むかしはジャスミン茶のうまさはまったくわからなかった。
あるとき、息子と沖縄旅行をした際に、なにげなく買って飲んだ「さんぴん茶」に、普段と違うかんじ、いわゆる「沖縄み」を覚えた。うまいなーと思ったし、ああ、こういうのいいなーと思ったし、忘れなさそうだなーと思った。
札幌に帰ってきたあとにググってみたところ、さんぴん茶とジャスミン茶がわりと似ている(それなりに同じ)ということを知った。それからというもの、ぼくは急にジャスミン茶を飲むようになった。
今日、いつものように買い求めたペットボトルのジャスミン茶から、「沖縄み」をまるで感じなくなっていることに気づいた。
ここからは「職場の味」がする。
ちょっと飲みすぎてしまったのだろう。
この先、もしぼくがまた昔のように出張や旅行に行くようになったとして、沖縄でさんぴん茶を飲んだらきっと、「デスクを思い出す」ことになりかねない。
あちゃー、と思わなくもない。
でもまあそういうことはある。よくある。人生では何度も起こることだ。
近江神宮のお守りをデスクにかけてある。『ちはやふる』の縁で知った、百人一首関連のクラウドファンディングのリターン品だ。これを毎日目にした結果、ぼくは、家にいるときに百人一首のニュース等で近江神宮の姿がうつると、とっさに職場のパソコンを起動するイメージが喚起されるようになった。
へんな混線をしている。
混線して上書きされていく。
自分の自分らしい部分を覚えていたい。いい感情を覚えたときの自分であり続けたいと願う心。精神的なホメオスタシスを保とうという本能が、ものと自分との関連図に、何重にもニスを塗っていくことで、かえって下絵が見づらくなる。
かといって、心の中にあらわれた素晴らしい絵画を、あまり手垢がつかないようにと大事にしまい込むのも問題だ。その絵があったこと自体をまるっと忘れてしまうのが脳クオリティである。
オタクのようになりたい。鑑賞用、保存用、布教用と、気に入ったものを3つ用意する。自分がそれを気に入ったということを自分で鑑賞して思い出し、人にも見せてまわることで、いつしか語られ尽くした品はボロボロになっていくけれど、保存用があるから、最初の感動をそのまま残しておける、そういうタイプのオタクのようになりたい。
今、「鑑賞用」と入力したら肝小葉と変換されたので、ぼくはこれから「気に入った品を3つ買うオタク」を見るたびに肝生検のことを思い出すだろう。また混線してしまった。こうしてぼくの境界はどんどん外部にも内部にもとろけてわからなくなっていく。