2022年12月5日月曜日

スン化論

ちかごろは、リアルタイムで何万人もが視聴するYouTubeライブを見て、それを楽しかったとツイートしたところで、同じ番組を見ていた人が至近距離に誰ひとりいないのがあたりまえになった。仲間はいつだってコメント欄にしかいない。

スマホゲーム、アイドル、Nintendo。どれもかなり強いコンテンツなのに、職場の誰かがこれらについて話しているのを聞いたことがない。

だからせめて、「ああその話題はツイッターで見たよ」と言う話でなんとか相手のことをわかろうとする。深くは語れないけれど、あなたのその趣味、ぼくもまったく知らないわけではないから、話くらいは聞けるかもしれないよ、ということだ。

ところが、実際に「ツイッターで見たよ」をぼくが現実世界で言うことは非常に少ない。

なぜなら、


(出た出た、ツイッター。この人こういうのほんと好きだよね)


という目で見られがちだからだ。


いつまでこの「抵抗」を感じ続けなければいけないのか。なぜこうまでも大衆にうさんくさい目で見られ続けているのだろうか。ツイッターというものは。



若い人は我々ほどツイッターに対する抵抗感がないとも言う。でも、若い人なんて周りにぜんぜんいないから、ぼくにとってそこは関係ない。ツイッターよりインスタとかTikTokだと言われてもそこは別にどうでもいい。摩擦が生じるのはとにかく中年との関係だ。令和にもなっていまだに「ツイッター!?」みたいな態度を続ける中年たち。本当に、何を考えているのか? そこはもうスッと、Suicaで改札を通るとかPayPayでペットボトルを買うとか、そういった感覚の延長として、インフラのひとつとして、ツイッターを受け入れていただけないのはなぜか? いつまで「PCオタクキモい」みたいな平成初期の観念を延長させてツイッターとぼくをじろじろ見下すのか?



ワールドカップで世間がドカドカもりあがっている。「昨日見た?」「見た見た!」「めちゃくちゃ良かったよね!」「良かったー」「試合後のインタビューまで見ちゃった」「見た見た! ぜんぶ見た」「長友うけたよね」「うけたうけた」「ブラァボー!」「ブラアァボオゥ!」「ツイッターでもあの部分の動画だけ回ってきたよ」(スンッ ……は? ツイッター?)←なんでここでいきなりスンってなるの? 



医学的な相談を受けることもある。「ねぇねぇワクチンってさあ」「うん」「あれ何回打ったらいいの?」「そうねえ、何回っていうか、だんだん効果がとぼしくなってくるから、おすすめって言われるたびに打っといたほうがいいよ」「あーそれネットでも見たわ」「そうでしょう」「副反応がどうとか……」「まあじっくり調べるなら厚生労働省だよ」「そうなんだろうねえ、めんどくさいけど」「わかるわかる」「でも打ったほうがいいんだね」「そうだね、おすすめだよ」「わかったありがとう」「ツイッターで忽那先生とかをフォローするのもいいかもね」(スンッ ……え? ツイッター?)←なんでここまで普通に聞いてたのに最後だけスンってなるの?




かつて「病理医ヤンデル」というアカウント名でツイッターをはじめたときに、(ここはとにかく世間一般にはスンッってされる場所なんだよな、それに気をつけなきゃな)と、自分に対して言い聞かせるようなことを何度もやっていた。自分の心に対して、くりかえし、ここはスンッってされるんだからな、気を付けないとだめなんだぞ、という注意喚起を行った。でもきっとそのうち当たり前のインフラになるだろうと思い続けて10年以上。なってねぇし。どういうことなんだよ。もうずっとこうなのかよ。それにしても人が話した話題が自分に合わないときにすぐに「スンッ」を選ぶ人って、人口の半分くらいいると思うんだけど、そういう半分とはもう一生話が合わない気がする。なんでそうなんだよ。それが進化の結果なのかよ。