2022年3月4日金曜日

這進

毎月購読している『本の雑誌』は書評がいっぱい載っていて、本にかんするコラムも山ほど読めるいい雑誌だ。鏡明、青山南、円城塔あたりの連載は胸を張っておすすめできるし、毎月の特集がいちいちおもしろい。かれこれもう何年も読み続けている。何年もというのが具体的に何年なのかはわからなくなってしまった。ただ、ハヤカワ文庫版の『ペルディード・ストリート・ステーション』を読んだきっかけが本の雑誌だったはずで、ペルディードは2012年の発行とあるから、少なくとも10年前には本の雑誌を購読していた、あるいは不定期にでも買い求めていたのだろう。

本の雑誌は読み応えがあり永久保存版として取っておいてもぜんぜんおかしくないすばらしい雑誌だ。しかしなぜかぼくは昔から「雑誌は読んだら捨てる」というムーブを崩しておらず本の雑誌も例外ではない。ジャンプやナンバーを読み終わるたびに捨ててきたのと同様、本の雑誌のバックナンバーもすべて捨ててしまって手元には一冊も残っていない。それも、しばらくとっておいて捨てるのではなく、出張先の空港とかホテルに持っていってそこで読み終えて捨てるのだ。旅行先でどんどんモノを捨てていく、というのも確か椎名誠の受け売りだった気がする(彼の場合は古い下着だったような気もするが)。履きつぶした靴下を旅先で捨てるように本の雑誌も各地のゴミ箱に入れてきた。今となっては少しもったいなかったなと思わなくもない。

そんな本の雑誌を今月も読んでいたら、西村賢太の文章が普通に載っていて、遠い目になってしまった。西村賢太が亡くなったのはついこの間、2月5日である。本の雑誌には彼の日記がずっと連載されており、今月号の日記は12月14日から1月7日までだ。死の直前の彼は不規則な時間に起き、熱心に藤澤清造の古書を購め、夜食の最後には納豆を2パック、ふらりと新宿三丁目で飲んだり電車の旅に出たりしていていた。その姿はいつもと何も変わらなかった。ただ、今月号の日記でひとつだけ、本当にひとつだけ、『雨滴は続く』の執筆にかんすることだけが出てこなかったことはいつもと異なるなあと感じた。たしか前回の日記では『雨滴は続く』の最終回がまだ書き終わっていなかったはずである。そこから1か月、さらに書けなかったのだろうか。そのことがずっと気になっている。

ぼくは彼の作品のファンとは言えない、なぜなら全然読んでいないからだ。それでも「一私小説書きの日乗」シリーズはなぜかすごく気に入っており、いつか西村賢太の本はまとめて読もうと心に決めていた。ただし、もう何年も前だけれど、次は西村賢太の本を読もうかなと思っていたタイミングでツイッターのとある老書評家が西村賢太のことを「賢太は」「賢太が」と呼び捨てにするのを見て、なぜか鼻白んでしまい、読もうと思っていた気持ちがすっと萎えてしまった。機会を逸したのだ。そうこうしている間に、彼は生活習慣が心臓に直撃して夭逝してしまった。享年54歳。後悔しても遅いのだが、彼が生きているうちにいろいろ読んでじっと考えることができるものだと思っていた。もうそれはかなわない。

ぼくから西村賢太の読書の機会を奪ったあの書評家のことを、ぼくは今も許していない。逆恨みだと言われてもかまわない。無論、その書評家を直接害してやりたいなんてことは思わなくて、ただ心根の部分で「あいつは許さない」とノートの端にメモ書きしておこうと決めた。理性の部分は「知らない人たちの知らない関係性が、少し言葉使いのヘタな人によってツイッターに露悪的に噴出しただけではないか、ほうっておけ」ときちんと納まっているが、仮にも書評家を名乗る人間が、ある本を未読の「読者候補」に対して、「なんかこの作家は今はやめとこう」と思わせるような言動をとったことをぼくはどうしても許せない。そして、瞬間的に視線を胸の裏側に内反させて思う。ぼくも誰かの読書の機会を奪っているのかもしれないと。それはとても、罪深いことだろうな、と。呆然としながら思うのだ。ぼくもまた、誰かの心のノートに、「許さない」と殴り書きされているのだろうと。結句、這って進むしかない。這って進むしかないのだ。