2022年2月2日水曜日

右手に見えますのが今は後方に見えております

若い頃の忙しさと意味が違うなあ。時間を切り分けるタイプの忙しさだ。そうか、そういうことだったのか、と納得してはいる。


若い頃には、「あるひとつのこと」がとにかく終わらなくてずっと専心して、気づいたら何日も何週間も経っている、みたいなことがいっぱいあった。完成/達成するまでやり続けなければいけない、という持続的案件を抱えることを「忙しい」と表現していたような気がする。何かの試験に向けて勉強をするのも、何かの大会に向けて運動をするのもそうだった。もちろん、案件が3つも重なるともう「最高に忙しい」のだ。


いっぽうで、当時、ぼくより20も30も年上の大人は、くちぐちに忙しい忙しいと言いながらも、すぐ飯を食ったり、映画を観たり、キャンプに行ったり、酒を飲んだり、旅行をしたりしているのだからびっくりしてしまった。10代、20代のころは、「いいなあ、俺は忙しいからそんなことをするヒマがないよ」と思っていたし、心のどこかで、(それにしても、同じ人間なんだから大人だって忙しいはずなのに、どうして忙しそうにしていないのだろう……もしかして……ぼくが特別無能で、ほんとうならもっと余裕をもってやるべきことをいつまでも抱えているからなのか……? いや! そんなことはない! ぼくは本当に忙しいんだ!!)みたいなことをモンモンと考えこんでいたりした。


その後、年を経るごとに、さまざまな案件をなんとか解決した経験が積み重なっていく。すると、少しずつ変わる。たとえばこれまで一切やったことがない類いの仕事に出会っても、ちょっと見るだけで「だいたいこれくらいの労力でこれくらい時間をかければ終わるんだろうな」というイメージがわくようになってくる。

これは、いいことばかりではない、悪く言うこともできる。「よくも悪くも世の中に起こっているすべてのことを安易に見積もれるようになった」ということなのだ。とかく何かに一定期間没入するということが減った。思い切り集中すると、せいぜい2日でたいていのものごとの見通しが立ってしまうので、それ以上の集中をする必要がない。だから集中が長く続かない。昔ほど「一つの案件で忙しくすること」がうまくできなくなってきた。したいわけでもないのだが、そもそもできなくなってきた。


かわりに100くらいの小さな案件を同時に抱えるようになるのだ。あらゆる案件には最大限の集中をするが、数日も必要ない、数時間あれば十分である。短時間にガッと集中すれば残りは計算尽くの余勢で反射的になんとかなる。するとどうなるか。案件から案件に渡り歩いている時間の方が長くなる。「頭を切り替えている時間」のほうが長いのである。


まるで予定を詰めこみすぎた京都旅行のようなものだ。神社仏閣旧跡でおしきせの写真しか撮らずに、すぐに次に移動する、それでわりと京都に満足できてしまう。でも後日振り返ると移動時間のことしか覚えていなかったりもする。ツアーバスの移動中には窓の外の京都の街並みを見て楽しむだろうか? いや、そうでもない。音楽を聴いたり小腹を満たしたり、同行者がいればおしゃべりに興じたりする。これらはいずれも「家でできる」ことだ。旅行でわざわざやることではない。でも、「観光地と観光地を移り歩く間がヒマだから」、時間つぶしにやっている。そのくせ、やけに忙しそうな旅行になる。


それと同じ事が仕事にも起こっている。無数の案件を必見トラベルスポットとして渡り歩く感じ。要所は押さえる。見逃しは許されない。訪問場所ごとに作法がある。求めておきたいおみやげもある。ぜいたくを言うと、自分がそこを体験するだけに留めずに、これから興味をもつ多くの人のために、「よい旅行(仕事)をするにはどういう場所に目をつけてどう満喫すればよいか」みたいなことを整理して文章化しておく。そうやって、無数の案件をキョロキョロしながら矢継ぎ早にこなしていく。当然、移動時間や空き時間はいろいろと気分転換をする。家ででもできるようなことをする。これらを総括して「忙しい」と言っている。


若い頃の忙しさと意味が違うなあ。時間を切り分けるタイプの忙しさだ。そうか、そういうことだったのか、と納得してはいる。このことを若い頃のぼくに言っても伝わるわけもない。それに、若い頃のぼくだけでなく、そもそも大人に対しても、「京都はこういう周り方で十分楽しめますよ」とはなんだか気恥ずかしくて、あまり言えたものではない。しずかな寺をゆっくり見て回るタイプの人もいるだろう。そっちのほうが上品だ。


ツアコン型人生、デパ地下試食人生はせっかちでいけない。ただし、考えようによっては、この気ぜわしい「表面なぞりタイプ」のやり方のほうが、合間の無駄話に花が咲き、「家でもできるような無名の時間」を担保してくれるということも、あるにはある。そうでもしないとぼくは無駄な時間を過ごせない。そうやって適応してきたのかもしれない。