「この量のルーティンをこなせるようになるのに何年かかるんですか……?」
若い病理医のタマゴが小刻みに震えながら問いかけたのでぼくは、
「ルーティンこなす、という言葉の中にティンコが入ってるね」
と答えようとして、やめた。今年44歳になるしさすがにしんどい。より具体的に言うと、自分が一人で言う(あるいはツイートする)分にはしんどくないけれども(それもどうかと思うけれども)、社会的にしんどい。これは気のせいかもしれない。あるいは気にしすぎなのかもしれない。いや、むしろ、これまで気にしなさすぎたのか。
話は変わるが、日本語が第二外国語の人は、
・気がする
・気のせい
・気にしすぎ
の文字列をぜんぶ違う意味で的確に理解できているだろうか。冒頭の「気」が共通してこそいるけれど、実際に含まれるニュアンスは微妙に別方向である。気という共通項がある単語たち、とは普段考えていない。「キガスル」「キノセイ」「キニシスギ」でひとかたまりであろう。言葉というのは難しい、切り分けるのもまとめるのも、意識ではなく無意識の部分が自然とやっている。
ああ、だから、言葉をときどき入れ替えて、ダジャレみたいにして遊ぶんだな。固着したイメージ同士での会話、定着した脊髄反射を軽くうらぎるための文字遊びなのだろう。そういうことがいっぺんに腑に落ちた。
「この量のルーティン」と呼ばれた仕事たちも、ぼくから見るとある種のカタマリを形成している。もちろん一つ一つには生きて思い通りにうごめく患者が対応しているわけで、そこには無限かける人数分の人生があるわけだけれども、こと、病理診断という仕事で取り分けられたときには、ぼくという一人の診断者の前で、プレパラートたちは「つかず離れずの水分子のようなカタマリ」になって見える。この感覚を若者に伝達するにはまだ言葉が足りず、言葉遊びも足りないのだが、仕事をたくさんしようと思ったら、多くの人生になにかしらの貢献をしようと思ったら、ぼくらは目の前にあるものごとたちを、ときにくっつけ、ときに分離して、自在に、あたかもR-typeのフォースを発射したりまた戻したりするようなイメージで、その都度カタマリにして把握していくというのは一つの手なのではないかと、わりとマジで考えている。