2023年6月1日木曜日

病理の話(782) 迷っても書く

細胞が、良性なのか、悪性なのか。

悪性だとしたら、その悪い細胞は、本来いるべきでない領域までしみ込んでいるのか、いないのか。

こういったことを、顕微鏡を見る「だけで」わかるというのが、病理医の本来の「強さ」である。

しかし、前置きのテンションからしてなんとなくお察しかもしれないが、じつはそう簡単な話ではない。



日常的にみる細胞の99%くらいは、ある程度訓練した病理医であればパッと診断が付く。良悪をビシッと決められる。浸潤(異常なしみこみ)の有無をはっきり指摘できる。しかし、1%くらいは迷う。

この1%がきびしい。つらい。むずかしい。

1%ならたいしたことないじゃん、と思うだろうか?

年間に15000枚のプレパラートを見ているとして、150枚は迷っているということだ。

けっこうな量ではないかと思う。

おまけに、そのプレパラートの奥には患者がいるのだ。ガラスの上で迷っている内容は、いずれ、患者の治療法を左右する情報になる。

1%はあなどれない。1%はおそろしい。


では、迷ったらどうする?

もっと経験のある病理医にたずねよう。どんな判断基準で細胞を見ればいいのですか、と聞いてみよう。するとまずはこういう答えが来るだろう。

「この教科書に、すごくいい説明が書いてあるので、じっくり読んで勉強してください。」

「この論文が、まさにあなたの悩みにお答えする内容になっています。著者が書いている、顕微鏡診断のコツを、じっくり学んでください。」



勉強しろってことだ。先達の知恵を借りる。なるほど、そんな見方があったのか。こういう基準で細胞を見分ければいいのか。

病理医は一生勉強だ。病気の数が膨大だから、全部に詳しくあり続けるということは無理なので、診断する度にあらたに勉強するくらいの気分でいなければいけない。

そして、勉強すると、1%のうち約半分くらいは解決に向かう。

しかし……0.5%くらいは、それでもまだ、迷う。


「教科書を読んだけれど、教科書の先生も、こういうのは難しいって書いてるなあ」

「論文を読んだけれど、これは諸説ありって書かれてるなあ」

歴史考察モノによく出てきて我々を少し肩すかしな気分にさせる「諸説あり」。なんと、病理診断の世界にも存在する。ぎょっとする。がっかりする。さもありなん、とも思う。だってどう考えてもこの診断、難しいもんな。

ある細胞が、良性か悪性か、「諸説ある」なんてこと、許されるの?

ある細胞が、周りにしみこんで将来転移するかどうか予測するにあたって、「どちらともいえる」なんてこと、病理医が口にしていいの?

困って、悩んで、偉い人に聞いて回る。

すると偉い人も、このように言う。

「ぼくはこう思うけど……それは今までの経験とか勉強してきた結果を踏まえてのことなんだけど……○○大学の別の先生は、違うことを言っているんだよね。」

なんと専門家の間でも話が割れるというのだ。



諸説あって、悩む診断。

病理医は「わかりませんでした。」のひとことでレポートを書いて終わってよいだろうか? 

じつはそういう病理医もいるのだけれど……できれば、もうちょっと、「粘りたい」。


「○○学派ならこう考える。△△派はこう考えるそうだ。つまり人によって解釈が異なる。しかし私が考えるに、この患者においては、将来こういうリスクがあるから、これくらいの治療を、これくらいの頻度でやっておくと安心できるのではないか……」


プレパラートの上でどういう判断を下したら、主治医が次にどういう行動に出るかということを踏まえて、さまざまな意見を丁寧にまとめる。悩むなら悩む理由を共有する。迷うからには迷うポイントがあるのだ、そこをはっきりさせる。

迷っても、書けそうなことをきちんと書く。それが病理医のプロ意識だと思う。

大変だけどな。



ところで、ひとつ、救い……にはならないが参考にできそうなことを言う。

「A病だとはっきりわかる状態」と、

「B病だとはっきりわかる状態」があるとする。

A病だとはっきりわかるときには、A病の治療が効きやすい。当たり前である。

B病だとはっきりわかるならば、B病の治療のほうがよく効く。当たり前である。

では、「A病かB病か迷う状態」のときはどうか?

どちらの治療もそこそこ効いて、かつ、どちらの治療も効ききらない、なんてことがあるのだ(場合によります)。

おそらく、AとBの「中間の性質をもった病気」なのだろう。だから診断も難しいし、治療もなんとなく、どっちもそこそこ効くのだ。

こういうとき、病理医は、「A病とB病で迷っています」と正直に書いたほうがいい。むりに自分だけの判断で、エイヤッと、「迷いましたがA病です!」と書くと、かえって患者の治療選択のキレ味が落ちたりする。



あるいはもうひとつ、参考にできそうなことを言う。

「A病」と聞いた主治医は、ある方針をとる。患者にこういう治療を行い、次は○か月後に病院に来てねとお願いする。

「B病」と聞くと主治医はまた違う方針をとる。A病に比べるとやや強い治療を行い、次はA病よりも少し早めに病院に来てください、という。

では、病理医が「A病かB病かわからない」と言ったときはどうするか?

主治医は、「A病であってもB病であっても通用する治療」を選び、「もしB病だったときに困らないように、患者に少し早めに病院に来てもらう」というような判断をしたりする。

つまり、主治医は、「病理医がわからないと言うこともあるよね」という態度で医療をやっているのだ。だったら病理医は、AかBかで迷ったときに無理矢理エイヤッとどちらかに決めるのではなく、正直に「迷います!」と言えばいい。そんな考え方もある。



けどまあ、心の中だけでぐちゃぐちゃこねくり回していないで、ちゃんと言語化して、主治医に考えていることを共有するのだけは、忘れてはいけないと思う。迷ったならどう迷ったのかを書き、その後主治医がどうするのかを気にするべきなのだ。