2023年6月23日金曜日

病理の話(790) 臨床医の誤診を病理医が指摘するときのこと

主治医が患者になんらかの診断をくだすとはどういうことか。

例をあげよう。

主治医が、患者の体内にある「影」をみつけて、それを「がん」だと見立てて、手術の計画を立てて、臓器を切り取る。

この「見立て」が診断だ。医療の方針を決める、極めて大事なプロセスであり、かなり専門的なスキルが要求される。


さて、手術が無事終わったあとに、採ってきた臓器を詳細に検索するのは病理医の役目だ。

臓器をナイフで切り、断面を見て、写真を撮り、標本を作って顕微鏡で観察する。

さまざまな手法を駆使して、病変の中にある細胞の性状を調べる。

そして、病理医はあらたに「病理診断」をくだす。


すでに主治医は患者に対して診断を付けている。しかし、細胞まで見ると新たにいろいろなことがわかるので、病理医は顕微鏡を見た結果を踏まえて、あとから診断をアップデートする。


ほとんどのケースで、病理医は、主治医の見立てとほぼ変わらない病気を見いだす。

主治医の診断=病理診断、である。


しかしまれに、主治医の診断とは似ても似つかないような病理診断が付くことがある。


一番わかりやすい、しかしぞっとする例。

「がんだと思って手術したのに、病理診断はがんではなかった」

こういうことが低確率で生じる。


そういうとき、病理医は診断書に「がんではありませんでした」と書くわけだが……。

それで終わりにしてしまっている病理医というのが、まあそこそこ多い。


誤診が生じたときに、病理医だけが「正しい診断」を指摘して、はいこれで仕事おしまい、とひょうひょうとしているというのは……。

ちょっと、いろんな人にかわいそうだと思う。

主治医は驚き、「なぜ誤診してしまったのか」と悔やみ、悩む。そして当然のことだが患者はびっくりし、悲しみ、怒る。

全ての人が、病理医の「がんではありませんでした」によって、遠回しに殴られる。


実際、誤診だったのだから、病理医がそれを正直に指摘すること自体はしょうがない。

しかし、病理医はもうすこし、医療者として、人として、彼らが今後いろいろと考えていくための資料を揃えたほうがいいのではないか……と、ぼくは考える。

主治医の診断と異なる病気を見つけたときに、病理医ができること。

それは、「なぜこの病気が、間違えて診断されたのか」という理由を、病理医の専門性を駆使して考えて伝えることだ。


胃がんだと思って採った胃にがんがなかった。膵臓がんだと思って採った膵臓にがんがなかった。ならば病理医は、「なぜ主治医チームはこれをがんだと認識したのか」を解析する。それをやらないなら、病理医をやっている甲斐がない……とまで言うと言いすぎかなあ。


病理医は、細胞を見ることで、診断を付けるだけではなく、たとえばこのようなことを言うことができる。

「がんは一般的に、CTではこのように映り、内視鏡ではこのように見える。しかし、今回の病気は、がんではないにも関わらず、細胞の構築がこのようになっていて、間質のパターンがこんなふうになっているから、あたかもがんのように映る

がんではない病気ががんに似た理由をあばく。

ここまで書いてこその病理診断だ。


主治医(たいていはチーム)はこの報告書を見て、「なるほど、だからあんなにがんっぽく見えたのか」と考えるし、結構な確率で、「そうか、だから、がんにしてはいつもと違うこういう像を呈していたのか」と、後付けで納得したりもする。

じつは、こういう誤診例のときには、主治医は、いつものような自信満々の診断ではなかったりすることも多い。

あらかじめ患者に、

「がんが疑われます。しかし、CTや内視鏡のようすがいつもと少し違うため、がんではない可能性もあります。私はこのようなデータからあなたに手術をおすすめしますが、手術のあとに病理医に詳しく調べてもらいます」

のような説明をしていたりもする。

そういうとき、病理医が、「確かにがんに似た細胞の配置をしている。ただ、がんと違うのはこの点だ。」というように、細胞の見た目を余すところなく記載しておけば……。

主治医は納得できるし、患者も(あらかじめ主治医にそういうこともあるかもと聞いているならば)、理由がわかって少しは落ち着けるかもしれない。




病理医をDoctor's doctorなどと呼ぶヤカラがいる。医者のための医者、センセイのためのセンセイってことだろう。鼻につくいやな呼び名だと思う。病理医も医者なのだから患者のための医者であるべきだ。そして、さらにいえば、医療に関係するあらゆる人のための医者であるべきではないか。People's doctorであるべきだろう。ロック様の業界最高峰の美技っぽいネーミングだが。