「あやしうこそものぐるほしけれ」
というフレーズを目にすると、なぜかわからないけれど、盛夏の候に、いなかの一軒家で、かやをつった畳の部屋にふとんをしいて、うちわを手に持ったまままどろんだり寝返りをうったり、寝苦しい夜を過ごしている、サツキとメイ(トトロ)、という絵面を思い浮かべる。
ものぐるほし → 寝苦しい が混線してしまっているのだ。脳の不具合である。
修正する必要もないので放っておいているけれど……。
だいたいなぜサツキとメイなのだろう。
たぶんぼくが思いもよらないような、シナプスの混線があるんだろうなあ。
あやし あたりかなあ。
うーん、わかんねぇな。
脳の混線については、今のように、理由がわかる混線と、理由がわからない混線がある。
イッテQとかをみていてクジラが出てくると、老人が舟にのったシーンが出てくるのは、これはもう間違いなく、『老人と海』からの連想だろう。でも老人と海で老人が戦うのはクジラではなくカジキだったはずだ。つまり、『白鯨(モービーディック)』とも混線しているのである。もっともぼくは白鯨を読んだことがないのだけれど。なんか単行本の表紙かなにかで混線しているんじゃないかなあ。
何度か書いたことがあるのだが、サカナクションの『Klee』を聴いているとヘルシングの少佐が出てくる、というのは単純にこの曲を最初に聴いたときにヘルシングを読んでいたからだ……。
いやまってくれ、ぼくはよく考えたらヘルシングを読んでいないんだった。
かつて2ちゃんねるで一時代を気づいた「AA系の二次創作」で、少佐のアスキーアートがしょっちゅう出てきたからだ。ぼくはたぶんはじめて『Klee』を聴いたときには2ちゃんねるを見ていたんだと思う。
あぶない。記憶が混線どころか捏造されているではないか。
先日、中島京子『夢見る帝国図書館』を読んでいたら、その中に、本筋とはあまり関係ないのだが、『かわいそうなぞう』の話が出てきた。ぼくは象の花子は生き延びるのだと思っていたので、花子が最後に死んでしまうという意味の描写(くりかえすが中島京子の本編とはなんの関係もないので安心してほしい)を読んだときに、軽くめまいがするほどの衝撃をおぼえた。
あれ……花子って死ぬんだっけ……。
記憶をいそいで掘り返すとそこには、ポカンと口をあけて、涙をながしながら、ひざまずいて、少年と猫型ロボットに手をふる飼育員の記憶が眠っていた。
そうか、そうか、ドラえもんのあの話だ。
あれは「改変」だったんだなあ。
これまで、まったく気づいていなかった。
脳がときおり混線するのは迷惑だ。
しかし、おもしろいことに、ぼくはその混線によってしょっちゅうしみじみとしている。
文学を読むことは混線の機会を増やす。
ぼくの脳は加齢によって溶けていくだろう。そのとき残ったストーリーは、あるいは世の中の人からは「ボケているな」としか思われないかもしれない。
安心して欲しい、記憶が混線して再構築されていくのは、老人の専売特許ではない。
ぼくは、今、たぶん脳が全盛期だと思うけれど(知らんけど)、すでに、バグっているぞ!