2019年11月27日水曜日

師団と索敵が一致している

これから商売をはじめようという人だとか、日々に悩んでいる勤め人であるとか、家族との仲がよくない人を相手に、こう考えたらラクになる、こう行動したらうまくいく、みたいなことを強く伝えるタイプの文章が、たまに苦手で読めなくなる。

そういう文章にはある程度おきまりのフレーズが出てくる。

「手段と目的が逆転している」

なんてのがその最たるものだ。

「それは手段と目的が逆転しています。手段はあくまで何かを成し遂げるためのもの。手段をこなすこと自体が目的になっていませんか? 目的をきちんと見据えましょう」

こういう話は何にでも言えるうえに、書いておくと読んだ人が「ハッ」と自分を振り返って胸に手を当てる効果がある。だから汎用される。

けれどもよくよく考えると、「手段と目的が逆転しているよ」という文章の趣旨は実際には「手段イコール目的になっているよ」と言いたいだけであって、手段と目的が完全に逆転しているわけではなかったりする。だいたい、手段と目的がほんとうに逆転しているならば、かつて手段だった目的をターゲットにして、かつて目的だった手段を用いればいいだけの話であって、それは別に問題でもなんでもない。単に道程を順方向に歩くか逆方向に歩くかの違いだ。順方向に進んだ先に明確な栄光が待っていると信じている人にとってそれは耐えられないことかもしれないが、しばしば人生は、とりあえず足を動かしていれば健康になるという側面をもつ。方向がどっちであっても歩き続けていればなんとかなる。もっとも、止まっていてだめということすら、ないのだけれど。

文章を書く人はなぜか「手段と目的が逆転している」というフレーズを使いたがる。

そうすることでたぶん「受け止められ感」が得られるからだろう。

そういうことに気づいた瞬間からもうだめだ。つまんねえ文章だな、と思う。

そこからは4行くらいいっぺんに目に入れて急いで流し込み、あるいはこの文章のどこかにまだ驚くほどみずみずしいフレーズが潜んでいるかもしれないと、淡い期待を持ちながら残りの文章を読むのだけれど、たいていそんな見事なことばは出てこない。




「使い途のない文章」を読む日が増えていく。それはもしかしたら同人誌あたりにいっぱい眠っているのかもしれないし、あるいは純文学の中に潜んでいるのかもしれない。でもジャンルしばりでそういう文章を探しにいくこと自体が「目的指向」なので、なかなか一本釣りはできない。

自然とタイムラインに頼ることになる。アイコンがかわいいとか、ツイートが短すぎるなどの微妙なフックに釣り上げられてクリックした先にある、noteですらない微妙な媒体の短文を読んで、ほうっと網膜の裏側に色彩が浮かぶことがある。そういう文章はたいてい、「これを読んだからと言って何も、どうしようもない」ものだ。

しかし今こう書いていて思ったが、ぼくはもしかすると、文章の技巧にだけ癒やされているのだろうか? 手段と目的が一致してしまったのだろうか?