クリアファイルは、かつては人に資料を渡すときに重宝していたし、論文を印刷してカバンに入れて持ち歩くようなときにも必須のアイテムだった。しかしメール・Slack・PDFのやりとりが多くなった今、ぜんぜん使わなくなった。郵便で書類のやりとりをするときは未だに使うが、あまりゴテゴテとデザインされたタイプのクリアファイルだと、他人に渡す目的には使えない。無地以外はだめだ。製薬会社や薬の名前が入っていたりするとどうにもならない。
生命保険会社が契約更新の際に書類を入れてよこすクリアファイルなども、かわいいキャラクタがついているので何かに使えるかなと思って、書類を取りだしたあとは取っておいていたのだが、では実際、40代なかばにさしかかろうというぼくが、かわいいキャラクタのついたクリアファイルをいったいどの業務に使うというのか? 結果、無意識に手の届くところにある本棚にクリアファイルを挿してそれっきり忘れてしまっていた。本棚の一角には半透明のペラペラがぎっちぎちに詰まってしまっており、もはやどれがアトムでどれがスヌーピーでどれがポケモンかはわからない。おそらく二度と使わないだろう。
どんどん捨てた。
ところで、クリアファイルと言えばクラファンの返礼品の定番でもある。最近はクラファンの趣旨に同意はするけれどグッズは要らないと思うことも多く、いや、ま、デザインが悪いと言いたいんじゃなくて、もうクリアファイルそのものがさほど要らない。たまたまクラファンのデザインにぼくの推し絵師が関与しているというなら話は別だが、そうでない場合、「返礼品を辞退する」という項目にチェックを入れてお金だけを振り込んで終わりにする。
しかし毎回「返礼品要りません」が通用するわけでもないので、本棚からはクラファン返礼品もぞろぞろ出てきた。たいていのものはなんのクラファンだったか由来を覚えているが、いくつかは「これ、何の寄付だっけ?」となってしまった。そういうのも全部捨てた。
残ったのは、おかざき真里先生のイラストが入ったやつとか、映像研には手を出すなのやつとか、『カンデル神経科学』の本文中に出てくる名言をあしらったものなど、デザインが特に気に入っている少数のものだけ。ほかは全部まとめてプラゴミに出した。
けっこう本棚が空いた。たすかる。行き場がなくて共用スペースにはみ出していた自前の教科書をいくつか引き取った。もっと早くこうしていればよかった。
片付けの余勢を駆って、デスク周りのこまごまとしたものも捨てはじめる。なんだっけこのバッジ。記憶にないなこのステッカー。応援する気持ちは今も変わらないけれど、君らの団体はもう違うデザインのロゴを使っているはずだよな、というシール。捨てずに残したのは、ぼくが子どものころに遊んだ(そして息子も遊んだ)古いトミカを数個と、出張先で買ったストラップの一部。こうして棚の一角をきれいにしたら、奥から2000円札があらわれたので笑ってしまった。
たしかこれは、ずいぶん前に息子といっしょに沖縄に行った際に、ATMでお金をおろしたら出てきたものだ。2000円札は当時すでに珍しかったので、息子に向かって「見て、これ2000円出てきた!」と言ったら、「お金おろしたんだからお金が出てくるのはあたりまえでは?」という顔で見られた。結局沖縄ではそのお札を使うことがなく、帰ってきてからぼくは財布から2000円札を抜き取って、デスクに置いておいた。なんの記念になるわけでもないが、このお札は両替せずに取っておくことにする。そもそも、「両替しないと使えないお札」という時点で少しおもしろい。
デスク周りをきれいにして、はーやれやれ、と顔を上げたら、壁にマグネットで無造作に貼った絵はがきの数々が目に留まった。ほとんどが仕事相手の編集者から送られてきたものだ。編集者の中には、ゲラのやりとりをするときなどに、連絡事項を絵はがきのうらに書いて送ってくるタイプの人がいる。かっこいい建物やきれいな景色よりもアニメ系が多いので、編集者という職業にもそういう偏りがあるのか、あるいはそういう偏った編集者とばかり仕事をしているということなのか、としばらく考える。
絵はがきを壁からはずしてファイルしていく。手紙は捨てない。付箋やメモ用紙の類いもふくめ、あらゆるお手紙はぜんぶ取ってある。でも、もらったときの彼我の気持ちはもはや思い出せない。やりとりをしたときの記憶は薄れ、紙とメッセージだけが残る。それはわりといいことなんじゃないかな、ときめくまではしないけど、と思いつつ、コクヨのフォルダに絵はがきを次々ほうりこんでいく。途中で、絵はがき1枚だけをより分けて、デスクの引き出しの中の、いちばん目につくところに入れる。たまにここに入れる絵はがきを入れ替えたら、気分が変わって楽しいだろうな。でもたぶんこういう気持ちもどんどん忘れていってしまうのだろう。