おそらく読者の中にも、たとえば、「進学や就職を機に、新しい歯医者に行った」という経験をなさった方がいるだろう。
そういうとき、前の歯医者からレントゲン写真とか詰め物の型などの資料を取り寄せて、新しい歯医者に届けたかというと……大多数の人は、そこまでしていなかったと思われる。私もそんなめんどうなことはしていない。
次の歯医者でまた写真を撮ってもらえばいいや、くらいの感覚。
口腔外科でちょっとおおがかりな手術をしたというならともかく、歯石の除去くらいなら、過去のカルテがなくてもなんとかしてくれる(あったほうがいいんだろうけどね)。
一方で、いわゆる「普通の病院」の場合はそうもいかない。
長期間にわたってお付き合いする病気があり、検査の履歴もたくさん、カルテもどんどん分厚く……違った、カルテの電子用量も増加している場合は、もし病院を変えるならば、カルテを次の病院に引き継いだほうがいい。
そのほうが単純に「有利」である。
病気の診断というものは、なにかひとつの血液検査の数値を見て、高いとか低いとか判断して、マルかバツかでくだされるものではない。
症状の経過や、血液データの推移、CTなどの画像がどのように移り変わっていったかといったように、時間の経過によって「累積」する情報をまとめて判断する。
どんな薬を投与したか、どういう手術を受けたかなどの情報を、すべて持っている主治医がいちばん強い。
というわけで、内科や外科など一般的な科では、患者が引っ越しした場合にはカルテの情報を手紙などでやりとりする。「紹介状」と呼ばれるものがそれだ。患者が前にかかっていた病院から、次の病院に向けて、手紙の形式で送られ、患者がそれまでにどういう経緯をたどってきたのかを説明する。
医師はある程度ベテランになると、紹介状などの「手紙書き」に、かなりの時間を費やす。この作業を早くAI化してくれ! と涙ぐんでいる臨床医も多いとか多くないとか……。AIがカルテをさっとまとめてくれたら確かに楽だろうなあ。
ほかにも、CTやMRI、内視鏡などの画像データを、DVD-Rなどに焼いて次の病院に送ることもある。
新しい主治医は、前の医者がオーダーした画像を、自分の病院のPCで見る。便利な時代だ。もっと未来には、マイナンバーカードなどに個人のデータがすべて紐付けられていればすごく便利になると思うのだが……本邦の市民感情的には、まだ夢物語かもしれない。
さて、病院を引っ越しした際にやりとりされるのは、今見てきたような患者の電子情報だけではない。
「患者から採ってきた検体そのもの」を引っ越しすることもある。
患者が手術を受けると、取り出した臓器はすべてホルマリン固定されて、病理検査室に送られる。その後、刺激の強いホルマリンを抜き、かわりに組織の中にパラフィン(ろうそくのロウ)を染み渡らせて、長期保存の利く「ケミカルな煮こごり」状態にする。
この煮こごりをパラフィンブロックと言う。
パラフィンブロックの一部を薄く切って、ガラスプレパラートに乗せ、色を付ける。このプレパラートを見るのが病理医の仕事だ。
病理医が診断を終えたあと、ガラスプレパラートはしばらく保管されるが、細胞についた色味は10年も経つと色あせてしまう。保管に場所をとるということもあって、ガラスプレパラートは10年くらいで廃棄されることが多い。
しかし、さっきの煮こごり……「パラフィンブロック」のほうはずっと保管しておける。患者から採ってきた大事な検体だから決して廃棄しない。その証拠に、パラフィンブロックにはじつに仰々しい「永久標本」という別名すら付いている。
ちなみにパラフィンブロックの中には細胞が元の形のまま保存されているし、病気の細胞が持つDNAやRNAも残っている。
こうやって書くと、『ジュラシックパーク』を思い出す人もいるだろう。パラフィンブロックは時を超えて患者の情報を今に伝えてくれるのだ。RNAは壊れやすいから、永久というわけにはいかないのだが、3年くらいならなんとかなる。DNAなら10年はいける。
何年も前のパラフィンブロックからDNAやRNAを抽出し、検査して、病気に効く治療方法を探す、なんていうダイナミックな検査もある。
話を患者の引っ越しに戻そう。
患者が、ある種のがんにかかる。治療をする。治療中に引っ越しすることになり、病院を移る。電子カルテやCTなどの情報がすべて新しい主治医の元に送られる。
そして新しい病院で治療を検討している途中で、「遺伝子を検査して治療を考えよう」ということになったら……。
「前の病院で採取した臓器の、パラフィンブロックを取り寄せる」
のである。地域連携室を通じて病理に電話がかかってくる。○年前の○○さんのパラフィンブロックを○○病院に貸し出してください。
OK。がんばっていってこい。パラフィンブロックをガーゼにつつみ、プレパラートの入っていた小さな紙性の小箱におさめ、周囲をプチプチで包んで、送付履歴の残る宅配サービスで発送する。
そういうことをしょっちゅうやっています。今日の話はぜんぜん医学じゃないな。でもめちゃくちゃ医療の話ではある。