大学時代に所属していた剣道部には、「剣吉」という名前の部誌があった。一年に一回、原稿を書くように言われ、なにかを書かなければいけない。
四つ上の代のキャプテンは、服がおしゃれでDJのバイトをしており話がとてもうまくて頭が激烈によく卒業後は脳外科医になった。あらためてこう書くと、自分がつらくなるほどにスペックの高い先輩であるが、部誌に投稿する記事までおもしろかった。とんでもない先輩だ。
20年以上昔だから詳しい内容は忘れたけれど、確かそれは「友人の話」みたいなしょうもないタイトルで、しかし今でも一部を覚えている。「友人はよく、小さないい間違いをする。自分で撒いた種、と言おうとして、自分で炊いた豆、ときれいに意味の通じるいい間違いをしていた。」みたいな、とるに足らない、しかしその経験をしたらまず多くの人が「ねえねえこんなことあったよ」と周りに言いたくなるような絶妙の小ネタが書かれていた。
もちろんぼくも剣吉に何かを書いた。しかし何を書いたかはまったく覚えていない。
うまく書けなかったのかもしれない。だからこそ余計に、先輩の書いたものが心に残っているのだろう。そんなとこだろうと思う。
いずれ自分でもなにかこうして自由にちょろい文章を書けるようになるものだろうか、ぼくは確かそこで少し成長したいと思ったのだ。確か。
ちょうどそのころ、ホームページを作った。世に自作のホームページが流行りだしていたころだった。「魔法のiらんど」のようなレンタル型の無料ウェブサービスをちらほら目にしたが、へたなりに自分で絵を描いてトップ画像を作り、ニフティのサーバーを借りてホームページビルダーというソフトを使って自分のホームページを作るほうがいいと思った。
自分の書くものは雑文と呼ぶべきだろうなと思った。随筆とか随想という言葉を使うには自分の文章に随意性は感じられなかった。自意識は羞恥心の殻の内部にパンパンに閉じ込められていた。しかし、「これはいつか世に届く」と言えるほど自分の文章が世にとって価値があるものだとは思えなかった。「ひとつの文章は常に15分以内で書く、だから多少稚拙でも仕方ない、これは即興芸なのだから」と、誰に対して用意したのかわからない言い訳を掲げて、毎日のように何かを書いていた。
大学を出て、大学院を出て、社会人になってもまだぼくはホームページに何かを書いていた。少しずつ頻度は減っていた。ツイッターを始めたときに、ツイッターはブログやmixi、Facebookと連動させようと思って一気に媒体を増やしたが、パソコンを買い換えていくうちにどこかのタイミングでホームページビルダーをインストールし忘れ、そのまま更新しないでいた。
あるとき、うっかり、インターネットのプロバイダーを変更するときに、ホームページのサーバーの契約ごと解除してしまった。一年以上経ってアッと気づいたときにはすべてのデータがなくなっていた。ホームページを作っていたときのノートパソコンもどこにあるかわからず、データのサルベージもやっていない。
日記帳を紛失するように、ぼくは自分のホームページをいつの間にか失っていた。ウェブアーカイブスを使えば一部の痕跡くらいは見つけることができるが、ま、いいかな、と思いそれっきりにしている。
思えばあの稚拙な日々は、文章講義を受けるわけでもなく、名著にどっぷりひたったわけでもなく、ただ竹刀を振ったり居酒屋で眠ったり、およそ研鑽と呼ぶには半端な、振り返ってみればなるほどモラトリアムとしか呼べない雑な積み重ねであった。それが今のぼくを形作っているのだからぼくは自分を笑って肯定する気にはなれないが、当時のぼくにひとつ言いたいことがあるとしたら、「どうせ無理だ」と思いながら毎日キータッチしていたそれは確かに文章力をつける上では役に立たなかったけれど、なぜかツイッターで全リプする根気となって今に残っているよ、ありがとう、みたいな感じである。あと結構本が出るよ。よかったなお前。