2023年6月2日金曜日

より大きな炎

マインドフル・プラクティスという本を読んでいて、ふと気づく。少し前からぼくは、たぶん「燃え尽き症候群的」な場所にいる。

いつがきっかけだろう。春の病理学会が終わったこと? 医学会総会が終わったこと? この春には大きな仕事がいくつかあった。そのどれかで精神的な体力が尽きたのだろうか。


灰になって無気力・無感動かというとそういうわけでもない。ひとまず今は自力で働けており、若手の指導もしていて、学術の仕事も増え続けており、病理学の勉強も今までと同じようにがんばってやり続けることができている。「仕事の意欲」とか「生きる活力」みたいなものはまだわりと余力がある。気力も感動もあるのだ。

しかし何かがなくなったと感じる。

燃え尽きたものはなんだろうか。それは「不安」ではないか、と口に出してみる。とっぴな言い方だが、どうもこれが一番しっくりと来るのだ。

燃え尽きて不安なのではない。逆である。不安が燃え尽きた。

ある種の不安が欠乏しており、不安によって支えられていた心の張りが失われているのではないか、ということだ。


とはいえ、人間の不安がまるごと燃え尽きることなんてない。人は暮らしている限り雑多な不安に付きまとわれる。生・老・病・死みな不安なのは当然のことだ。

しかし、それでも、今のぼくの感覚は、「心の中心にずっとあった、ある特定の不安がまとまって壊死して空洞化した」という感じなのである。


「ある特定の不安」とは、おそらく、「未来が見通せないことに関する不安」だ。ぼくは今、自分の未来が少しずつ見通せるようになってきている。だから不安が減っている。そして、不安が減るというのは、どう考えてもいいことに思えるけれど、じつはいいことばかりではなく、空洞もできてしまう。


未来がわかるならいいじゃないか、ぜいたくを言うな、よかったですねと反応されるかもしれない。しかしコトはそう単純ではないと思う。


毎日コツコツと働いていると、ときどき同僚や他院の医療者、あるいは出版社やメディアの人間から、一緒にあれをやりましょうと声をかけられる。わあ、貴重なお声がけ本当にありがとうございます。こんなおもしろそうな研究を一緒にやっていいんですか? こんな素敵な企画に呼んでいただけるなんてワクワクします。そうやって新しい仕事をやって、周りの人たちといっしょに苦労して、何かを小さく、ときにはちょっと大きく達成して、やった、よかった、またいつか、と言ってニコニコと解散する。


そういうことがたまに起こる今のぼくは、本当にありがたい場所にいる。


しかし、同時に、「そういうことがたまに起こる人間」として確定してしまった。


これは、「できればそういうことが起こってほしいな!」と願っていたときのエネルギーが必要なくなったということである。


ぼくはもう、「声をかけてもらえる」場所にいる。そのありがたさを噛みしめ、これからも呼ばれ続けるように研鑽を積めばいい。


でも、「いくら努力しても、大きな仕事にたどり着けないかもしれない」と思っていたときの、「なにくそ、がんばって大きな仕事までたどり着いてやる!」と思っていたときのエネルギーの行き場がなくなった。


ぼくはこれまで時間をかけて実装してきた「武器」の使い所を失ってしまったのだと思う。



自分が、医療の世界にとって、あるいは社会にとって、何ものでもなかった20代から30代には、「何かいいことが起こってほしい、起こるかはわからないけれど自分で切り開く!」と、抗不安的に努力したり克己したりする一連のプロセスが必要だった。それがだんだん要らなくなってきたことが、ぼくの今の空虚さの根底にあるのではないか。

「だったらもっとでかい仕事目指してがんばればいいじゃないか」と、思わなくもない。しかしそれはより大きな炎を残して燃え尽きていくことと何が違うのか。

気がついたらぼくは、「不安と戦い続けるため」に自分をフィックスしすぎたのかもしれない。そして、年を経て、精神が安定し、社会的な立場がある程度確定して、かつ、社会の大きな不安が変貌していく過程で、抗不安のために築城したたくさんの「城」が少しずつ要らないものになってきて、それを「燃え尽きた」と認識しているのではないかと思うのだ。



以下、似たようなことを考えた日の連ツイをコピペしておいておく。



★メタ認知って言葉を安易に使うタイプの文章がわりとクソだなって思ってて最近はなるべく避けるようにしてたんだけど、まあクソでもいいか~くらいの気持ちで使うと、近頃メタ認知するとなんとなく今のぼく、燃え尽き症候群ではないかと感じることがある。


★で、その、「自分が燃え尽きていること」について自分ではどう思っているのかと考えると、どうも、「燃え尽き症候群ってよく聞くけど、そうならないようにうまく振る舞っている人の前でそれを言うのが恥ずかしいな」みたいな気持ちが一方にある。


★他方で、「燃え尽きたけど炭になってがんばってます笑」みたいなプチバズ狙いみたいなメンタルもちょっとあって、つまりは恥じらいと自己顕示欲を瞬間的に「燃え尽きている」という状態にまとわせることで、何かもう少し大きな「がっくり感」から心を守ろうとしているのではないかと分析している。


★燃え尽きについてもう少し考える。これまでの自分は、さまざまな局面で「将来どうなるかわからない」という不安とぶち当たってきたが、その不安と戦う、あるいはやり過ごすために、心にいっぱい「築城」をしてきた。たぶんその城が今、「一時期よりも兵士を減らしてOKになった」。


★状況の変化によって、さまざまな不安に対する対処がおおむね確定してきた。しかしぼくは、おそらく思春期以降ずっと、不安に城と兵士で対処することにかなりのエネルギーを使っていた……というか「対・不安部隊」で心を満たしていたので、「兵力を減らしてよさそう」となったら心まで空虚になった。


★で、クソワードである「メタ認知」を浅く用いると、そこでぼくが「燃え尽き症候群だな~」となったときに、余った「兵士」を、「燃え尽き症候群だとしたら不安だよね!」と自分に言い聞かせながら、「燃え尽き症候群という不安への対処」に向かわせているように思う。


★つまり、「自分の中にある不安と戦う」ことが行動原理のままずっとやってきたために、今、これまでほどには不安と激しく戦わなくてもいい状態がやってきて、「雇った兵士の使い所がない」ことがかつてないほど「がっくり感」として認識され、それがぼくにとっての燃え尽きの正体なのでは?


★今後、自分がどういう行動に出るだろうかと考えると、これも予期できないほどではなくて(予測可能≒不安が少なくて、それがまた悲しく感じるのだけれど)、 ・新たな不安を探す旅に出る ・生老病死の不安みたいな絶対になくならない不安をフィーチャーする ・今不安であえいでいる人にコミットする


★と、このように予測を立てると、この3つっていわゆる「ツイッターの使い方が終わってる三銃士だよ。」「ツイッターの使い方が終わってる三銃士!?」だと思うのである。ああなるほどこうやって面倒なアカウントになっていくのだなあ、無理もないなあ、みたいなことを今は考えている。