インフォームド・コンセントという言葉は頻用されすぎて、もはや人々の注意を集めることも少なくなった。そりゃそうだ、という話だからだ。
「患者に対して、今の状態や今後の治療選択についてきちんと説明をし、理解してもらい、その上で同意してもらって、二人三脚で診療を進めていこう。」
これがインフォームド・コンセントの概念である。何をいまさら、当たり前ではないか、と、誰もが思っていてほしい。
……昔は違った。
医者は治す人。患者は治る人。そこには主従というか能動と受動の関係があって、患者は全てを知る必要などないし、知ろうと思ったって素人だからどうせわからない。だから説明なんてなくていい、圧倒的なカリスマ性で引っ張っていってくれよ、先生!
これが昔の医療だ。今これをやったらだいぶ寒いと思う。
これは別に理念とか倫理の話をしているわけじゃない。単純に、西洋医学は、患者がきちんと「当事者」であったほうがいい。自分の体に今起こっている状況をきちんと理解することは、天気予報をみて傘を持つかどうか、カーディガンやストールをバッグにしのばせていくかどうか、厚手の靴下にするか薄手の靴下にするかと悩んでその日のコーディネートを決めることと変わりがない。知らずに飛び込んでいけば変な汗をかいたりふるえたりして困る。薬をなぜ飲まなければいけないか、飲むとしたらどういうタイミングで飲むべきか、いつまで飲んでいつ飲み終わっていいのか、そういったことを理解しないで投薬だけ受けても病気は治らない。
すなわち、インフォームド・コンセント(説明と同意)というのは、患者と医療者が視点を共有すること、みなが当事者となるために必要なことなのである。決して裁判対策などではない(実際には裁判対策だから、皮肉で書いている)。
そして最近思うのだが、インフォームド・コンセントは何も主治医から患者にだけ向けて行われるものではない。たとえば、病理医から主治医に対しても行われるものである。病理診断というのは非常にマニアックで高度に専門化された知識なので、主治医たちは病理医に病理診断を依頼すると、あとはのんびり結果が出るのを待ち、レポートに書かれた文章を機械的に読んで行動指針とする。しかし本当はそれではだめなのだ。病理医がなぜこのように診断したのか、この診断が何の意味を持つのかを、主治医が「きちんと説明を受けて、納得していること」が、その後の診療において大きな意味を持つ。
つまり病理医もまたインフォームド・コンセントの達人でなければいけない。しかしこのことはしょっちゅう忘れられているように思う。何も医者同士仲良くしろって言ってるんじゃない、言葉をつくしてお互いに当事者であろうとしているか? ということだ。