2022年2月25日金曜日

病理の話(630) さじ加減の加減

医療においてはしばしば「さじ加減」が問題となる。

「さじ加減」は、いい意味で使われることもある言葉だけれど、医療を語る文脈だと悪い意味で使われることも多い。たとえば、

「細胞ががんかがんじゃないかは、病理医のさじ加減ひとつで決まるんでしょ?」

みたいな言い方だ。ここには揶揄のニュアンスが含まれている。


「さじ加減」という言葉が、なぜ問題となるのか?

それは、人びとが心の中で、あらゆる病気には「正しい診断」が存在し、「一番いい治療法」がどこかにあると信じているからだと思う。あいまい、ファジーなんて無責任だ、個人の主観で定まる方針なんて信用できない、ということなのだろう。


たしかに、医療における正しさというものは存在する。

ただし、それはピンポイントで……「点」で存在するものではない。「ゾーン」として存在するのだ。

「いい治療法」はあるのだが、「一番いい」かどうかはその都度微調整して探る。これぞという一点が毎回定まるものではなく、ある程度の幅を持って、「ここからここまでの間にある治療法はどれもいいので、相性や好みと合わせて少しずつ絞り込んでいこう」というようになっている。


(※正しさという概念自体が存在しないんだよ、という話もよく語られるのだが、そうは言ってもここからここまでは正しいじゃん、という話とぶつかって堂々巡りになるので、ここでは「正しさは点ではなくゾーンである理論」にしておく。)


たとえば、大腸や胃におけるがんの診断を考える。粘膜から出現したある細胞が、粘膜の下側に浸潤(しんじゅん:しみ込んで攻め入ること)をしはじめると、世界中すべての病理医が「がん」と命名する。なぜならそこには浸潤という決定的な悪事が見えるからだ。

がん細胞は、時間とともに少しずつ深部に潜り込んでいく(=浸潤する)。ここで時間を巻き戻せば、必ずどこかのタイミングでは「まだ浸潤していない段階のがん」があるはずである。つまりはまだ粘膜の中におさまっていて、がんの根拠である「浸潤」を来していない状態だ。

これを日本では粘膜内がんと呼ぶ。

一方で、欧米の一部の国では、まだ浸潤しはじめていない細胞はがんと呼ぶべきではないというスタンスを取り、ディスプラジア(異形成)などと呼ぶ。



がんがしみ込む直前というのは、ヤクザが悪事をまだ働いていない状態、と言えばわかりやすいだろうか。いつか周囲に悪さをする性質を持っているけれど、まだ犯罪には及んでいない状態。

「見た目がヤクザで心もヤクザだが、ヤクザ的事業を何一つしていないひと」をなんと呼ぶべきか? 日本ではこれを堂々とヤクザと呼ぶ。一方で、欧米の一部の国だと「ヤクザ候補」と呼ぶ。つまりはそういう違いなのである。


この議論は、本質的だろうか?


どっちでもいいよ、ヤクザでもヤクザ候補でもいいからさっさと逮捕しろ! という理屈が出てくるのはおわかりであろう。犯罪が起こってからでは遅い。しかし、まだ前科もついていないヤクザを逮捕するのに、いきなりアジトに家宅捜索して爆破・解体して更地にし、周囲をマスコミに取り巻かせるというのは、周囲の邸宅への被害も考えるとあまりよいことではない。そこで、ヤクザ(候補)だけを的確にしょっぴいて、周囲への影響・風評を最小限に抑えよう、というこころみがなされる。具体的には、患者の体に大きな負担がかかる外科手術を避けて、内視鏡的に(胃カメラや大腸カメラを用いて)粘膜だけ切り取ってこよう、という治療方針が選択される。


日本のように「粘膜内がん」と名付けようが、欧米の一部の国のように「ディスプラジア」と名付けようが、違うのは名前だけで、対処はいっしょだ。「がんの初期、もしくはぎりぎりまだがんじゃないもの」というゾーンに対して、部分だけを小さくくり抜いて取り除いてしまおう、という治療方法は一貫している。


こうなってくると、「がんか、がんでないか」という、点を追究する診断をする必要がないということがわかる。「粘膜内がんもしくはディスプラジア」というゾーンに収まる病気だとわかれば用が足りる。あと、診断名の部分にかんしては、病理医の(国家的な)さじ加減だということだ。


こういう背景があっての「さじ加減」が行われるのが病理診断である。「細胞はいかにも悪性度が高いが、まだそんなに悪事をはたらいていないな」みたいなことが診断にかなり影響してくる。

治療におけるさじ加減にはまた別のニュアンスがあるが、いずれにせよ、医療におけるさじ加減は「あいまい」ではなく「ゾーン」を扱っているのだということを、覚えておくとよいかもしれない。