2022年3月28日月曜日

病理の話(640) 病理医の語りのわかりやすさ

しゃべりがうまい病理医と、しゃべりがあまりうまくない病理医がいる。


学会や研究会に出ていると、てきめんにわかる。


これは別にマウントを取ろうと思って言っているわけではない。本当に、残酷なくらいに差があるとしか言いようがない。誰がしゃべっているかによって、内容の伝わり方がまるで変わってしまう。




しゃべりがうまい病理医というのはどんなタイプか?


すらすらしゃべれる人? 噛まない人? たとえが上手な人? 名言を交える人?


たぶんそういう、「普通の人間が考えるしゃべりのうまさ」ではない。


病理医のしゃべりのうまさに関しては、「ある基準」が思い浮かぶ。その基準を満たしているか否かで、「うわーめちゃくちゃ伝わる」「うわーすげえ勉強になる」と感動できることもあれば、「努力してるのはわかるがぜんぜんわからない」と失望することもある。


その「基準」とはなにか?



話がうまい病理医は全員、「きちんと人の話を聞いている」。話す方がすごいというよりも、聞き方がすごい。

学会や研究会には、臨床医と病理医が順番にしゃべるセッションというのがある。このとき、自分より前にしゃべった臨床医の内容を踏まえて、自分のプレゼンを微調整することができる人の話はスッと頭に入ってくる。しゃべりがボクトツであってもいいし、つっかえてもいいし、パワポが見やすくアレンジされている必要もない。「しゃべる側としてだけそこにいるのではなく、聞く側としてきちんと場に参加している」ことで、その人の話はとても通じやすくなる。


逆に、プレゼンも完璧、原稿も完璧な病理医であっても、出番が来るまでの間にその会でどのような会話がなされたかをぜんぜん踏まえないで、「ただ準備してきた通りにしゃべる人」の場合は、話に柔軟性がなく、ありきたりで、「知る喜び」にまでたどり着かないことがほとんどだ。


ごくまれに、「ハイレベル・オタク」みたいなタイプの病理医が、聴衆の期待とは一切関係ないが異常に熱量の高いコンテンツをゴリゴリに詰めこんだ発表をして、それが妙におかしかったりすることもあるが……レアケースである。普通は空回りする。




「プレゼンターでありながらきちんと聞く」のは、言うほど簡単なことではない。病理医として、何かを発表したり解説したりする際に、事前にプレゼンを作り込んでくるだけでも大変なことなのだ。それを、当日の雰囲気を見ながら即興でうまく変奏していくには、とんでもない熱意と努力が要る。

でも、その大変なことを当たり前のように……学会や研究会を自分の発表の場としてとらえるのではなく、疑問と仮説が飛び交うコミュニケーションの場として考えている病理医は、会の流れや聴衆の期待にあわせて瞬時の微調整をする。



うーむ言語化してみたけれど、ここを目指すのは難儀である。でも言っちゃったからにはがんばるしかないか。