今日の話は具体的ではないのでフワッフワしています。そのつもりでどうぞ。
モンゴルの病理医が、「難しい症例があるのでプレパラートの写真をおくります」とメールをしてきた。PDFが添付されていて、プレパラートの数カ所を撮影した写真が載っていた。
PDFはぜんぶで7ページくらいしかない。含まれている写真は少数だ。モンゴルの病理医は「この診断はAだと思うのだが、Bの関与がどれくらいあると思いますか?」という、非常にマニアックな質問を書き込んでいた。
ぼくは少数の写真を拡大して眺めながら、「Bの関与はないと思います」というメールを書いた。メールを返信する直前になって、PDFのほかにも「バーチャルスライド」へのリンクが埋め込まれていることにふと気づいた。
バーチャルスライドは、プレパラートをすべてデジタル画像に変換したものだ。顕微鏡にセットしなくても、パソコン上で、拡大縮小自由自在である。海外へのコンサルテーションにこれほど便利なシステムはない(ただしファイルサイズが大きいのが難点だが)。
PDFに「より抜いた写真」が添付してあったけれど、バーチャルスライドがあるならそれを見たほうが、写真に撮られていない部分もすべて見て考えることができる。
ま、いちおう見ておこう、「勘所」はきちんと写真に撮ってくれていたけれど、やはり全体像を見ておいたほうがいいだろう。そう思って、バーチャルスライド閲覧様のアプリを開き、送られてきたファイルを展開した。
検体の全体像を見る。少し拡大して、スクロールしながらつぶさに観察していく。すると、先ほどたしかにPDFで見たはずの風景が、少し変わって見える。もう少し「ニュアンス」が多いのだ。
うっ、となった。これは診断が変わるかもしれない、と気が引き締まる。
あらためて、さっきのPDFの写真を見返してみる。たしかにこの「スナップ写真」にも、同じ情報は写ってはいる。しかし、より広い視点で周囲を眺めたあとに一部を拡大して見るのと、周囲の情報が一切ない状態で「勘所」の部分だけを見るのとでは、目に同じものが映っていても、脳がピックアップする情報の量が異なるのである。
くそっ、そういうことはあるよなあ……と思う。
ほとんど書き終えていたメールを消去して新たに書き直す。
「あなたのAという診断は問題ないと思います。そして、Bの関与はあまり考えなくていいでしょう。ただし、あなたが気になった部分はよくわかりました。Cという病態が関与しているかもしれません。あなたが写真に撮った部分の違和感は、ほかの部分と合わせて考えると、きっとC、もしくはDのような病態で説明しなければいけないものです。」
メールを出し終えて、背中の冷えに気づく。変な汗をかいていた。
PDFの少ない写真だけだと、AとBについては検討できたが、先方が考慮していなかったCやDについての検討は不可能だった。バーチャルスライドで全体を見ることで、ぼくは突然、CやDの可能性に思いが至った。送ってきたメールをきちんと見直していなかったら、あぶないところだった。
数カ所の写真と全体像とで診断が変わるのは当たり前だろう、と言いたい人はいっぱいいると思う。たとえば、「CやDのことを考えていない人が写真を撮って質問をしてきたら、回答者がCやDについて思いを巡らせるのはむずかしいだろう」という意見は、当を得ている。
しかし、たぶん、写真撮影のうまさの問題ではないのだ。ぼくら病理医は、病理診断の際に、「どこかを拡大した止め絵」で診断をしているのではなくて、顕微鏡で標本を端から端までスキャンする、その動的な過程全体で診断をしているのだと思う。モンゴルの病理医が撮影した写真はたしかに「勘所」だった。でも、その、ある種「決め台詞」的な部分にたどり着くためには、ニュアンスが必要なのだ。この写真を勘所だと思ってただしく全体像を評価するためには、ぼくら病理医の目がそこにたどり着くまでの過程で拾い挙げている、「道中のニュアンス」がないとハマらないのである。ドラマの決め台詞だけを総集編的に放映されても感動はできないのと似ているかもしれない。
たまーにツイッターで、患者の病理写真を勝手にアップロードして世界の病理医に診てもらおうとしている若い病理医がいる。ああいうのは個人情報の漏洩にあたるのでやってはいけないのだが、そう指摘すると、「組織像の拡大をのせて個人を特定するのは無理だろう」という反論がくる。
しかし、ぼくは前から、それ以前に、「ツイッターに載せられる程度の写真で診断をすること自体が間違いを生みやすいのでやめたほうがいい」となんとなく思っていた。でも言語化に成功したのは今日のことだ。モンゴルからのメールでPDFとバーチャルスライドを別々に見て、あっ、これ、部分だけ見てもだめなんだな、ということがはっきりわかった。
病理診断というのは「勘所の画像当てクイズ」ではないようなのである。患者から採取されてきた検体のすべてを、意味があるかないかわからないところまでじっくり見て、その上ではじめて浮かび上がってくる「疾病のオーラ」みたいなものを、少なくともぼくはかなり参照しているようなのだ。病理診断はつねに「診断名」という白黒はっきりした結果をアウトプットする仕事なのだが、そこにたどり着く前の、ふわっとした抽象的な部分をバカにできないのだな、ということをあらためて思った。病理診断、奥が深いな。