2019年7月8日月曜日

病理の話(341) 正しい科学の知識

体の中から細胞をとってくることで、その細胞がどんなやつであるかというのを、かなり細かく知ることができる。

胃粘膜からつまんでとってきた細胞たちは、顕微鏡とか、免疫染色とか、遺伝子検査とか、いろんな手段で丸裸にできる。

外から見まくるだけじゃなくて、断面とかすごい見て、核とか超あらわになる。

はずかしいところまで全部みることができる。

科学的であろうとするとき、人は、真実をみる目の解像度をあげまくる。

どこまでもどこまでも見る。

拡大をあげればあげるほど、真実が見えてくる……。




んだけどさー拡大あげただけじゃわかんないんだよねーってことがあるんだ。

たとえばシブヤの交差点を歩いている人をさらってここに連れてくるとする。

若い兄ちゃんだった。横には彼女かだれかいたかもしれない。けれども構わずにさらってきてしまった。

連れてくる段階であちこちにぶつけてしまったので気を失っている。もう死んじゃったかもしれない。けれども、科学的に、どこまでも観察しよう。

何を着ているのか。どんな髪型か。好きなブランドがあるか。かばんのようなものを持っていたろうか。かばんには何が入っていたか。

すべてを丸裸にしていく。もう服も脱がせよう。皮膚も脱がせていいだろう。ていうかまっぷたつにしてやろう。

昼飯に何を食ったのかもわかった。

さて……。

それがわかったとして……。

この兄ちゃんが、シブヤの交差点で、これから何をしようとしていたかが、わかるだろうか?





自動小銃のようなものが見つかれば、あるいはシブヤでテロを起こすつもりだったのかもしれない、と予測はつく。

しかしそのテロにしてもだ。規模がわからない。

兄ちゃんひとりで自爆テロ的に何かと戦おうとしたのか。

それとも、周りに仲間がいたのか。





あるいは持ち物が特になかったとしたら彼は善人だと決めていいだろうか。





彼は誰と一緒に歩いていた? どこへ向かって歩いていた? どこで誰と合流し、その先何をしようとしていただろうか?

そういったことは、何一つわからない。

解像度をいくらあげても、見えてこない真実というものがある。





局所をサンプリングして、そこだけ超拡大する手段だけでは、真実とやらは見えてこない。いや、見えているのは確かに一面の真実なのだけれど、ほんとうに街にとって、日本にとって、世の中にとって、何か重要なことが起こっていなかっただろうかと考えるとき、つまりは物事の優先順位を考えた時に、どこかを拡大して得られる真実が「欲しい真実じゃない」ということがある。





病(やまい)の理(ことわり)を突き詰めるためには、だから、複数の手段が必要となる。

拡大する手段。

俯瞰する手段。

統計をもちいて、全体の傾向を、天気予報のように予測していく頭脳。

何が起こったら次は何が起こるはずだ、と、筋道をつないでいく、思考。

これらが一体となって、真実とやらが見えてくる。正しい医学というのが見えてくる……。





正しいというのは罪な言葉だ。正しさを追い求めれば求めるほど、わかりづらくなる。だれか、敏腕大河ドラマプロデューサーみたいな人が、人体という複雑系を記述してくれないだろうか。

そうすれば、わかりづらい群像劇の、登場人物ひとりに過剰に着目することなく、全体の流れをおもしろおかしく知ることができるかもしれないではないか……。





正しい科学の知識を語るには、物語を伝える語り部のような力が必要なのではないか?