ものを観察するとき、我々は知らず知らずのうちに、見るべきターゲットに「フォーカス」をあわせている。
目ってのはほんとすごいね。
シャッと横向いたらビシッとカレンダーにピントが合うもんな。
9月28日は金曜日かあ、そう確認したあとに、手元に視線を移せば、今度はバキッとスマホ画面にピントが合う。
さらに付け加えれば、このピントは「点」であわせているわけではなくて、「ある程度の奥行きの情報をまとめてあわせている」。
カメラをやっている方向けには「被写界深度」という言葉を用いればわかりやすいだろう。
レンズが広角気味だったり絞りをしっかりかけていたりすると、手前から奥まで幅広くピントがあう。これを「被写界深度が深い」と表現する。
たとえば札幌時計台の前で記念写真を撮ろうと言う時に、手前にいる自分にだけピントがあって奥の時計台がぼけてしまっては記念写真にならない。
手前と奥、両方にピントが合うような撮影をすることで、記念写真というのは成り立つ。
そこらへんを調節するためにカメラマンはレンズを入れ替えたり絞りをいじったりするわけだが、人間の目はこれを一台(?)でやってしまうわけだからすごい。
で、今日の話はここからである。
胃カメラを使って胃粘膜を観察するときの話。
最近の胃カメラというのはほんとうによくできていて、粘膜にぐぐっと近づいてズームをあげていくと、粘膜の中に走っている細かな毛細血管の走行まで観察することができる。
人間の体には、至るところに毛細血管が張り巡らされている。胃粘膜だって同じだ。
あなたが指とか手とか腕のどこをカッターで切っても必ず血が出てくることからもわかるように、毛細血管というのはほんとうに無数に走っている。
毛細血管が無数に走っている理由は、全身の細胞にくまなく栄養を配るためだ。
皮膚に栄養をしっかり運ぶ。
胃粘膜にだって栄養をきちんと行き渡らせる。
今、ここで、胃粘膜にがんができると、がんだって栄養を欲しいので、正常の細胞と同じように、毛細血管を利用する。
がんというのは慎みがない。正常の細胞がつつましやかに栄養をとっているのとは異なり、とにかく毛細血管からやたらめったら栄養を奪おうとする。
このため、血流量も変わるし、血管の構造自体も変化するし、とにかく、「毛細血管が変化する」。整然と並んでいた毛細血管のネットワークがぐちゃぐちゃに変わってしまう。
胃カメラをのぞくドクターは、この「毛細血管の変調」をみることで、がんがそこにあることを判断する。 (※数ある診断方法の1つです)
さて、胃カメラでぐちゃぐちゃに見えていた毛細血管は、病理医にはどう見えるのだろうか。
胃粘膜をプレパラートにして、顕微鏡でのぞくと、毛細血管がばっちり見えるだろうか?
実はこれがとても難しいのだ。
理由は、「病理のプレパラートには奥行きの情報がほとんどないから」。
プレパラートを実際にみたことがある方はわかると思うのだが、プレパラートに載っている組織というのはとにかく薄っぺらい。向こうが透けて見えるくらいだ。具体的には約4マイクロメートル。ほとんど透明になるような激しい薄さで標本をつくり、そこにHE染色のような技術で色をつけて観察をしている。
プレパラートの世界の奥行きは4マイクロメートルしかない。
となると……
縦横無尽に走っていたはずの毛細血管(太さは5マイクロメートル~10マイクロメートルくらいのものが多い)のほとんどは、ネットワークとしては観察されず、
「断面」
としてしか観察できない。
あなたの頭の中に、漁師が使うような網を思い浮かべてもらいたい。
これをぐしゃぐしゃにまとめて、ボールをつくる。
つくった?
ぐっしゃぐしゃの編み目。
ここにルパン三世の一味の石川五ェ門を呼ぶ。
斬鉄剣でこの「網の球」を、ズバリと切ってもらう。
断面はどう見える?
ネットワークに見えるだろうか?
違うね。網の断面ばかりが並んで見えるのだ。
ランダムに全方向に走っている網は、うすく2次元に切り出すと、高確率で「断面」になってしまう。
ほんとうに運良く、4マイクロの切片と全く同じ方向に走っていた血管だけが、プレパラート上で「まっすぐ、血管として」見える。
そう、現代の病理組織診断における限界がこれなのだ。
薄切(4マイクロメートルの薄さに処理すること)により、3次元だった情報がほぼ2次元にまで落とされてしまう。
だから、3次元構築を見極めることがときに難しくなる。
胃カメラをのぞいたときに、被写界深度の分でうまく見えていた血管網が、プレパラート上では容赦なく断片になってしまうので、「胃カメラで何がどう見えていたのか」を直接プレパラート上で考えることが極めて難しい。
……まあ病理医もそんなことは先刻承知なわけでね。
実は3次元の情報をプレパラート上から読み取ることもできなくはないのだが……かなり専門的な話になってしまうので、今日のところはこれにて。
特性さえ知っていれば、恐れることはない。弱点というより性質なのである。