2023年6月12日月曜日

なれるまえにある

『深く息をするたびに』(金芳堂)のどこかに、このようなことが書いてあった。何かの本の引用だ。

「私は「なる」ばかりを目指してきたが、「ある」については学んでこなかった」

うーん、もっと違った表現だったかもしれない。目についたときにすぐ付箋でも貼っておけば正しく引用できたろう。しかし、ぼくは付箋を貼りながら本を読むのはあまり好きではない。優れたフレーズを採取するために読書をするような行為にも一理あることはわかるが気が進まない。……とはいえ、今回ばかりはメモくらいしておけばよかった。本を読み終わってからもそのフレーズが頭に残り続けているからだ。

これは最近のぼくがずっと引っかかっている、「燃え尽き」を一行で表した言葉として読める。




これまで、なにかに「なる」ことばかりを考えてきた。そして、ぼくは今、何かに「なった」気がする。すべてがうまくいったとは思わないし、ここが到達点だとも感じてはいないのだけれど、それでも確かになにかに「なって」、そこでいろいろとやっていかなければいけない。

これは「なる」ではなく「ある」を考える日々だ。

「ある」ことで誰かの役に立つ。「ありつづける」ことのすばらしさ。そして、残酷さ。



とかく世の中は「なる」ことを評価する。新しいビルが建って(成って)、新しいお店ができて(成って)、新しい商品が買えて(成って)、といった部分に話題が集まり、お金がまわり、人びとの笑顔が多く見られる。その一方で、むかしながらの店はだんだん興味を持たれなくなる。もともとそこに「ある」ものへの評価はだんだん貧相になっていく。リニューアルという名の「ふたたび何かになる過程」でしか、古い店は輝けない。ほんとうはそんなことないのに。

「就職する」「専門家になる」「結果を出せる自分になる」ことを目指す過程には喜びがあった。でも、「ありつづける」ことへの喜びは、別のやりかたで見出す必要がある。

「自分になりたい」と思ってずっとやってきた。しかし、「これが自分である」と感じる時間が増えるにつれて、今までの報酬回路では自分を奮い立たせられない。



「ある」をやっていく人間にとって、「なる」で得られた喜びをすぐに手放すことは悲しいし、辛い。ではどうするか。

「だれかがなる」のを手伝う側に回る。教育である。今まさに何かになろうと思っている人たちの手伝いをすることで、その人が「なれた!」と喜ぶ姿を見て、自分の喜びに変える。人助けであるし、自分の報酬回路をふたたび回すためのテクニックでもある。

そして、「教育に身を捧げる」ことをしながら、なおも、「自分もさらに何かになる」ことを目指して勉強をするのだけれど、そのような「なる」思考の毎日に、少しずつ、「ある」ことをきちんとやるための訓練をしていく。「ありつづけるように、なる」ということだ。ああ、また、なることばかりを考えている。