2022年12月19日月曜日

特殊レジャー

ぼくは誰かが「顕微鏡を見ているふり」をしているかどうかがわかる。眠いとか、いやなことがあったとか、人はいろんな理由で「顕微鏡を見ているふり」をする。


人は……と書いたがそんな人、病理や研究の世界くらいにしかいないので、あんまり細かく書くと、いつどこにいただれの話かわかってしまう。だからちょっとぼかして書く、いつのことともどこのこととも書かない。けどじつは複数いる。ちなみにぼくが一緒に働いている同僚の話ではないです。みんなすごく勤勉だし、そんな告げ口を書くような下世話なことはしない。


顕微鏡を見ているふりをしている人たちはみな同じことをする。プレパラートを顕微鏡に乗せ、ときどきレンズを入れ替えてさまざまな拡大倍率にする。しかし、おもしろいことに、このとき、ステージ(プレパラートが乗っている台)を動かさない。本来は、左手で筒状のハンドルをクルクル回して、プレパラートを上下左右に動かしながら、右手でときおり倍率を変えて顕微鏡を見るのだが、見ているふりをしている人はこのステージをまるで動かさない。後ろから見ているとすぐにわかる。左手が動いていないのだ。同じ場所を、倍率だけ変えながら延々と見ている。


グーグルマップに例えると、ひたすらスカイツリーの場所を拡大縮小しているようなものだ。いくらスカイツリーの詳しい場所が知りたいからといって、地図を見ようとする人は、もうちょっと他の場所もうろうろするだろう。浅草駅からの距離をみるとか、飲食店のフィルターをかけて周囲の食べ物屋さんを探すとか。そういうことを一切せずに倍率だけで見たふりをしている。そこに圧倒的な違和感がにじむ。


そしてけなげなことに、ときおり、プレパラートを入れ替える作業だけはするので笑ってしまう。複数のプレパラートを順番に顕微鏡に乗せて、拡大・縮小とやって、また次のプレパラートを見る。でも左手がほとんど動かない。いや、最初だけチャラチャラっと動かして「どこかいい視野に合わせる動きだけ真似する」のだけれど、その後、時間つぶしのように拡大・縮小している間、左手がおるすになっている。



かつてこのことをさぼっていた人に伝えたことがある。その人は笑って、すみません、働く気がしなくて、と言った。ぼくも働きたくない日だったのでわかりますと言った。次の日からその人は、左手をきちんと動かしてプレパラート全体を見るようになった。ときおり拡大倍率も変えながら。これならばれないと思っているのだろう。でも、見ているふりであることはなぜかわかる。動作は完璧になったのに。

なぜだ? ぼくはそのことのほうがおもしろかった。動作をどれだけ真似ていても、きちんと顕微鏡を見ていないなあということが、雰囲気から伝わってくる。

このように、言語化できないけれど何かの差が感じ取れるというとき、たぶん、AIの画像認識では高確率で「さぼっている人」と「さぼっていない人」を見分けることができるだろうなあと思う。

人間が何かに気づくというフェーズと、それを言葉で表せるというフェーズはめちゃくちゃずれている。言葉にならないんだけれど気づいている事実というのがたぶんすごくいっぱいある。そして、ここが難しいのだけれど、「言葉にはできないけれど俺にはわかるよ」という確信もまたあてにならないものだ。パドックで勝ちそうな馬を見つけて興奮する感覚。あんなのめったに当たらない。勝って欲しいと思うからこそ勝ちそうな雰囲気を選択して目に留めてしまう。



でもまあ「顕微鏡を見るふり」は、わりとわかる。気のせいではない。なぜなら、「顕微鏡を見ているふり」をしているかどうかには、(それが病理診断科のできごとである限りは)明確な回答が用意できるからだ。

その人が、1か月にどれくらい診断したのかのデータを数字で出せばいい。

「ああ、さぼっていたら診断数が少ないってこと?」

違う、そうではない。

さぼっている人の診断数を見るのはいいが、多いか少ないかだけ見てはわからない。それが1週間、1か月で見たときに「妙に揃っている」かどうかを見る。


ふつう、病理診断というのは、難しいものもあれば簡単なものもあるし、複数のスタッフがいると担当症例の巡り合わせに運のようなものもある。したがって、1週間・1か月程度の短期視点だと、診断数はかなりバラけるのだ。ところがそれがバラけていないと「あれ? あやしいな」と感じる。普通に働いていたら、そんなわけがない。本人が、「これくらいの数を診断しておけば、さぼっているってばれないだろう」と調整でもしていないと、診断数はそんなにきれいに揃わない。



「それってさぼりじゃなくて、給料分だけ働きたいという調整であって、きちんと人並みに診断できていればいいんじゃないですか?」

はい、そうです。だからこうして、笑い話として書ける。でも、「顕微鏡を見たふり」みたいな姑息なことに時間を溶かしてまで調整に心血を注いでいる性根がおもしれえなあと思っている。正直に周りと相談して週に○件くらい働けば私はこの職場の役に立ちますよねと交渉でもしてみればいいのに……いや、それだとだめか、「顕微鏡を見ているふりをする」というレジャー自体にもおそらく意義があるのだろうな。