病理の話というよりは医学の話をする。
西洋医学はよく「エビデンス」がだいじだという。エビデンス、すなわち証拠なのだが、もはやこの言葉は独り歩きして意味がいろいろとくっついて、雪山をかけおりていく小さな雪玉がいつの間にか大玉転がしみたいなサイズになっているように、複数の意味とニュアンスをあわせもつ化け物みたいな言葉になっている。
医学界における「エビデンス」: 先人たちが病気の診断方法や治療方法、処置の方法などについて、無数の結果を掛け合わせて、統計学的に「このやり方でやるのが現時点でおそらく一番いいだろう」と確認しているもの。
これで簡単に説明したつもりなのだが、ちっとも簡単じゃない。
たとえばぼくが、過去に、「山になっていた木の実を口に入れてみたら甘かった」という、素敵な経験をしたとする。
この経験自体は真実だ。某山に生えていたとある木に、鈴なりになっていた実を食べた。少なくともぼくは甘いと感じた。どこにも間違いはない。
ならばぼくは今後、「山に歩いているときにその木を見つけたら、あなたも実を探して、ひとつ手にとって、食べてみましょう、ぜったい甘いから」と、言いふらしてもいいかどうか?
「ぼくの経験」という一つの証拠(エビデンス)をもって、ほかの人にも、この木になる実を食べてみてよと言いふらしていいものかどうか?
たとえばそれはぼくにとっては甘いと感じられる味だけれども、子供がたべたらむしろすっぱいと感じるかもしれない(中年の味覚は子供とは違う)。
また、同じ木にいつも甘い実がなるともかぎらない。実はその実が熟するのにはとても多くの時間がかかるかもしれない。たいていは未熟なまま木になっているかもしれない。
そして一部の人にとっては強いアレルギーを引き起こすかもしれない。
実が甘いかすっぱいか、ほかの人にも安心しておすすめできるかというのは、たとえぼくの経験が真実だとしても、そう簡単に「誰にとっても真実だよ」とは言えない。
西洋医学というのは常にこの「食べてもいい実、食べたらいいことがある実」を探す学問である。
ある薬を飲んだら病気が治った、というひとつの経験をもとに、だからこの病気に対してはいつもその薬を投与すればいい、と結論するためには、とても多くの手間と時間がかかり、いっぱい頭脳が関与しなければいけない。その手間と時間と頭脳の結果こそが「エビデンス」。
これは常に確率や統計の話とセットで語られる。経験を1から10、100、1000と増やしていって、100万人に使っても、1億人に使っても、デメリットよりメリットの方がたいてい大きいよと予測できてようやく、「臨床応用」される。
100%病気を治す薬はない。がんにかかっても10年後に生きているか死んでいるかなんて誰にもわからない。人によってまるで違う。これらの「いかにも学者がいいそうなセリフ」というのも、すべてこの、エビデンスが膨大な数字の末に組み立てられた結果であることからやってきている。
エビデンスのことを、「無味乾燥だ」と言いたくなる人が、けっこういる。
「そういう数字の話じゃなくてさあ、もっと患者によりそって、一人一人の物語をケアしてくれよ!」
お説ごもっとも。
しかし、エビデンスを数字のマジックであるとか、学者の冷たい理屈であると考えて忌避するのは、ちょっと待ってほしい。
そもそも、強固なエビデンスを積み立てていったのは、別にコンピュータとかAIではない。エビデンスを作ってきたのもまた人なのだということを思い出してもらいたいのだ。
多くの医者や学者が関与した。少しでも世界の医療がよくなるためにと、多くの患者と向き合い、さまざまな治療の効果を検討し、考えて、学会で発表し、論文を組み上げて、教科書にまとめ、ガイドラインを作った。
エビデンスは無数の人々の努力の結果であり、英知の結晶だ。今や数行の冷たい活字になってしまったエビデンスにも、歴史を紐解けば、知性を積み上げるために奮闘した人々の物語(ナラティブ)が、きちんと隠れている。
スーパーでリンゴをみると、ぼくは最近、妙な想像をする。
大昔の人間……ホモサピエンスになる前の類人猿あたりが、野山でみつけたリンゴや、リンゴに似ているけれどあまりおいしくない実、口に入れるとよくないことがおこる未熟なリンゴなどを、次々と食べて失敗を繰り返しながら、少しずつ、「この色のリンゴなら大丈夫だ」と納得するまでにかかった長い時間。
ぼくらはその先に生まれて、親や絵本やテレビから、「リンゴおいしいね」という物語を安心して享受している。
けれどもきっと、リンゴはおいしいよ、というエビデンスが生まれる前に、類人猿たちが無数に試行錯誤したからこそ、今こうしてぼくらの手元に、野山ではなく誰かが育てたリンゴが毎日のように届くのだ。
それこそ、「最初にウニホヤナマコ食ったやつ勇者だよな」みたいな話でもある。