER2だけに色が付くので、顕微鏡をみると「あっ、こいつHER2持ってる!」とすぐわかる。しかも、「細胞膜の部分にある!」というように、そのタンパク質が具体的に細胞のどの部分にあるのかまでわかる。


これをやると何がよいのか? さまざまなメリットがあるのだが、たとえば、その細胞が「どこ出身か」がわかるのだ。


がんは転移する。どこかのリンパ節に存在するがんを見たとき、そいつがどの臓器からやってきたのかを見極めることは、治療のやりかたを考える上でとても大切だ。


がん細胞を見て、その顔付きだけで「出身地」がわかればいいのだけれど、なかなかそうもいかない。日本人の顔を見ただけで北陸出身か近畿出身かを見極めるのはまず無理だろう。そこで、免疫染色を使う。


たとえばTTF-1という名前のタンパクが、細胞の核にあれば、そいつは高確率で肺もしくは甲状腺からやってきたと推測できる。


GATA-3という名前のタンパクが、細胞の核にあれば、そいつは乳腺由来か、もしくは尿路(膀胱など)からやってきたのではないかと考える。


ほかにも、免疫染色によって、その細胞が「めちゃくちゃ増えまくるタイプか、そうでもないか」や、「より悪性度が高いか、そうでもないか」などを見極めることもできる。とても便利だ。



ただし免疫染色には弱点もある。基本的に、HER2とTTF-1とGATA-3を一緒に染めるような「同時に複数のものを染める」という検査にはあまり向かない。

これはたとえ話を使うとわかりやすいかもしれない。

渋谷の交差点を歩いている人をカメラで撮影し、その人たちがメガネをかけている場合には、顔の上に★マークをつけるシステムを考えよう。

無数の人が居る中で、メガネをかけていると顔に★がつくので、わかりやすい。

このシステムに、さらに、サンダルを履いていたら足下に★マークを付けるシステムを重ねよう。

画面が★だらけになるが、まだぎりぎり、判別は可能だろう。

そこで、さらにさらに、ネックレスをしている人の胸元に★マークを……。


こうやっていると、だんだん、画面が★だらけになっていくだろう。あるひとつの、ここぞという項目だけをハイライトするから役に立つのであって、なんでもかんでも強調するとかえって分かりづらくなってしまう。


参考書の難しい部分に蛍光ペンを引きすぎて、ほとんど全部の文章に線を引いてしまうと、マーキングの意味がなくなるのと似ている。


どこにどれだけ★を付けたら便利なのか……。どの文章に蛍光ペンでマークしたら勉強がはかどるのか……。

これをきちんと考えるのが重要だというのはおわかりだろう。病理医は、免疫染色という強力な武器を使う前に、どれをいつ、どのように使うかをきちんと考えなければいけないのである。