医師免許をとったあと、たいていの人は「初期研修医」と呼ばれるステータスで2年間過ごす。この研修期間では、将来何科の医師になりたいかにあまり関係なく、医師としての基本的な手技や病院のシステムなどを学ぶために、かなり複雑なカリキュラムをこなす必要がある。
「内科系」「外科系」「救急」「産婦人科」「地方医療」「精神科」などをローテーションして、電子カルテのオーダー方法や、病棟や外来のシステムを体に叩き込み、採血、血液ガス、縫合、各種の診察法などなど、無数の仕組みとともに手技を学んで行く。聴診器の当て方も、膝の腱をハンマーで叩く方法も、このときに本格的に学び始めるのだ。「医師としての最大公約数の技術を身につけましょう」という意義がある。短い2年間で、やることが多い。
実際に研修中の人たちに話を聞くと、2年間は「さまざまなものの表面をなぞっているような時間」で、自分が今医者なのかどうかもよくわからない、という感想がぽろぽろ出てくる。あれよあれよと言う間に時が過ぎていくのだろう。
で、この間に。
じつは「医学的に考察するための基礎」もやっている。でも、あまりみんなに認知されていないし、話題にも登らない。
その最たるものが、「病理解剖のカンファレンスに出席して、そのカンファレンス内容をレポートにしろ」というやつだ。たいてい、研修医の大事なモノリストの100番にも入っていないマイナーな課題である。そもそもレポート形式なのもよくない気がする。つい、居眠り学生感覚で取り組んでしまうのだろう。
いきなり出てきた「病理解剖」の流れを簡単に説明しておく。
1.患者がいて、その家族がいて、主治医がいて、医療スタッフがいる。
2.診療をする。紆余曲折がある。
3.最終的に患者が亡くなる。
4.死亡までの経過で、「いつもと違った経過を辿った」「普通ならば効くはずの治療が効かなかった」「珍しい病像が観測された」などの疑問が出てくる場合がある。
5.この場合、主治医と患者家族(あるいは亡くなる直前の患者自身)が相談をして、解剖をオーダーする。
6.病理医が出てきて、死後2時間~24時間くらいのあいだに病理解剖を行う。
(※刑事事件がらみとか、病院到着時にすでに亡くなっているなどのケースでは、病気の理由(病理)をあきらかにする病理解剖ではなく、司法解剖などのべつの制度を用いる)
7.病理解剖のあと、病理医は臓器の一部をプレパラートにして顕微鏡で診断をすすめ、解剖後だいたい3か月~半年くらいをめどに報告書を作成する
8.その報告書をもとに、医療者たちは生前の患者に起こった疑問を解き明かす
まとめると、解剖は、ベッドサイドでの疑問に答えるためにやることだ。
疑問 → 解剖(という手技) → 解決
を目指している。
この解剖の流れを学んでレポートを書くという課題が、研修医にとってどういう意味を持つか?
病理解剖を知ってもらうことができる? まあそういう理由もないではないのだが、ぼくはもう少し大きな意義があると思っている。
「医療現場で出た疑問を解決するために考える(考察する)というのはどういうことなのか」を、実地できちんと体感してもらいたいのだ。
科学的な「考察」は、一般に言われている「よく考えること」とはちょっと毛色が異なる。そこを指導医がきちんと教えられるかどうかがカギになる。
たとえば……そうだな、具体的な例を取り上げるわけにはいかないので……とっぴな例をあげよう。
「あまり治療がうまくいかなかった患者は、亡くなる直前に、超高級なお肉を食べていた」
ことがわかったとする(※解剖では普通わかりません)。
ここで、
「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。」
と書いただけでは、医学とは言えない。それは単なる「ふとした思いつき」である。
誰でもわかると思うけれども、思いつきには根拠が必要だ。そこをきちんと埋めるのが「医学的な考察」であろう。
では、研修医を真似して「考察」をしよう。理由をちゃんと考えてみるのだ。たとえば、根拠を以下のように記してみるとする。
「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。なぜなら、胃の中に超高級なお肉が入っていたからだ。」
……これもだめである。「胃の中にお肉が入っていたらなんなの?」と、すぐに質問されてしまうだろう。根拠として「そう見たから、そう思いました」「そこにあったから、そうだと思いました」は、偶然じゃないの? という質問に対して無力すぎる。
さらにもう少し考えてみよう。
「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。なぜなら、胃の中に超高級なお肉が入っていたからだ。普通こんな肉は高くて食べられない。普通の患者はこんなお肉食べてない。でもこの患者は食べた。だからだろう。」
……「比較」をしたようである。おわかりだと思うがこれも根拠になっていない。「だからそれ、たまたまじゃないの?」と言われたら反論のしようがないのである。
これらはいずれも「だめな考察」の例だ。
えっ、考察にいいとか悪いとかあるの? と疑問に思う人もいる(研修医もよくそういうことを言う)。
でも、ある。医学領域における考察とは、個人的に考えて察することだけでは足りない。
たとえば、ある医療行為をしたあとに雷に打たれた人がいたとする。ではその人が医療者に対して、「俺に雷が落ちたのは前日に受けた医療行為のせいである!」と言ったとして、納得する人はいないであろう。(同情はするしサポートもしてあげたいとは思うが。)
「たまたま」を「関係あるんじゃないの?」と疑いたくなるのは人情だ。でもそれは「ふとした個人的な思いつき」であり、医学の考察とはならない。
https://www.cov19-vaccine.mhlw.go.jp/qa/column/0002.html
人間は、なにか特殊なことがあったときに、別のことと「紐付け」したくなる本能がある。サッカーのピッチに右足から入ったらゴールを決められたから、毎回右足から入るようにしているんです、というような「験担ぎ」も含めて、そこに因果関係はないけど、気持ち的には関係あるってことにしときたいよねー! みたいな気持ちにはなる。
でもそれはあくまで「気持ち」のレベルの話だということ。
医学の「考察」はそれでは足りない。
医学的な考察とは、以下のようにあるべきだ。
「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。なぜなら、Yandelらによれば、超高級なお肉を食べた人に限って、あるA病の治りが悪くなることが示唆されているからだ(参考文献:Yandelらの2019年の論文○○)。彼らは、超高級なお肉を食べるときにかなりの頻度で用いられているB社のデミグラスソースに含まれているある果物の果汁が、治療薬と結合して、効きが悪くなるのではないかと考察している。」
何が加わったかおわかりだろうか?
・先人がすでに考察している内容を引用している
のである。えっ、引用? 人の考え方のパクリじゃん! ……ではない。他人がすでにある程度の確実性をもって証明した内容を用いて、今目の前にある新たな疑問を解決しようと考えることこそが考察なのである。
医学の考察とは、9割くらいは引用からできている。
※これを演繹という言葉で説明する人もいるが、ぼく自身は演繹と仮説形成法とを使いこなした考察のほうがキレ味があると感じており、医学論文の考察内容をすべて演繹だけで説明するのは微妙だなと思う(個人の感想です)。
人がすでに言ってることを探してくればいいんだから楽勝でしょ、ではない。自分がふと思い付いた、疑問を説明できそうな仮説にぴったりとマッチした過去の論文を探し出すのはけっこうな手間である。
誰かが同じような疑問に答えてくれてないかなー、と探す能力が高い人ほど、医学の疑問を解決する精度も高い。
引用すべき論文を検索する能力こそが求められるのだ。
文献がまるで見つからないときには、探し方が悪いか、探すこと自体になれていないかをまず疑う。その上で、「もしかしたらこの疑問、世界ではじめてボクが気づいたのだろうか? だったら、世界に先駆けて、ボクがこの先の推論を組み立てなきゃいけないな……」と身を奮い立たせる……ことができたら……それはもう立派な研究者である。
でも9割9分9厘9毛はどこかに書いてあるし、誰かがすでに考えているよ。がんばって探してね。大変だろうけど。