先日ポッドキャスト「いんよう!」の収録をしていて気づいたのだが、ぼくの脳の使い方は20代のころとだいぶ変わっている。
かつては音楽を聴きながら本が読めた。しかし今はそれができない。インストでも厳しい。
なぜだろうと考えると、最近のぼくは読んだ文章を頭の中で音にしているからだ。著者の顔と声を知っている場合はもちろんだが、知らない人であってもなんとなく予想で「声優」をあてる。文章を理解するのに音に頼っているから、そこに別の音があると邪魔なのだ。したがって音楽を聴きながら本を読むのが難しくなった。
認知の仕組みの一部に「音」を使っている。より細かくいうと、「音を聴いたときに発火する神経回路を二次利用して思考を回している」みたいな感じだ。伝わるだろうか。ひとつのインフラをいくつもの目的に使っているイメージ。集落の郵便局員が郵便物だけじゃなくて病院からのお薬とか村役場のビラもいっしょに配ってあげるような。
……脳をたとえるのに集落というのは小さすぎるか……。ウーバーでよかったか。
たぶん20代のときは、音よりもむしろ映像を喚起しながら本を読んでいた。映像、あるいは文字をそのまま脳に呼び出していた。するとそこにBGM的にインストが鳴っていてもちっとも認知に支障がない。高橋しんのマンガ「いいひと。」を読んでいたときにたまたまスピッツの「ロビンソン」がかかっていたので、今でもロビンソンを読むと高橋しんの作画が思い浮かぶのだけれど、こういう、脈絡のない音と映像のつながり、みたいなものが近頃は生成されないからやっぱりあれはぼくにとっては10代、20代のころの特異的な認知方法だったのだろう。今だと「いいひと。」と「ロビンソン」を同時に摂取することはむりである。内容に没入したら外から音は聞こえてこないし、歌を聴いていたら目がコマを追っていても話が入ってこない。
いつからこう変わったのだろう。
音を認知に使う仕組みが20代のころにまったく機能していなかったかというと、そんなことはないと思う。しかしそのウェイトは確実に今のほうが大きい。どこかでじわっと変化した。
脳ってずっと同じように使うわけではないのだろうな。サッカーをはじめたばかりの子どもがリフティングするときにはだいたい太ももを使うけれど、サッカー歴20年の中年がリフティングするときにはもっぱら足の甲を使う(それも交互に使う)、これらはサッカーに最適化されるにつれて自然とそのように変わっていく、もしくはそのような指導を受けて矯正される。では今のぼくのほうが「思考を回した経験が多い分、よりよい思考をしている」のかというと……。どうだろう。そういうものでもない気がする。
映像を利用しての認知・思考と、音を利用しての認知・思考では、さまざまな違いがあると思うのだが、ぼくの考える最も大きな違いは、映像は同時に複数思い浮かべることができるのだけれど音はそれができないということだ。ケーズデンキのテレビ売り場に並ぶたくさんのテレビで同時に異なる番組をやっている、みたいな思考が昔は可能だったが、音楽でそれをやると単なる不協和音であり、曲にしても声にしても基本的には一度にひとつの流れ・カタマリ・ユニットしか追うことはできない。だから昔よりも今のほうが、「気は散らなくなった」が、「話しかけられても気づかずに何かをずっと考えている」みたいなことになりがちなのである。
あと……これを書いていて、急に気づいたことなのだけれど、静かな場所で文章を書いているとき、ぼくの頭の中ではその文章が何度も何度もくり返し音に変換されていて、そして、ぼくはこうして両手でキーボードを打っているにもかかわらず、ちょっと指が暇になると頭の中で音読をしながら指を顔の近くに持っていっている。これはなんだろう。クセか? 今は人差し指の中腹あたりを強めに噛んでいた。完全に無意識だった。なぜこんなことをするのか。これをやめると認知にどのような影響があるのか。目の前にある風景が暗くなって音の世界に引きずりこまれそうになるのを防ぐために、痛み刺激でむりやり覚醒させているような感覚がある。どうも思考の流れというのは人ごとにも違うし、時期ごとにも違うし、シチュエーションごとにも違うようで、映像系とか音楽系とかきれいにわかれるものでもなさそうだが、そうか、今のぼくは、触感というか痛覚も使ってものを考えているのか。