「こういう話、本当は言いたくないんだけど、誰かが言わないといけないことだから、言わせてもらう」
という前置きで語り始める人はたいていいつだって「言いたい人」だ。
「本当は言いたくないんだけど」をつければ自分の過激な発言や説教めいた発言、上から目線の発言が免罪されると知ってしまったから惰性で付けている。
ぼくにもそういうところがある。
たとえば今の、「ぼくにもそういうところがある。」は、ぼくの得意技だ。
誰かほかの人を非難するときに、「ぼくにもそういうところがある。」とひと言付け加えるだけで、そうか自戒しているのか、だったら苦言を呈していてもよかろう、と、人々の目を優しくそらすことができる魔法のフレーズなのだ。
「自戒しておきたい。」を最後に付けるのも効果がある。
「誰かもかつて言っていたことだが」というのも使い勝手がよい。
形式にハマった言論が目に付くようになった。おそらく、ワンフレーズに力のある人のことばが昔よりも遠くまで届くようになったことと関係がある。同時に、長く難しい文章を最初から最後まで読まないと伝わらないような論考は以前よりもさらに伝わりづらくなった。
「以前よりもさらに」。
「伝わりづらくなった」。
これらもすべて定型文である。ぼくの作文は徹頭徹尾、「借文」になっている。
「枚挙にいとまがない」はたいていすぐに数え終わる。
「今後も継続して考えていきたい」の瞬間に考察が終わる。
「戦い続けていくしかないのだ」と言いながら休んでいる。
「一人一人の力が小さくても」と語る人は自分の力が大きいと信じている。
「いつか伝わると信じて」に強い同調圧力がある。
「人はわかりあえない」をわかって欲しくて書いている。
心を直接揺さぶることばは突然矢のように飛んでくる。
「心を直接揺さぶる」なんていう陳腐なフレーズとは次元が違う。
「ほんとうのことば」を使いこなす人と実際に会ったことが何度かある。
そのとき、自分の口からリアルタイムで出てくることばに愕然とした。今でも辛い思い出だ。手汗が反応する。
自分が選ぶことばがどれもすべて、レンタル期限がとっくに過ぎているものばかりなのだ。空気が氷室のように冷えていく。外気と混じって氷がとけて、みやみずにうでわを付けて、ひのえさまに怒られる。
借り物のことば、かりそめのオリジナリティの中で、まれに出会う尊敬すべき人たちと語ることばがわからない。このわからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう。
「わからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう」を、たぶん一度どこかで読んだことがある。